滅亡までの序曲
アークディオス帝国滅亡より前のお話。
今月に入って三度目の遠征だった。
ウィズクロークとの国境沿いで頻発している小競り合い。そこに毎度のごとく駆り出されているソティーリオは、本陣でひとり溜め息をついていた。日はとっくに暮れており、焚き火を眺めているその秀麗な横顔には子供じみた影が差している。いい加減うんざりしているようだ。
「おい、リオ。その『早く帰りたい』みたいな怠そうな顔をやめろ。お前がそんなだと全体の士気も下がるだろうが」
「もう取り繕う気力もないんだよ。うんざりしているのは君だって同じだろう?」
パチパチと火の粉が飛ぶ。ぼんやりと焚き火を眺めていたソティーリオのそばにやってきたのは、第三皇子のヴェルフランドだった。冷酷非情と名高い彼と、『悪魔の貴公子』たるソティーリオ。彼らのそばにあえて近寄る猛者など誰もおらず、他の兵たちは少し離れたところで別の焚き火を囲んでいる。
しかしこの距離感は二人にとってむしろありがたいものだった。周りを気にすることもなく、遠慮なく内輪話を繰り広げることができる。
ヴェルフランドは緩く視線を走らせた。ここにいるはずのもう一人の幼なじみの姿がない。
「ディアは?」
「近くの川で魚釣って来るって」
「敵地のそばで夜釣りか。あいつ正気か?」
「失礼だなあ。少なくとも狂気ではないよ」
狂気ではないが、正気とも言い難い。要はいつも通りということだった。ヴェルフランドは「そうか」と気のない相槌を打って視線を焚き火へと戻す。パチン、と薪がはぜた。
「……ねえ、今回の遠征どう思う?」
「どうもこうも。まるで意味がない消耗戦だ。お前ほどの人材を三回も投入しているのに終わらない。人命と物資が失われていく一方なのに、ここで退けば恐らく一気に攻め込まれるだろうから下手に退くこともできん」
最悪だ、とヴェルフランドが吐き捨てる。ソティーリオも同感だった。
嫌に長引く消耗戦。ウィズクロークの狙いが分かっていればまだしも、それすら分からない。分からないから、後手に回るしかない。
「だからこそ君が出陣ることになったんだよね」
ソティーリオの言葉に、ヴェルフランドは答えなかった。その沈黙が答えだった。
アークディオス帝国の第三皇子。あまりにも強い彼とまともにやり合える人材なんて、帝国には二人しかいなかった。ソティーリオと、ソティーリオの父だけ。あのリンソーディアでさえ彼には敵わない。
けれどこの程度の小競り合いに、他でもないヴェルフランドが出陣せざるを得ないという状況が、どうにもソティーリオは気に食わなかった。まるでとても頭のいい誰かによって引っ張り出されたかのようで。……心当たりは、なくもない。
「クライザーかな」
「たぶんな」
政治的手腕はもちろん武勇にも長けている、人望厚きウィズクロークの『完璧な』王太子。父王の望みをひとつ残らず実現してみせるその手腕は、ヴェルフランドもソティーリオも認めざるを得なかった。綺麗事だけではなく、目的のためならどんな手段でも使うというそのやり方に、一種の敬意を込めて。
ただし、父王の望みを叶えているとはいえ、クライザー自身は決して父王の傀儡などではなかった。どちらかと言えば、彼のほうが父の望みを上手く利用して、自分の望みをいくつも叶えてきている。
「彼、よっぽど君のことが嫌いなんだねえ」
「ふん。好かれるよりは百倍マシだ」
きっぱりと言い放つヴェルフランドに、ソティーリオが「そういえば」と続けながら焚き火に小枝を放り込んだ。
「だいぶ前にディアがさ、クライザーを殺したくない気がするってボヤいてたんだよね」
「……ほう。それはまた」
意外な言葉にヴェルフランドは片眉を上げる。そうか、ついにリンソーディアにもその感情が芽生えたか。
「しかもね、よく分からないって感じだったんだよ。なんでそう思うのか分からないって。可愛くない? 誰かを殺したくないなんて、そんな当たり前の感情に戸惑う僕のディア超可愛くない?」
「分かった分かった。お前の妹が可愛いことはずっと前から知ってるから、とにかくお前はあっちに行け。あんまり近寄るな、鬱陶しい」
同意を求めて距離を詰めてくるソティーリオを押しのける。デレッと笑み崩れた顔が心底うるさい。
まっとうな感覚を持つ人間であれば、たとえ相手が悪人であったとしても人を殺すことには抵抗感がある。しかし、どうにもその感情が欠落してしまっているのがティルカーナ公爵家だった。
戦うのが当たり前。殺さなければ殺される。そんな過酷な環境に身を置き続けていることもあり、敵である相手にはどこまでも非情になれる一族なのだ。
けれど同時に、戦場にいるからこそ、命の儚さと尊さから目を背けるべきではない。そのためティルカーナ家では、敵に対してすら『殺したくない』と思えることは成長である、という考え方が浸透していた。ようやく人並みの感覚を得たという意味合いも込めて。
殺したくない相手を殺さないでいられる。それはとても当たり前のことで、けれどどんなに幸福なことなのか。
だが、いくら殺したくなくても、戦場にいる以上は手を止めた時点で死が待ち受けている。人並みの感覚は戦場では不要だ。実に難儀な一族だった。
それにしても、とヴェルフランドは腕を組む。リンソーディアの変化は確かに喜ばしいことだが、ひとつだけ苦言を呈するならば。
「……なんでよりによってクライザーなんだ?」
「ねえ。ちょっと男を見る目がないよね。でもまあ、クライザーって君に似ているところもあるし、仕方ないのかな。そりゃ同情的になるっていうか、放っておけないというか」
聞き捨てならないその言葉に、ヴェルフランドは不満げな表情を浮かべた。
「ちょっと待て。俺のどこがあいつに似てるって言うんだ」
「え、自覚なかったの? 紙一重でこっち側にいるのが君で、それができなかった欠陥品がクライザーじゃないか。あいつはいわば君の劣化品。君があいつを嫌うのも同族嫌悪でしょ。ディアに強く惹かれてるところまでそっくりだし、君とどこが違うって言うのさ」
いけしゃあしゃあと言うソティーリオの言葉にヴェルフランドは目眩を覚えた。なんだか頭痛がする。知りたくなかった現実を突きつけられたかのようだ。否定できないところがつらい。
ヴェルフランドはふらりと立ち上がった。そして黙々と剣の素振りを始める。人に八つ当たりしないだけまだマシなので、ソティーリオは殺気ダダ漏れな親友を止めることはしなかった。少し離れたところにいた兵たちがヴェルフランドの殺気にビビっているが、それは別にどうでもいいことである。
しかし、それも長くは続かなかった。目ざとい見張りの兵たちが鬼気迫る顔で駆け寄ってくる。
「ヴェルフランド殿下! ソティーリオ様! 烽火が上がっております! 敵襲の合図です!」
兵が指さす方向を見て、ヴェルフランドとソティーリオは同時に息を呑んだ。烽火が上がっていたのは、リンソーディアが行ったはずの方角で。ソティーリオは思わず呻いた。
「ディア……!」
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さて、どうするか。
合図の烽火を上げたリンソーディアが、なにかを振り払うかのように剣を一度大きく振るった。途端、血がざあっと地面に落ちる音がする。
「せっかく大漁だったのに、気分が台無しですよ」
彼女の傍らには網の中でビチビチと蠢く川魚たちがいた。穴場かと思うくらい調子よく釣れていたのに、予想外の敵襲に遭ってしまって中断せざるを得なかったのが悔しい。
だがしかし、アークディオス軍に奇襲を加えようとして、たまたま釣りをしていた戦姫と鉢合わせて任務失敗に終わるなんて、敵兵たちのほうが悔しかろうとも思う。お互い見て見ぬふりでもすれば平和だったのだろうが、さすがにそうもいかず戦うしかなかった。そして結果はご覧の通りだ。
こうなってしまった以上は釣りを続けるわけにもいかないので、リンソーディアは渋々本陣に戻ることにした。役目を終えた烽火を消して、一応釣った魚も持ち帰る。どういう状況になっているのかまでは分からないが、魚を焼く時間くらいはあるかもしれない。
「ディア、無事か」
騒然としている本陣に戻れば、総大将であるヴェルフランドが足早に歩み寄ってきた。
「殿下、状況は」
「リオが兵を率いて出撃した。奇襲を受けた形だが、お前の烽火のおかげで余裕を持って迎撃できたからな。本陣まで乗り込まれずに済んだ」
どうやら合図が間に合ったようだ。ヴェルフランドから情報を聞きつつ、リンソーディアは遠い目をする。のんきに魚を焼いている場合ではなさそうだ。
「リオが発狂するほどお前の心配をしてたぞ。泣く泣く出て行ったが、……あの感じなら心配ないだろう」
妹を溺愛している彼のことだ。本心を言うならリンソーディアのもとに駆けつけたくて堪らなかっただろう。
それでもソティーリオはティルカーナ家の人間として、妹のもとではなく前線へ行くことを選んだ。それでこそアークディオス帝国の盾、帝国の絶対守護者と謳われるティルカーナ公爵家である。
ヴェルフランドと一緒に本陣の中を歩き回りながら、リンソーディアは運び込まれてくる負傷兵の様子を観察した。思いの外、矢傷が多い。
「……前線の様子は分かりますか?」
「かなり入り乱れた乱戦状態だとさっき報告が上がってきた。どうやら敵の弓兵があちこちから攻撃してくるせいで、陣形を組もうにも矢を避けながらだと難しいらしい」
ふむ、とリンソーディアは考える。ならば自分がするべきことは。
「殿下、弓兵を数名お借りしたいのですが」
「好きなだけ連れて行け。……無事でいろ。頼んだ」
「あなたに無事を願われると逆に不吉ですね。あ、そうだ。先にこれでも食べていてください」
なにげに失礼なことを言いつつ、リンソーディアはぶら下げていた魚の網を幼なじみに手渡した。ヴェルフランドは微妙な顔でそれを受け取る。
「釣ってきたのは私なので、私の分も取っておいてくださいよ。できれば焼いておいてくださればなお嬉しいです」
「……お前のその図々しさは、戦場にいるとより清々しく見えて不思議だな」
「褒めても魚にかける塩くらいしか差し出せませんよ」
「安心しろ、まったく褒めていない」
ちなみに二人の様子を遠巻きに見ていた兵たちは、「この状況下であれほど泰然としておられるとは」「この程度のことで動じるなということなのだろう」「我らも殿下たちに恥じぬ働きをしようぞ」とか言って互いに鼓舞し合っていた。そして幸か不幸か、その好意的な誤解を解いてくれる者など誰もいないのだった。
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結局、ウィズクロークの奇襲作戦は失敗に終わることになる。予想以上に早く勘づかれてしまったせいで余裕を持って迎撃され、しかも総大将がヴェルフランド、最前線にはソティーリオという布陣ではさすがに分が悪い。ただ軍の質はウィズクロークのほうがわずかに勝っていたため、そこを突けばまだ勝算はあったかもしれない。
どこからともなく、雨のように矢が降りしきらなければの話だったが。
十分な数の弓兵を確保したリンソーディアが、敵の弓兵たちが潜んでいた場所を探し出して急襲をかけたのだ。そうすることで前線にいる兄たちが体勢を立て直す猶予を与え、そのあとは敵の本陣と前線の敵兵たちに矢を浴びせかけて自軍を援護。夜間であるためどこから矢が飛んでくるのか判別できなかったウィズクロークは、最終的に撤退を余儀なくされた。
その報告を聞いたクライザーは、しばらく続けていた国境沿いでの小競り合いを中止するよう命じた。
「うーん、さすがにあの三人が揃ったんじゃこれ以上の調査は無理だね。でもこれでアークディオスの戦力はだいぶ把握できたかな」
戦争ともいえない小競り合い。それを何度も続けることで、彼はアークディオスの軍事力がどれくらいなのかを大まかに調査していたのである。
父の望みであるアークディオス帝国の征服。そして自国ウィズクロークを大帝国とし、さらなる力を、さらなる発展を。それを成し遂げることこそが、クライザーの当面の任務だった。
多少の苦戦は強いられているものの、計画は着々と進んでいる。早ければ一年以内には目的を達成できるかもしれない。
「これで僕は、また一歩リンソーディア様に近づける」
クライザーは昏い笑みを浮かべた。悲願の達成を目指し、今日も彼はアークディオスを滅ぼすために暗躍を続ける。