3*ひとの心を操る呪い
「森の賢者さまがいらっしゃるというのは、こちらのお宅ですか?」
玄関先に佇むのは、一人の少女だった。まだ十を過ぎたばかりのような小さな子で、その表情はどこか不安げだ。
「はい、そうですよ。……今日はお一人で?」
先生は少女を招き入れ、玄関の扉をぱたんと閉じた。
「そうです、」
彼女は真っ赤な鼻をしながら頷いた。扉に背をつけて無言で鍵をかけた先生を振り返りながら、少女は「あの方は……?」と怪訝そうに呟きかける。わたしは首を傾げたが、先生が「それで」と微笑んで話し出したので口を噤んだ。
「どのようなご用件でいらしたんですか?」
わたしは少女からそっと外套を受け取り、その布地が凍えるように冷たいことに驚いて、密かに目を見開いた。
(雪、)
袖口で一瞬きらりと瞬いた、星のような光に目を留める。暖かい廊下の空気に溶かされた雫を見下ろしながら、わたしは無言で瞬きをした。
(外は寒いんだわ……)
思わず不思議な心地で玄関の扉を見つめる。先生と一緒にこの家で暮らし始めてからというものの、わたしは寒さや暑さからずっと切り離されている。先生の庇護下で大切に守られている。……何から?
先生は廊下を先導して、少女を応接室に通す。わたしは台所に入り、温かいお茶を出そうとやかんに水を汲んで火にかけた。一歩下がり、やかんの様子を見守りながら、食器棚に背を預ける。
(わたしは、冬を覚えていない。でも、冬が、寒くて冷たくて、きんと空気の冴えたものであることは知っている)
やかんの中の水は徐々に温度を上げてゆく。
(わたしはいつ、どこで、冬を知ったの?)
わたしは心もち目を伏せて、応接室の会話に耳を澄ませた。
「……ことは、彼女の前では……」
先生の声が聞こえる。聞き慣れた穏やかな声音だ。いつまでだって聞いていられる。わたしは先生の声が好きだ。
(……先生は、わたしのことを守ってくれている。そのことをわたしは知っている)
もの知らずで、自分のことさえも知らないわたしでも、それくらいのことは知っている。わたしは先生のことが好きだ。そのことをわたしは知っている。
わたしは、先生が、好き。
誰に向かって言っているのか分からない一言を、声にはせずに唇に乗せる。まるで言い聞かせるみたいに。
しゅんしゅんと音を立て始めたやかんを火から下ろし、わたしはお茶の準備を始めた。
***
「一昨年、お母さんが亡くなったんです。本当に悲しかった」
ハリナと名乗った少女は、静かな声で切り出した。
「でも、少しずつ、自分の中で折り合いがついてきたかなって思ってました。いつまでも泣いている訳にはいかないから……」
部屋の中に、お茶の華やいだ香りが立ち込めていた。わたしは先生の隣で大人しく膝を揃えて座っている。先生は真剣な顔でハリナさんを見つめていた。
「そう思っていたのに、私、お父さんが再婚するって聞いて、すごく嫌な気持ちになったんです。お父さんの再婚相手ってのが同級生の母親だなんて、もっと嫌。絶対に嫌なの」
ぎゅっと顔をしかめて、ハリナさんは膝の上で拳を握った。
「テスはいつも私をいじめるんです。でも、お父さんの再婚相手はテスのお母さんなんだって。テスのお母さんが私の新しいお母さんで、テスが私のきょうだいだなんて嫌!」
ハリナさんはふるふると頭を振って叫んだ。わたしは思わず眦を下げる。
「……私、新しいお母さんも、新しいきょうだいもいりません。でも、私がどんなに嫌がったって、子どもだから分からないんだって、みんなが言うの。いずれ大人になれば分かるんだって、……分かるはずないわ。分かりたくもない!」
いっぱいに見開いた両目に涙を溜めて、ハリナさんは真剣な表情で先生を見据えた。
「だから賢者さま、――この結婚をやめさせてください!」
わたしは思わず先生の顔色を振り返っていた。先生は片手を顎に添えたまま、「なるほど」と呟く。
(先生、このお願いを聞いてしまうの?)
はらはらとしながら先生を窺うわたしに、先生は少し苦笑した。ぽんと頭に手が置かれる。
「……それでは、事態を整理してみましょうか」
先生は柔らかい表情でハリナさんに焼き菓子を勧めた。ハリナさんはおずおずと手を伸ばす。さく、と軽い音とともに香ばしい香りが広がった。
「まず、あなたのお父様が再婚なさることになった、と。どうしてですか?」
「分かりません。……きっとお母さんのことなんて忘れちゃったんです」
「ふむ」
先生は顎に手を添える。思案するようにハリナさんを見つめる眼差しは優しかった。
わたしにだって分かる。ハリナさんのお父さんは、きっとハリナさんを蔑ろにして再婚を決めた訳じゃない。けれど、今わたしたちがここでそう言ったって、きっと彼女は受け入れてはくれないだろう。
わたしはおずおずと先生の方を振り返った。先生も同じことを考えているようで、少し痛ましげに眦を下げた先生と視線が重なる。
「……確かに、あなたのお父様の再婚をやめさせることは、可能です」
先生は優しい声でそう言った。ハリナさんが目を見開く。
「人の記憶を弄ること。人の五感に干渉すること。人の心を操ること。確かに市井にいるような一般の術士には無理なことでしょうが、僕にかかれば可能です。ええ、できますとも」
わざと飄々とした態度で、先生はハリナさんを突き放すように言った。目に見えてハリナさんが怯み、その表情に躊躇いが浮かぶ。
小さな女の子相手に、あんまりじゃないか。わたしは思わず先生の袖に触れたが、その横顔に労りが滲んでいるのを見つけて息を飲む。人を食ったような素振りをしながら、先生の目は驚くほどに真剣だった。
「しかし、人の心を本来あるべき形から歪める術は、魔術の範疇にはありません。――それらは得てして、呪いと呼ばれます」
ハリナさんが息を飲む。先生はにこりともしなかった。
「あなたのお父様に呪いをかけましょうか」
大きく目を見開いた、ハリナさんの瞳が揺れている。
「一度かけた呪いは、決して消えませんよ」
それはあなたが背負う罪です。
「や、……」
その目に薄らと涙を浮かべて、ハリナさんは小さく首を振った。
「やだっ……」
「お嫌ですか? 私なら、ものの数秒で、あなたのお父様が新たな妻を嫌いになるようにして差し上げますよ」
ハリナさんの目から、ついに涙が溢れ出す。何かを言おうとして、上手く言葉にならないように口を開閉させる。
「ハリナさん」
わたしは、優しい声でそっと呼びかけた。
「わたし、呪いよりもっと良い方法を知っています」
手を伸ばして、両手で彼女の手を柔らかく包む。ハリナさんは目を見張ってこちらを見た。
「さっき、わたしたちにお話ししてくれたようなことを、お父様に伝えてください。うまくお話できないようなら、手紙でもいいわ」
ハリナさんは、「でも」と呟いて眉を寄せた。私は微笑んで、頷いてみせる。
「対話することを、怖がらないでください。少し話しただけでも、ハリナさんが、お父様のことと、亡くなられたお母様のことを本当に大切に思っているんだってこと、わたしにもよく伝わりました」
自分でも、こんな言葉がすらすらと口から出てくるのが不思議だった。まるで、わたしが別人になったみたい。
「大丈夫です」とわたしは力強く告げる。
ハリナさんは鼻をすすり上げながら、潤んだ瞳でわたしを見上げていた。
「大切なひとと、真正面からおはなしをして、気持ちが伝わらないなんてことが、あるはずありません」
ね、と同意を求めるように振り返った先で、わたしは心臓が止まるような心地がした。
「ああ、うん……そうだね」
人がこんなに冷たい目をできるなんて、わたしは知らなかった。心底つまらなそうに、先生は軽蔑するみたいな視線をこちらに注いでいた。
しかしそう思ったのは一瞬で、先生はすぐにいつも通りの柔和な笑顔になる。
「せんせい、」
「ヘレカは、ほんとうに、良いことを言うね」
平坦な口調で呟いて、先生はゆっくりと腰を上げた。
「分かったら、帰りなさい。ここは君にはまだ早い」
扉の方を指し示しながら、先生は窓際に向かって歩み寄る。ハリナさんは手の甲で目元を強く拭うと、「わかりました」と立ち上がった。
「……ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて出て行ったハリナさんを見送ってから、わたしは窓際に立ったままの先生のもとへ歩み寄る。
先生は窓の外に視線を向けたまま、物思いに耽るように黙りこくっていた。
「先生、……どうかされましたか?」
さっき一瞬だけ垣間見た表情が忘れられなくて、わたしはおずおずと声をかけた。先生は十秒ほど答えなかったが、体ごとこちらを振り返って口元に笑みを浮かべる。
「ヘレカ」
「はい」
頬に手を添えられて、わたしは瞬きひとつして答えた。
「――昨晩、薬は飲んだ?」
どきりとした。
わたしの記憶を戻すため、先生は薬を調合して、毎晩飲むようにと渡してくれていた。毎日欠かさず飲むんだよ、と言い聞かせられている。
けれど五日前の晩に『言われた』のだ。雪の上に一言、「飲むな」と書いてあった。
わたしがそれを視認してすぐに、文字はいくつもの足跡に踏み散らされてしまった。だから証拠はないし、ひょっとしたらわたしの見間違いか、夢なのかもしれない。
窓の外に何かがいるのは、わたしの中では既に固まっている認識だった。姿の見えない、怪しい存在である。
あれはたぶん、言うことを聞いちゃいけない相手で、先生に伝えるべきもので、間違っても知りたいなんて思っちゃいけない事象だ。
それなのに、わたしはこの数日間、先生に黙って薬を外へ捨てている。
「もしかして、落として割ってしまったの? それならそうと言ってくれれば、すぐに渡したのに」
「それは、……」
「飲み忘れた?」
答えられずに俯いたわたしを、先生は無言で見下ろした。長い沈黙があった。
「――薬を持ってきなさい。今ここで、僕の前で飲んでみせなさい」
低い声で告げられ、まるで火がついたみたいに、腹の内で一気に鎌首をもたげるものがあった。
「どうして、そこまでしなきゃいけないんですか」
顎を引いたまま睨み上げた瞬間、先生が息を飲む。呆然とわたしの名前を呼んで、よろめくように半歩下がる。
「それは、……君のためだよ、もちろん」
「わたしのためなら、そんなに怖い顔で、薬を飲むように強要するの?」
先生に刃向かうのなんて、覚えている限りで初めてのことだった。胸の内から奇妙な怒りがわき上がってくるのだ。 まるで別の心が、わたしの中にあるみたいに。
「あの薬、本当に効くんですか? 本当に、わたしの記憶を戻すための薬なの?」
だって、あれを飲まなくなってから、わたしは毎晩誰かの夢を見るのだ。顔も名前も分からないけれど、誰より大切で愛おしい、『誰か』の夢を。
「ヘレカ、……!」
驚愕した先生の両目に、素早い思考の色がよぎる。
大きく眼を見開いたまま、先生は顔を動かさずに窓の外を一瞥した。その瞬間、家全体が揺れるほどに強く、窓が叩かれる。先生は目を細めただけで、反応を示さなかった。
ややあって、先生は背後で両手を重ねたまま微笑んだ。
「なるほど」と、打って変わって穏やかな声で呟く。
「悪い子だね、ヘレカ」
声が聞こえたと思うと同時に、先生の大きな手が近づいて、目を塞がれる。目の前が真っ暗になって、体から力が抜けて膝がかくりと折れた。
背中を抱き留められるが、その腕を振り払うこともできない。頭が割れるように痛い。
(わたしに触らないで)
先生の指の隙間から、焼き付くほどに眩い光が漏れていた。激しい明滅。
わたしの身体に向かって、槍のように鋭く尖った閃光が迸る。
(ああ、)
――薄く開いた唇からため息が漏れた。
この光が何なのか、わたしは覚えている。
今までに幾度も、幾年にもわたって目の当たりにしてきた。
こんなことが、今までに、何度もあったのだ。
「この、下劣な……ッ!」
歯を剥き出しにして叫ぼうとした瞬間、呪いは強い衝撃とともに、わたしの身体を貫いた。
意識が遠のく中、先生が飽き飽きした声で呟く。
「あーあ、これでもう六十回目だ」