2*認識阻害の呪い 下
人里離れた森の中の湖畔。そこに、わたしと先生は暮らしている。わたしが先生のことを先生と呼ぶのは、わたしが先生の生徒だからじゃない。
先生は、森の奥に住む、賢者さまなのだという。少なくともこの家を尋ねる人は、先生のことをそう呼ぶのだ。
先生はありとあらゆることを知っていて、訪れる人々に助言を与えては、その返礼で生計を立てている。
先生は物知りだ。先生は、わたしが訊いたことには何だって答えられる。――ただひとつ、わたしについてを除いては。
わたしは何も知らない女の子だ。森のことも、森の外のことも、自分のことすら分からない、物知らずなのだ。
そんなわたしを引き取って、住む場所も与えてくださった先生には、感謝してもしきれない。どうお礼をしたら良いのか分からないわたしに、先生は助手として働くことを提案してくれた。
そうして、わたしは先生――森の賢者さまの助手となったのだ。
***
「ふぁ……」
体を起こして、指を組んで伸びをする。欠伸を噛み殺しながら寝台を出ると、わたしは目を擦って階下へ降りた。
居間に入ると、先生がのんびりとコーヒーを飲んでいる。
「あ、先生! おはようございます!」
その姿を見つけて、わたしは笑顔で先生に駆け寄った。先生は湯気の立つカップを机に下ろして、わたしに手招きする。「おいで」と言われて隣に立つと、先生は手を伸ばしてわたしの頭を撫で下ろした。
「寝癖がついているよ、ヘレカ」
「え、うそ! えへへ……」
慌てて両手で後頭部を押さえながら、わたしは肩を竦めて照れ笑いをする。
「ヘレカ、何も変わったことはないかい?」
優しい眼差しで問われて、わたしは少し目を伏せて頷いた。先生の調合してくれる薬を毎日飲んでいるのに、わたしの記憶はとんと戻らない。
「ごめんなさい」
そう呟くと、先生はわたしの手を取って首を振った。
「謝らないで。焦る必要なんて何もないよ。ゆっくりで良いんだ」
「でも、わたし、お役にも立てないのに、ずっと居候を続けてしまってるわ」
先生が微笑む。
「僕は、ヘレカがうちにいてくれて嬉しいよ。いつまでだって、ここにいて良い」
手首を掴まれながら、わたしは曖昧な笑みを浮かべた。
先生が穏やかな声で言う。
「記憶が戻っても、僕と一緒にいて良いんだよ」
***
呼び鈴の音に、わたしは本棚の整理をしていた手を止めた。お客様が来たみたい。
迎えに出ようとして、先生に『応対に出る必要はない』と言われたことを思い出す。何でも、家の外にはとても危険な猛獣が生息しているんだとか。……先生ったら、どうしてそんな危ないところに家を建てたのかしら?
耳を澄ませてみたけど、先生が玄関に向かう気配はない。先生は集中すると周りの音が耳に入らなくなるから、きっと気づいていないのね。
「せんせーい」
わたしは先生の部屋まで行くと、扉を何度か叩いてそっと中を窺う。驚いたような顔で振り返った先生に、わたしは玄関の方を指さしながら声をかけた。
「お客様がいらしてるみたいです」
言うと、先生は慌てて立ち上がった。
「お久しぶりです、賢者様」
玄関先で一礼したのは、三人のご家族だった。まだ若いお父さんとお母さんが、三、四歳の小さな娘さんの両手をそれぞれ握っている。
お久しぶりってことは、わたしは知らない方だけど、先生のお知り合いなのかしら。そう思いながら一歩下がったところでやり取りを見守っていたら、お母さんがくるりとこちらを振り返る。
「ヘレカさんも、お変わりないみたいですね」
「えっ?」
面食らって、わたしは目をぱちくりさせた。
……もしかして、わたし、前に会ったことがあるのに忘れちゃった?
「えっと、あたし、シアです。シアネア。前にここでお世話になった……」
「シア、さん……」
そんな人、この家に来たことあった?
口元に手を当てたまま考えていると、先生が片手を挙げて制する。
「ごめんなさい。ヘレカは、僕の助手であると同時に、患者でもあります。できれば、混乱させるようなことは……」
含みのある言い方だった。シアさんは少し息を飲むと、「分かりました」と頷く。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
応接間で先生が促すと、エルルさん――というらしい男の人が、はにかむような笑顔を浮かべる。
エルルさんとシアさんは、何やら嬉々として語っているけれど、わたしには要領を得なかった。二人は小さな娘さんと片時も手を離すことなく、先生の質問に答えている。
まだよく理解できないらしい娘さんは、ぼんやりとした表情で両親の顔を見比べている。わたしも同じような状態だ、と気づいて、思わず苦笑してしまった。
(わたし、何も知らないんだわ)
ふと、暗い感情が胸をよぎる。焦燥感を伴うそれは、わたしの腹の底で奇妙に蠢く。居所のないような不安に襲われて、わたしは膝の上で強く拳を握った。
それにしても、だ。話を聞きながら、わたしは違和感に首を傾げる。
エルルさんとシアさんの微妙な噛み合わなさが気にかかったのだ。同じことを繰り返して言ってみたり、たまに少しズレたことを言っていたり。そう思って見てみれば、二人は一度も目を合わせていないことに気づく。
(どういうこと?)
でも先生はそれに言及しないみたい。あまり触れちゃいけないことなのかな。
どこかもやもやとした気持ちを抱えているうちに、二人は話したいことを話し終えたらしい。ふっと沈黙が降りたとき、シアさんと目が合う。
「あ、そうだ」と手を合わせて、シアさんはごそごそと鞄を探り出した。
「ささやかながらお礼のひとつとして、うちのお店で売っているストールを持ってきたんです」
そう言って包みを取り出したシアさんが、こちらに向かってそれを差し出してくる。
「この辺りは冷え込む地域ですから。ここの家の中は冷暖房完備らしいですけど、お外に出られるときなんかは、防寒具も必要でしょう?」
ぴく、と先生の手が跳ねた気がした。その動きを視界の端で捉えて、わたしは少しだけ先生を見上げる。先生はわたしに何も言わずに、「素敵なものをどうもありがとうございます」と笑顔で答えた。
先生に促されて、わたしはおずおずと手を伸ばす。
そっと包みを開いてみれば、肌触りの良い布がさらりと手に触れた。明るい色をしたストールには、きらきらと光る糸が織り込まれているらしい。見る角度を変えるたびに光り方が変化して、上品な印象を受ける。
思わずため息が漏れた。「素敵」と呟くと、シアさんが破顔する。
「ありがとうございます。本当に綺麗だわ」
惚れ惚れとしながら、慎重に肩にかけてみる。少しは大人っぽく見えるかしら?
「先生、鏡を見てきても良い?」
「存分に堪能しておいで」
先生が頷いたので、わたしは鏡のある部屋へ小走りで向かった。
***
そういえば、新しい服なんていつぶりだろう。もう随分と……随分と昔のことのように思える。
心が浮き立ち、姿見の前でくるくると回ってしまった。
ちょっと気恥ずかしいような思いでポーズを決めた直後、背後の扉が開く。ふふ、と軽い笑い声がした。
「気に入って頂けたみたいで嬉しいです」
「あ……」
思わず顔を赤くして黙り込むと、シアさんは戸口のところでくすくすと笑った。
「エルルがまた魔術のことで話し込んじゃって、ちっとも分からないから抜け出してきちゃった」とシアさんは舌を出す。
「ね、ヘレカさん。ブローチとかは持っていない?」
「ブローチは……持っていないです」
躊躇いながら答えると、シアさんは少し驚いた顔をした。
「賢者さまは、そうした贈り物はしてくれないの? ヘレカさんのこと、とても大切にしているように見えたけれど」
「わたし、子どもだと思われているんです。アクセサリーなんてまだ早いわ」
わざとらしくため息をついてみせたわたしに、シアさんが面妖な顔をする。「子ども?」とその口から言葉が漏れた。
「あの、ヘレカさん……失礼だけど、年齢を窺ってもいいかしら」
「ごめんなさい、わたし、昔の記憶がなくて……正確な年齢は分からないんです。十五、六かしら」
そう、とシアさんは呟いて、口元に手を当てる。何か言おうとして、やめるような仕草だった。
「まあ、あたしが口出しすることじゃないか」と笑って、シアさんはわたしの背後に立つ。肩越しに手を伸ばして、ストールを整える。
「あたしのお母さんは、魔法の絨毯を作る職人さんだったんです。お母さんが布に向かっているときの横顔が好きだったから、あたしも、魔法のかかった布を作って売る商売をしているの」
「それじゃあ、布の織り方なんかは、お母さんに教わったんですね」
シアさんは曖昧に微笑んだ。その表情がやけに大人びていて、わたしはどきりとする。
(あれ?)
シアさん、何だか雰囲気が変わりましたね。そんな言葉が口をついて出そうになって、わたしは口元を押さえたまま言い淀んだ。
(わたし、シアさんとは会ったことないはずなのに……)
困惑して立ち尽くすわたしを眺めて、シアさんは躊躇いがちに口を開いた。
「ヘレカさん。あたし、四年前にここに来たの」
「そうなんですか?」
「そのときも、あたし、あなたにお世話になったわ」
――え?
「わたし、ここに住み始めてから、まだ一年も経っていません」
困惑の色を強めて首を振ると、シアさんはまた、言おうとしたことを飲み込むように口を閉じる。
「……あちらのお部屋に、戻りましょうか」
「はい。……素敵なストール、本当にありがとうございます。大切にします」
促されて部屋を出ながら、わたしはふと、シアさんの喉元に目を留めた。ほくろだと思っていた黒い点は、よく見れば小さな星のかたちをした入れ墨のように見える。
まるで、何かのお呪いみたい。
「シアさん、それは?」
聞くと、彼女は事も無げに喉に手をやって答えた。
「ああ、呪いの痕跡です」
シアさんは指を三本立てて語る。
「賢者さまは三つの呪いを使えるんですって。それってとても凄いことなんだって。エルルが言ってた。確か一つ目が、記憶を消す呪いで――」
その言葉を聞くともなく聞きながら、わたしは少し首を傾けた。
そういえば、わたし、先生のことをちっとも知らないんだわ。
「それで、あたしたち、お互いの姿も、声も、認識できなくなったんです」
「え……?」
それまでぼうっとしていたわたしは、シアさんの言葉に目を丸くした。
「今言った、二つ目の呪い。認識阻害です。もう二度と会わないつもりでした。でも」
シアさんの口元に、薄い笑みが浮かぶ。どこか呆れたような表情だった。
「娘が、あたしたちを巡り合わせてくれたんです」
それで、もう良いやって思って。シアさんが穏やかな声でそう語る。
「呪いをかけてもあたしたちが離れ離れにならないなら、きっとそれがあるべき形なんだって。そう覚悟を決めたら、腹が据わったの」
シアさんは笑っていた。
「今あたし、とっても幸せです」
客間に戻ると、どうやら議論は随分と白熱しているらしい。
「ですから、呪いというのは現代の魔術とは完全に隔絶された、人知を越えた術だと思われてきましたが、古代魔術の一種である可能性が出てきたんです」
「ほう、それは。面白い仮説ですね」
「呪いが古代魔術なら、魔術史を紐解くことで、その成り立ちや構造を調べることができます。そうすればいずれは、呪いも現代魔術のように、然るべき知識を備えることで意のままに操ることができるようになります」
エルルさんの目には、真剣な光が宿っていた。
「そうなれば今は存在しないと言われている、呪いを解く方法だって、いずれは――」
先生が片手を挙げてエルルさんを遮った。
「ここから先は、ぜひ、解呪方法が確立されたあとに詳しく聞かせてください」
その言葉にエルルさんはぱっと顔を輝かせ、「はい」と頷く。
「なぁに、エルルったら、また解呪の可能性について熱く語ってたの」
シアさんが腰に手を当てて言うと、それまで物珍しそうに部屋の中を見回していた女の子が、「うん」と無邪気な表情で頷く。
「お父さん、いっつも『かいじゅ』のこと、しゃべってるのよ!」
シアさんは呆れたような表情で、それでいて面映ゆいような口元で笑み崩れた。
***
帰って行った三人家族を見送って、玄関の扉を勢いよく閉めた瞬間、先生の口元から笑みが抜け落ちた。
「先生……?」
不安になって先生を覗き込むが、その表情に笑顔は戻らない。
虚ろな眼差しで、先生が扉を見据える。
「心配しないでいいよ、ヘレカ。僕たちはね、人間を殺してはならないと定められているんだ。穏当な手段で黙らせるさ。方法はいくらでもある」
「先生、何の話をしているの?」
戸惑って眉をひそめると、先生は我に返ったように瞬きをした。少しの間茫然自失とした様子でわたしを振り返り、それから苛立たしげに頭を掻きむしる。
「先生、あの、聞きたいことがあって、」
「ごめん、今は疲れているんだ、またあとに――」
うるさそうに頭を振った先生の服を掴んで、わたしは食い下がった。
「先生。……わたしは、いつからこの家にいますか?」
ぴたり、先生が口を噤む。恐ろしいほどの静寂だった。
「なに?」
肩越しに顔だけ振り返って、先生が微笑む。先生、とわたしの口から震え声が漏れる。
「わたし、シアさんとエルルさんに、会ったことがあるような気がするんです」
「気のせいじゃない?」
「でもシアさん、わたしに向かって『お変わりないみたいですね』って。それに、名乗るより先にわたしの名前を呼びました」
先生は柔和な表情のまま、小さく舌打ちした。
「これで六十八回目」
――だんだん短くなってきた。
先生が吐き捨てた言葉の意味が分からず、わたしは首を傾げる。
どういうことなのか聞くために、口を開きかけた。
「ねえ、せんせ……」
暗転。
***
「先生、おはようございます。良い朝ですね」
「おはよう、ヘレカ」
「先生、わたし、この本の記述に覚えがあります。読んだことのない本のはずなのに、一体どこで……」
「うーん、今回の君はちょっと賢すぎるみたいだね」
暗転。
***
「せーんせい! おはよう! お腹すいちゃったぁ」
「こんなのヘレカじゃない、やり直しだ……」
暗転。
***
「先生って、一体何者なの?」
暗転。
暗転。
暗転。
「わたし、どこかに帰りたい気がするんです。ここじゃないどこかへ……」
暗転。
暗転。
「夢で誰かに会いました。あれは一体……」
暗転。
「どうしてわたしは家の外に出ちゃいけないんですか?」
暗転。
「先生、窓の外に誰かいるような気が、」
暗転。
暗転。
***
「先生! おはようございます」
ぎゅ、と先生の左腕を胸元に抱き込んで、わたしは先生の肩に頬ずりをした。
晴れた秋の日は、絶好の先生日和よね。
「先生、今日もとっても素敵だわ。大好き!」
背伸びをしてその頬に口づけると、先生は薄らと笑みを浮かべてわたしの背に手を添える。
「……いつになったら、ヘレカは本当に僕のことを好きになってくれるのかな」
その言葉に、わたしは頬を膨らませて先生を睨み上げた。
「ひどいわ! わたしはこんなに先生のことが好きなのに、先生は信じてくれないの?」
また子ども扱いして、と先生の手の甲を軽くつねってみる。先生は反論しなかった。
もう! 本当に子ども扱いしてるってこと!?
わたしは、先生のことが好き。
それは絶対絶対揺らがないことで、わたしの最優先事項で、いつから始まった気持ちなのか分からないくらい当然のことなの。
先生の顔を見上げて、わたしは驚いた。
「先生? どうしたの? ……泣いているの?」
「いやなに、うれし涙だよ」
「なんで今嬉しくなったの? 先生ったら変なの!」
くすくすと笑いながら、わたしは先生の腕を放す。
「先生、大好きよ。ずっと大好き。何があっても、ずーっとよ」
先生の大きな手を握って、わたしはどこかで聞いた話を思い出す。
「本当の愛はね、絶対に揺らがないの。たとえ呪いをもってしても、絶対に引き裂けないんだから!」
そう言ってにこりと微笑みかけた瞬間、先生の目尻から零れるものがあった。