終幕
嵐の夜だった。窓はがたがたと揺れて、外は真っ暗で、激しく叩きつける雨粒はまるで窓をノックしているようにさえ感じられた。
(今日の薬は苦かったわ……)
わたしの記憶を戻すため、先生は色々な調合を試した薬を作ってくれている。けれど今のところ、そのどれも効果はないみたい。
今日なんて、あんまり苦くて喉を通らなかったから、飲んだふりをしてこっそり吐き出しちゃった。
寝台に浅く腰かけて、窓の外を見る。
外は、どれくらい強い雨が降っているのかしら。ふと気になって、立ち上がって窓に向かう。
「開かない……」
立て付けが悪いのか、取っ手を掴んで揺するが窓は開かなかった。仕方なく諦めて手を下ろし、目を凝らして、暗い野外を見透かそうとする。
月明かりも射さない夜の森は、暗くて何も見えやしない。窓ガラスの反対側を、雨が滝のように伝っている。
雨樋を流れる水音を聞きながら、わたしはカーテンを閉じようと手を伸ばしかけた。
――そのとき、何かが森の奥できらりと光った気がした。
(え?)
思わず、目を見張って窓へかじり付く。外に、誰かいるの?
両の手のひらをぴたりと窓につけて、わたしは浅く息をする。さっき見えた光は、まるで誰かが手に持ったランタンのように見えた。でも、今はもう見えない。
見間違いだったのかしら。首を傾げた直後、また、光が暗闇の中に浮かび上がる。三秒ほどおいて、消える。さっきよりも、近い。
まるで何かの手品のようだった。見えるはずのものが見えていないみたいな、不思議な心地。
光は間をおいてふっと浮かび、また消えるのを繰り返した。そうしながら、こちらへ向かって近づいてくる。ちょうど、人がゆっくり歩くのと同じような速度で。
「……あなたは、一体、だれなの?」
小さな声で呟く。その問いに答える声はない。
光が近づくにつれ、その輪郭が見えてくる。やはりランタンなのだ。
古びたランタンが時折、木に吊される。そして数秒経ったら、音もなく掻き消える。少しして、更にこちらへ近いところの枝にランタンが灯る。前回と同じものである。
それはまるで、わたしには見えない手が、ランタンをこちらへ運んでいるかのように見えた。
『賢者さまは三つの呪いを使えるんですって』
何の脈絡もなく、そんな言葉が脳裏をよぎった。これは誰の言葉だろう。思い出せない。思い出せない……。
何とか記憶を辿ろうと眉を寄せた瞬間、首の後ろが鋭く痛んだ。思わず強く目を瞑る。
エルルが言ってた。確か一つ目が、記憶を消す呪いで――
(誰の言葉?)
知らない誰かが、わたしに語りかけている。エルルって誰のこと? わたしの知っているひとなの? 誰がわたしに教えてくれたんだっけ。思い出せない。どうして……。
と、目と鼻の先の窓の向こう、ほんの少し出っ張って雨に濡れている桟に、ランタンが音もなく出現した。
わたしの目には見えない誰かが、そこにランタンを置いたみたいに。
誰かが窓の向こうから、じっとこちらを見ているみたいに。
どこか遠くで、声が続けて言う。わたしの頭の中で反響し、声は徐々に大きくなる。
――二つ目は、特定の相手を認識できないようにする呪い。
うなじが熱を持ち、焼け付くような痛みが走る。これは一体なに?
「たすけて、先生……」
わたしの大好きな先生なら、すぐにわたしを助けてくれるはず。そうして、怖かったねって言って、わたしをぎゅっと抱き締めてくれる。
そうすれば、わたしはどんなことがあったって大丈夫な気がした。大好きな人のそばで生きていける以上の幸せなんて、この世にはないんだから。
――三つ目は、ひとの心を操る呪いなんですって。
(…………。)
頭の中心が、きんと冷えて冴え渡ったような気がした。はたりと瞬きをする。わたしを苛んでいた耳鳴りがふつりと途切れた。
背中に流していた髪を片手でかき分け、わたしは手のひらを慎重にうなじに押し当てた。窓をじっと睨んだまま、ゆっくりと上体を捻る。
外は暗く、濡れた窓はまるで鏡のようにわたしの姿を映した。
うなじに並んだ三連星。
星の形の焼き印は、呪いの痕跡。
どこか遠く、何十年もの時を隔てた思い出の中で、彼が空に向かって指を伸ばすのだ。
『ヘレカ、おれの名前さぁ、あの星座からつけたんだって、父さんが――』
その名を唇に乗せると同時に、窓が僅かに軋んだ。次から次へと雫の流れる硝子に、大きな手形が浮かび上がる。
震える手をもたげて、焦れるほどに時間をかけて、わたしはそっと、その手形に自らの掌を押し当てた。
束の間、息ができなくなるほどに胸が締め付けられる感覚が襲う。
「うう、あ……」
堪えきれずその場に崩れ落ち、必死に声を殺して嗚咽する。
――全部わかった。
わたしは全部わかっている。森の中のことも、外のことも。
「何年、わたしを待ってくれているの?」
声にならない声で呻く。何年わたしはここにいた? 一体どれだけ……。
わたしは壁に手をついて立ち上がり、窓の取っ手を強く掴んだ。
全身の体重をかけて揺するのに、窓は軋むだけで、開く様子はなかった。鍵はかかっていないのに、どんなに力をかけても開かない。
結界だ。この家全体を覆うようにかけられた魔法が、全ての出入り口を封じている。
危ないものが入ってこないように? 違う。わたしが外へ出ないように。
窓が向こうからも揺さぶられる。開かない。
雨が降りしきる。激しい雨音を立てて、大粒の雨がいくつもいくつも地面に叩きつける。
「たすけて、」
熱いものが目尻から零れて、頬を伝う。
「出たいよ、わたし、この家から出たい」
しゃくり上げながら、わたしは両の拳で窓を殴った。硝子は割れない。
「嫌だ! たすけて……ここから出して!」
半狂乱になりながら、窓に向かって燭台を思い切り振り下ろす。何度も、渾身の力を込めて窓を叩く。
耳障りな音とともに、窓に蜘蛛の巣のようなヒビが入った。足元に硝子の破片が落ちる。
瞬間、背後で扉が開いた。
「ヘレカ、もう夜だよ。何を大騒ぎしているのかな」
息を吸った拍子に、ひくりと肩が揺れた。
「あ……」
振り返る。
賢者は静かな面持ちで私を見ていた。何も言わずに、両手を背後に回したまま、力の抜けた立ち姿で戸口のところで瞬きをする。
「ヘレカ。窓を割ってはいけないよ」
外から窓が叩かれている。聞こえない声が、私を呼んでいる。私には見えないあの人が、私を見ている。
「こちらへ来なさい。両手を挙げて、窓から離れなさい」
私は顎を引いたまま、賢者を睨みつけて唸った。
「……嫌だと言ったらどうするの?」
「窓の外のそいつを、殺すよ」
「人は殺せないって言っていたはずだわ」
「やり方はいくらでもあるんだよ、ヘレカ」
指一本も通らないような小さな穴から、冷たい空気が吹き込んでいた。寝間着の裾がはためき揺れる。
私は無言で腕を背後へ振り抜いた。握っていた燭台が、また窓を打ち砕く。穴が大きくなる。
「ヘレカ、今すぐ窓から離れなさい」と賢者が声を尖らせる。
「私の名前を呼ばないで」
「そういう話じゃない。早く、こちらへ、……」
その声に焦りが滲むのに気づいて、私は眉をしかめた。何をそんなに警戒しているのだろう? 窓の方を振り返って、私は目を見張った。
左腕に異変が生じていた。肉はそげ落ち、皮膚は張りを失ってたるみ、幾重にも皺を作っている。血管の浮いた前腕、しみの浮いて乾いた肌。これではまるで、――老婆の腕だ。
はっと、窓の穴を見やる。細い風が吹いている。外の空気が私の左腕に吹き寄せている。
(これは……)
声もなく腕を見下ろす私に、賢者が掠れた悲鳴を上げた。その顔は蒼白で、恐慌と言っても良いほどの形相である。
「ヘレカ!」
賢者が叫ぶ。手を伸ばして、私の右腕を掴むと強く引っ張った。
つんのめり、床に膝をついて倒れ込んだ私を、賢者が強く抱き竦める。咄嗟に振り払おうとして、その全身が震えていることに気づいた。
肩に雫が落ちる。
「どうしてあなたが泣いているの? そんな資格があるとでも思っているの」
厳しい声で言い放つ。右手で相手の胸を押すが、腕は離れない。「ヘレカ」と弱々しい声が耳元で呼ぶ。
「いかないで、ヘレカ」
深い怒りで体が打ち震えた。歯を食いしばり、一度大きく深呼吸をする。
「私は、あなたに全部を奪われたのよ」
低い声で呻くと、絡みつく腕は一層締まった。
「私、ぜんぶ思い出したわ。……もう、あなたの言いなりになんてならない」
吐き捨てて、私は今度こそ強く賢者を押しのけた。立ち上がり、軽蔑を込めて相手を見下ろす。
一歩下がって窓へ近づこうとした私の手を捕まえて、賢者が首を振る。
「駄目だ!」
「何が駄目なの」
尖った口調で言い放っても、手は離れない。
これ以上声を荒げても不毛だ。一度息をつくと、私は皺の浮いた掌を首の後ろに押し当てた。
「……一つ目に、あなたは、呪いで私の記憶を封じた」
床に膝をついたまま、賢者は無表情で私を見上げた。一拍おいて、その口元に薄い笑みが浮かぶ。
「何も知らない私に、記憶を戻させるための薬と言って投薬を続けたわ。でもあれ、本当は呪いを強化するためのものでしょう」
実際、あれを飲まなかった日は夢を見ることが多かった。朝目が覚めたときには忘れているような、いつかの幸せな記憶である。
「ヘレカ、賢くなったね」
冷ややかに賢者を見下ろし、私は手を下ろした。
窓を見やる。誰も見えない、ランタンだけが置かれた窓辺だ。
「……彼がここを見つけたのはいつ?」
「君がここに来てから、三十年くらい経った頃かな」
(三十年……)
思わず体が揺れた。ひくりと頬が引きつる。
枯れた左腕を見下ろした瞬間、どれほどの月日が流れたのか悟った。自分がこの家に囚われていた期間の長さを思うと目眩がした。
「そうしてあなたは、二つ目に、私が彼を知覚できないようにした」
呻いた私を見上げて、賢者は床に座り込んだまま甲高い笑い声をあげた。
「涙ぐましいよね! 三十年かけて君をようやく見つけたときには、君はもう何もかも忘れて僕のものになっていたんだから。それからも、何十年もずっと家の外に張り付いてさあ、こんな爺になってもまだ森の奥まではるばる通い詰めて、ほんと滑稽だよ」
肩を揺らし、あははと底が抜けたように笑っている。その姿からは、思慮や深い知性といったものはおよそ感じられない。正気を失ったように笑い続ける姿は恐ろしく、哀れでもあった。
「私があなたのものだったことは、一度もないわ」
私は低い声で囁いた。
「たとえあなたが私の心を操って、私があなたを愛しているかのように見えたとしても、そんなの本当の愛じゃない。どれだけあなたが私を支配したように見えたとしても、呪いなんかでねじ伏せられた心があなたのものになる訳がない」
賢者は微笑んだまま何も語ろうとはしなかった。ただじっと私の目を見つめたまま、静かに佇んでいた。
「前に、エルルという青年が来たことがあったね」
ぽつりと、賢者が脈絡なく呟く。眉をひそめた私をよそに、賢者は嗄れた声で続けた。
「解呪の方法を見つけたいのだと言っていた。確かに呪いは古い魔術さ、呪いを構成するのは古い言葉だ。それを紐解けば、呪いを打ち消すのだって可能だろう」
賢者の髪は長く、白銀をしていて、緩く編まれてその胸元に一束となって垂れていた。口を噤み、軽く顎を引いたまま何も言わない。
まだ若い青年のかたちをした姿の向こうに、幾万年を経た鍾乳石のような、静謐で恐ろしい威風を見る。暗がりに、誰にも知られることなく、ただそこに在る石のような静けさを。
一対の眼差しが、ひたりと私の顔に据えられた。
「でもね、この世にはもっと単純に呪いを解く方法があるんだよ」
知ってるかい、ヘレカ。賢者の口元が弧を描く。
賢者の人差し指が空中に紋様を描いた。私の膝がかくりと折れる。両腕を体の脇に垂らしたまま、床に膝をついた私に、賢者は両の手を差し伸べた。頬に手を添え、揃えた指先で私の頬を包み込む。
「愛だ」
くだらない芝居の脚本を読まされたような気分だった。
私はにこりともせず、力の抜けた指先を動かそうと意識を向ける。手の中で僅かに中指が跳ねると、身体を戒めていた魔術が消え失せる。
「王子のキスで目を覚ますのも、清らかな涙が人を蘇らせるのも、みんな愛のなせる技だ。何よりも古い魔法だよ。人智がそこに踏み込むことはできない。呪いもね」
何も言わずに立ち上がった私を見上げて、賢者は起伏のない語り口で続けた。
「僕たちは、うんと昔に呪われた生き物だ。この身には、決して死なない呪いをかけられている」
目の前にいるのが、ただの人間ではないことくらい百も承知だった。私は黙って立ち尽くす。
「それなのに、今の時代に僕のような生き物はもうほとんど生きていないんだよ。どういうことか分かるだろ」
私は頑として答えなかった。彼が、何を求めて私をここに監禁したのかもおおよそ知れた。
私が黙っていると、賢者はあっさりと解答をくれた。
「みんな、僕には分からない『愛』ってのを知って死んだのさ」
「……私じゃなくてもよかったんでしょう」
強い声を出そうとした喉は、からからに渇いていた。唾を飲んでも、喉が張り付くような不快感ばかりが残っている。
――どこにでもあるような片田舎の農村の、どこにでもいるような娘だった。身の丈に合った幸せを手にした田舎娘だった。特別に賞賛されることもないし、間違っても物語として語り継がれることなんてないけれど、誰にも咎められることのない、ありふれた幸せな日々だった。
平和で、特筆すべき点のひとつもない村が、あるとき災厄に襲われた。山ひとつほどもあるような、巨大な怪物の襲撃である。
「誰でもいいのに、君が良かったんだよ」
賢者は両目からはらはらと涙を流していた。まるで人間のように振る舞う姿が、私には心底おぞましく思えた。
「君を見て、初めて、ひとになりたいと思った。豊かで恵まれた暮らしをする王侯貴族を何千年見たって、一度もそんな風に思ったことはなかったのに」
――今でも覚えている。村全体が黒い砂嵐のようなものに包まれて、真昼の空は一瞬で暗闇に閉ざされた。家の中に避難していた私を、大きな手が掴んで外へ引きずり出す。どんなにもがいても手は離れない。
悲鳴を上げる私を追って、彼が死に物狂いで手を伸ばすのだ。私も必死で手を伸ばすが、届かない。
何が私を捕まえているのか、どこへ連れて行かれるのか、自分がどうなるのかも分からない。彼が叫ぶ声も嵐にかき消されて聞こえない。
私の愛するすべてのものが、目の前で蹂躙される。
やがて目の前が暗くなって、体が動かなくなる。
(この人に、私の絶望が分かるはずがない)
賢者は私に向かって両腕を伸ばした。
「ヘレカ。こっちへおいで」
甘えるような声で私を呼ぶ。私は一歩たりとも動かずに「どうして?」と問うた。
賢者は一瞬きょとんとしてから、破顔した。果てしない時間を経たはずの姿に、まるで幼子のような無邪気な表情を垣間見る。
「君と一緒なら、僕はいつか死ねるような気がするんだ」
(……そんなことのために、私は、)
うなじの焼き印が静かに疼く。悔しさのあまり、目の前が滲む。
賢者は、哀しげな顔で私を見上げていた。同時に不思議そうでもあった。
「泣かないで、ヘレカ」
口先ではそう言いながら、彼が私に共感しているとは思えない。
「どうして私が泣いていると思いますか、先生」
「……君を、僕が攫って、閉じ込めて、……愛するひとから遠ざけたからだろう?」
わたしが今まで先生と呼んできた生き物は、三秒ほど考えて、平然と答えてみせた。
人の機微というものを、この人はたいへんに学んできたのだろう。学習の成果のみえる、迷いのない回答であった。
人の心のちっとも分からない化け物。
私は無言で片足を引いた。踵を返す。賢者は床に座り込んだまま、呆然とその様子を眺めている。
「待ちなさい、ヘレカ」
これまでに聞いたことがないような焦った声で、賢者が私を呼ぶ。
「外に出たら、君はっ」
「年を取って、数年足らずで死んでしまうんでしょう? 見れば分かるわ」
今や、腕だけでなく肩から胸までも、異変が生じている。
私はきっと、既に老いて動けなくなるくらいの歳なのだ。この家の魔術で止められていた時間が、戻ろうとしている。
さっきから身体が重かった。身じろぎのたびに関節が軋むように痛み、息苦しい。
窓はもうなかった。いつのまにか、硝子は外から粉々に打ち砕かれていた。床に細かな破片が落ちている様子は、積雪を思わせる。
思うように動かない体を引きずるようにして、私は開かれた窓のところまで行った。まっすぐに立っていることすら難しく、肩で窓に寄りかかる。背後で賢者がやかましく吠えている。
手のひらを外へ差し伸べる。
窓枠を越えた指先から、私の身体が崩れてゆく。空中で私の五指が途絶する。
あは、と思わず口から笑い声が漏れた。なるほど、この身体にはもう、ほんの数年の猶予さえ残されていなかったのだ。
「駄目だ、ヘレカ! 今すぐ戻るんだ、今ならまだ間に合う。その体だって治してやれる、何度だってやり直すことができるんだよ」
手のひらに雨粒の感触を感じるより先に、私の身体が崩れるのだ。白い灰がほどけて落ちてゆくように、音もなく、はらはらと、私の肉体が消え失せてゆく。
「ヘレカ、」
賢者が涙声で私を呼ぶ。
「ヘレカ、死なないで」
「この長い命も、君とならいくらでも耐えられる」
「ずっと傍にいてほしい」
「どんな悲しみや苦しみからも守ってやりたいんだ」
「君を大切にしたかった」
「君みたいになりたかった」
「いつか一緒に終わりを迎えたい」
「ヘレカ、お願いだ」
今までで一番、人間じみた表情だった。
「おいていかないで、ヘレカ」
前腕が消滅して、つんのめるように窓の外へ向けて体が傾く。重力を全身で感じながら、私はゆっくりと瞬きをした。
こうまで言いながら、賢者は立ち上がって私の手を引きはしないのだ。その理由が薄々分かって、私は口元に笑みが浮かぶのを堪えられないでいた。
「立てないの?」と嘲るように問う。
賢者はゆっくりと頷いた。
賢者は傍目にも弱って見えた。いつまでも若々しい青年の姿を保っていた相貌に、陰りが見えている。頬がこけ、青ざめた顔色はまるで病人のようだった。
このひとは死にかけている。
私の表情から察するものがあったか、賢者は怪訝そうな顔で、骨の浮いた手を目の高さに掲げた。その両目が大きく見開かれる。
外は嵐だった。
一瞬、目も眩むような稲光が辺り一帯を照らし出した。
白い光を浴びた賢者の顔には、驚きと、怯えと、紛れもない喜色が浮かんでいた。彼が私を見上げる。求められている言葉は分かっていた。
一緒にいこう、と賢者の唇が動いた。
それから一秒とおかず、地面が波打つほどの雷鳴が轟く。耳が遠くなるほどの轟音ののち、雨脚は更に強くなる。
体が崩れる。塵が風に巻き上げられるように、質量が限りなく小さくなって、肉体が消滅するのだ。本来ならきっと、もう随分前に死んでいて、既に体も朽ちていたのだ。歪んでいた事象が、あるべき形に正されるだけ。
腕が消え、肩がなくなり、首が崩れてゆく。シアさんにもらったストールが床に落ちる。
あと数秒で自らが消滅することを直感する。
賢者が腰を浮かせ、両腕をこちらへ差し伸べる。救いを求めるみたいに、縋るみたいに、純真無垢な微笑みで。
だから私は目を細めて、皺の浮いた顔に精一杯の慈愛を込めて、とびっきりの笑顔で一言だけ告げた。
「――――先生のそれは、愛じゃなくて呪いだわ」
安らかに微笑んでいた顔が凍り付く。
それが、私が最期に見た景色だった。
耳元で愛する人の声がする。