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かくして彼は『彼』となる〈幼少期編〉

ヴェルフランド三部作、第一弾。


 ヴェルフランドには母親についての記憶がない。しかし母親がどんな人であったのかは、父親から聞いた話と周りの反応を見てなんとなく察していたし、肖像画が残っていたためどんな姿なのかも知っていた。


 父曰く「彼女ほど聡明で冷静で美しい人はそういない」。

 皇妃曰く「陛下を誑かした下賎で気味の悪い最低の女」。

 他にも臣下や使用人たちの噂話なんかを盗み聞いていくと、記憶になくても母について全体像はそれなりに掴めるというものだ。


 まず、母はヴェルフランドが二歳の時に亡くなっている。公にはなっていないが、他殺の線が濃厚だ。

 次に、どうやら自分は母親似のようだ。瞳の色以外は母の肖像画にそっくりな容姿だし、父が言うには性格なんかはほぼそのままらしい。

 そして、どうやら母は貴族ではなかったらしい。父に惚れられ妾妃となる前は、腕のいいピアノの演奏者として各地を旅して回っていたようだった。



「やあ、ヴェルフランド。今日も一人で読書かい?」


「かーっ、相変わらずつまんねー奴だなあ。たまにはオレと鍛錬でもしようぜ」



 皇室図書館にいたヴェルフランドのもとへ、二人の兄たちがやってきた。五つ年上の長兄アノーヴァンと、三つ年上の次兄ラトヴィッジ。二人とも皇妃の息子で、ヴェルフランドにとっては異母兄に当たる。さらにヴェルフランドの一つ年下には兄たちの妹もいるのだが、彼女との面識はほとんどないためよくは知らない。



「なあなあ、外行こうぜ外ー。兄さんは体動かすの好きじゃねーし、付き合ってくれるとしたらお前しかいねーんだよ。一緒に剣の素振りでもしようぜ」


「こら、あんまり弟を困らせるんじゃない。読書の時間を邪魔してごめんよ、ヴェルフランド。なにを読んでいたんだい?」



 ええー、と不満げに唇を尖らせる次兄と、ヴェルフランドの手元を覗き込む長兄。二人とも皇子教育でそれなりに忙しくしているはずなのに、なにが楽しいのか時折こうしてヴェルフランドに会いに来る。ヴェルフランドも兄たちと過ごす時間が嫌いではなかったため、彼らを拒むことはしなかった。

 しかしその時、ひどい騒音を立てて図書館の扉が乱暴に開け放たれた。次いで聞こえてきた女性の声に、兄たちの肩がびくりと跳ねる。



「あなたたち! その子と関わらないでと何度言ったら分かるの!」


「は、母上……」


「お前もよ、卑しい身分の女の息子! わたくしの息子たちに近づかないでちょうだい!」



 ヒール音も荒く歩み寄ってきた皇妃は、感情のままに腕を振り上げて勢いよくヴェルフランドの頬を叩いた。大人に殴られた衝撃で、ヴェルフランドは椅子ごと床に叩きつけられる。ガタンッという大きな音と、「ヴェルフランド!」と叫ぶ長兄の悲鳴が響いた。



「あ、あんまりです母上! ヴェルフランドはまだ五歳なのですよ!?」


「お黙りなさい、アノーヴァン! こんな汚らわしい子、そもそも生まれてこなければ良かったのよ!」



 さらなる折檻を重ねようとする皇妃を長兄と次兄が必死に留める。そんな彼らの様子を見て、けれどヴェルフランドは特になにも思わなかった。

 しいて言うなら、まるで見世物でも観ているかのようだった。目の前で起きていることのすべてがどうにも他人事で、自分が殴られたという実感すらいまいち持てない。

 現にヴェルフランドは兄たちがやってきてから今に至るまで、ただの一言も発してはいなかった。なにかを言う必要性を感じなかったので。


 皇妃が何事かを喚く声と、それを宥めようとする皇子たちの声、そしてそれをぼんやりと眺めるヴェルフランド。手をつけられないような状況のなか、こつりと杖をつく音がやけに大きく耳に響いた。



「――これは、皇妃様。それに皇子様方も。いかがなされましたかな?」



 まるで巨木が話しているかのような、深くてしわがれた声がした。杖をつきながらゆっくりと歩いてきたのは、この皇室図書館の司書長たる老人だ。なお、腰はほぼ九十度に曲がっている。



「ここは帝国の叡智が詰まった崇高なる知識の間。利用者はあなた方だけではありませんぞ。このような場所で大声で騒ぐことなど言語道断。いかな皇妃様といえど感心いたしませんな」



 その指摘に皇妃は反論しようと口を開きかけたが、他にも利用者がいるという言葉にハッとしたようだった。慌てて周りを見渡すと、まばらではあるが、確かに本棚の陰にはいくつもの人影が見える。皇妃の頬にカッと血が上った。



「……別に、なんでもありませんわ。それより司書長、わたくしに対する口の利き方がなっていませんわね。でも今回は不問にして差し上げます。次からは気をつけなさい」



 そう捲し立て、皇妃は足早に図書館から出て行った。去り際、「早く来なさい」と息子たちを急かして一緒に連れて行ってしまう。長兄は少し目を伏せて、小さく「ごめんね」とヴェルフランドに囁いてから母のあとを追った。

 嵐が去り、皇室図書館には再び静寂が戻る。ヴェルフランドは溜め息をついた。そして倒れた重い椅子をなんとか起こそうと奮闘する。が、五歳児の力ではとてもできない。



「ご無理をなさいますな、殿下」



 ひょいと椅子を起こしてくれたのは司書長だった。ヴェルフランドは固まる。腰が九十度曲がっているこの老人には普段からなにかと世話になっているが、どうにも謎が多い人物である。とても力なんてなさそうなのに、今だってこの重たい椅子を片手で軽々と持ち上げた。過去にはヴェルフランドを狙った刺客をペーパーナイフ一本で返り討ちにしたことまである。

 今のところヴェルフランドにとって唯一の尊敬する御仁がこの司書長であった。ちなみに本来尊敬の対象になるはずの父帝のことは、良くも悪くもどうとも思っていない。兄たちについても以下同文。皇妃のことはさすがにうるさいと思っているが、それだけだった。



「殿下、こちらへ。手当てをいたしましょう」



 手当て? ヴェルフランドはわずかに首を傾げる。その反応に司書長は苦笑した。



「皇妃様にぶたれていたではありませんか。随分と腫れてらっしゃいますぞ。冷やしたほうがいいでしょうな。痛み止めの水薬(ポーション)もありますゆえ、司書室までお越しください」



 言葉を発さぬ末の皇子にも、司書長はいつも丁寧に接する。手を差し伸べるとまた首を傾げられたので、司書長は「失礼します」と言ってヴェルフランドと手を繋いだ。

 司書室に向かいながら、司書長は取り留めもなく様々な話題をヴェルフランドに振る。一般常識から皇室の決まりに至るまで、その内容は多岐に渡った。

 これがのちに、あの可愛げのない幼なじみすらも驚嘆させることになる、ヴェルフランドの豊富な知識の原点だった。




✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎




 六歳になると、ヴェルフランドにも教師たちがつくようになった。皇妃は教育なんて受けさせなくていいと主張したらしいが、良くも悪くも子供たちを平等に扱う皇帝が、兄たちと同じ教育を受けられるよう取り計らったのだ。

 それにより、学問の教師と、マナーの教師と、ダンスの教師と、剣術の教師がそれぞれ選出された。ヴェルフランドとしては司書長にいろいろ教わるほうが有意義だと思っていたのだが、その司書長に諭されてしまえば仕方あるまい。


 その結果、教師たちは全員泣いた。泣いた理由は様々である。

 学問の教師は、想定を遥かに上回る頭脳を持つヴェルフランドを相手に奮闘するも、彼が終始つまらなそうな顔で問題を解いていくためついに心が折れて泣いた。

 マナーの教師は開始三分でヴェルフランドが居眠りを始めたため、自分が不甲斐ないのだとか言って泣き、ダンスの教師に至ってはヴェルフランドがばっくれたため矜恃を傷つけられて泣いていた。なお、この三名に関してはヴェルフランドが悪いのであって教師たちに責任はない。

 そして剣術の教師は気合いが入りすぎていたのか、小手調べの段階で六歳児のヴェルフランドを柵の向こう側まで吹き飛ばしてしまい、開始十分でクビになって泣いた。この件だけは教師のほうが悪かった。



「そんなわけで、どうすればいいと思う?」



 わざわざ司書室までやってきた皇帝の問いかけに、司書長はどこか困ったような、なんとも言い難い顔をした。



「なぜわたしに尋ねるのです? 単なる司書長でしかないわたしが、殿下の教育方針に口を出せるわけもございませぬ」


「単なる司書長? お前がか? ……ついにボケたのかな?」



 電光石火のごとき速さで司書長の杖が皇帝に向かって飛んだ。



「やかましいわい! 誰がボケ老人じゃ!」


「ひえっ、すみません師匠」



 間一髪のところでギリギリ杖を避けた皇帝は、青くなりながらも反射的に謝った。とても皇帝のすることではないが、幼少時代から司書長にはいろいろと『可愛がられていた』身だ。おかげで凡人ながらなんとか皇帝としてやっていけている。

 周りに人がいないのをいいことに、皇帝は往生際悪く司書長に食い下がった。



「いやでも真剣な話なんですってば。あの子は母親に似てとても優秀で、たぶん普通の教育じゃあの子には物足りないんです」


「ふん、お主らしい凡庸な表現じゃの」



 司書長は鼻を鳴らし、ぺらりと一枚の紙を皇帝に差し出した。ヴェルフランドがここ半年で読破した本の一覧表だ。それを見た皇帝は戦慄する。いい歳の大人でも一目見ただけで目を回しそうなものばかりだ。



「あの子は優秀なんてもんじゃないわい。あれは鬼才じゃ。しかし皇妃様のおかげで随分と人生を諦観しておるぞ。このままいけば数年以内に勝手に出家でもしそうじゃな」


「出家!? じゃなくて、あの子が人生に諦観って、どうして」


「皇妃様のおかげと言うたじゃろうが」



 本来なら守ってくれるはずの母もなく、義母からは心底毛嫌いされ、存在そのものを否定され。しかも皇妃たる女性がそのような扱いをするものだから、臣下たちも使用人たちも当然のように彼のことを軽んじる。頼みの綱であるはずのポンコツ皇帝は、子供はみな平等の精神であるため、立場が弱いからといって大っぴらに彼を守って贔屓することもない。

 そんな皇宮で、なんとか六歳まで生き抜いてきたヴェルフランドだ。もはや誰かを嫌ったり憎んだりすらしない。なにも思わないわけではないだろうが、なにも感じなくなってきていることは確かだろう。



「とはいえ、お主の平等精神が悪いとは言わん。これが一般家庭であれば問題かもしれんがな。しかしここは皇宮で、あの子は帝国皇子。ドン底から這い上がってこその『本物』じゃ。だからこそティルカーナ公爵家も黙認しておる」



 言うだけ言いながらもヒントだけはくれた司書長に、皇帝は勢いよく顔を上げた。



「……皇帝(わたし)が命じれば、ティルカーナ家は動いてくれるでしょうか?」


「渋りはするであろう。しかし、あの子に相応の教育を受けさせたいというのなら、あそこに頼るしかあるまい。奇人変人揃いなのが玉に瑕じゃが、無駄に有能な一族であるのは周知の事実じゃ」



 八方塞がりに思えたヴェルフランドの教育方針に一筋の光が差した。ここへ来たときの足取りの重さはどこへやら、皇帝は元気を取り戻して足取りも軽く司書室から出ていく。

 司書長は溜め息をついた。まったく、相変わらず要領が悪い弟子である。

 けれど彼の頑張りも司書長は正しく評価していたし、認めていた。あの凡人にとって玉座は荷が重かろうに、よく耐えているものだ。



「さて、どうなることやら」



 腰を直角に曲げたまま、司書長は先ほど皇帝に投げつけて()()()()()()()()杖を、ヨボヨボと取りに行くのだった。




✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎




 司書長の予想通り、ティルカーナ家は第三皇子に直接教育を施すことに難色を示した。理由は簡単で、不平等だからである。

 もっと成長してからティルカーナ家の訓練に任意で参加する分には構わない。しかしまだ年端もいかない子供相手となると話は変わってくる。

 第一皇子と第二皇子にも同じ教育を施すならいいとティルカーナ家が答えると、皇帝は「それはダメだ。たぶん死ぬ」と首を横に振った。


 ひたすら平行線を辿っていた交渉という名の言い争いは、ヴェルフランドが八歳の時にようやくひとつの決着を迎えることになる。

 すなわち、直接教育を施すというより、ヴェルフランド本人にやる気を出させる方向でティルカーナ家が動くことになったのだ。


 教育問題が膠着状態になっていた間、ヴェルフランドはおもに皇室図書館でひたすら本を読み漁っていた。学問はもちろん、マナーやダンスや剣術に関しても、実技こそ未経験だったが多種多様な知識だけはどんどん吸収していった。


 その日もヴェルフランドはいつも通り皇室図書館の奥で大量の本を積み上げて、その中に埋もれそうになりながら分厚い本のページをめくっていた。奥にいれば皇妃も立ち入っては来ない。実に平和な空間だ。

 しかし、そんな平和な空間も、一人の侵入者によって崩壊することになる。



「――――」



 味方といえる人物など司書長くらいしかいないヴェルフランドは、他人の気配に人一倍敏感だった。だから、本から顔を上げることもなく、誰かがじっとこちらを見ていることには気がついていた。当然無視していたけど。

 しばらくして、控えめな靴音がした。その誰かが一歩一歩こちらへと近づいてくる。それでも無視して読書を続けていたら、声をかけられた。



「あなたがアークディオス帝国の第三おうじ、ヴェルフランド・セス・アークディオスでんかですか?」



 思っていたよりもずっと幼い女の子の声に、思わず顔を上げてしまっていた。

 琥珀金の髪とアメトリンの瞳が視界に入る。もしかしたら異母妹よりも年下かもしれない彼女は、驚いてしまうほど整った顔立ちをしていた。驚いただけで、別に感嘆しないところが安定のヴェルフランドであったが。



「わたしは、ティルカーナこうしゃく家のリンソーディア・ロゼ・ティルカーナと申します。いご、お見知りおきを」



 ヴェルフランドは返事をしなかった。彼女の挨拶になんの反応も返すことなく、興味が失せたとばかりに再び本へと視線を落とす。

 けれどその冷たい反応を見ても、リンソーディアは泣きも怒りもしなかった。むしろ納得したように数回うんうんと頷いた。



「聞いていたとおりです。ほんとうにゼンマイじかけみたいな人ですね、でんかって」


「――はっ?」



 この時、ヴェルフランドは八歳、リンソーディアは六歳。

 皇室図書館の奥、何百冊と積み上げられた本の中、二人はこうして出会ったのだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ヴェルフランドの幼年期、意外にも(?)お兄さまお二人が、温かな心根の持ち主で癒やされました。 ヴェルフランドは全然興味なさそうですが…。 妾腹とはいえ同じ皇子の位にあるにも関わらず、扱いの…
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