幕間 下
先生が知っていること。そして、わたしが知らないこと。
そんなことは世の中に数え切れないほどあった。
その中のひとつに、先生についてのこと、がある。
わたしは先生のことをちっとも知らない。先生がどこでどんな風に生まれ育ったのかということも、どうして先生は森の中で一人で住んでいたのかということも、どうして先生はわたしを拾ったのかということすらも、わたしは何も知らない。
わたしはもの知らずの赤子同然で、先生は何でも知っている賢者さまで、わたしは黙って先生の言う通りにしていれば良いんだって、そう思っていた。それが先生へのせめてもの恩返しだと思っていた。
でも最近は、それだけじゃ嫌だと思う自分がいる。
きっとわたしは、先生のことを、もっと知りたいのだ。
先生のこれまでのこと。先生が今何を思っているのかということ。先生のこれからのこと。
――先生、これって傲慢な願いでしょうか?
***
寒い冬の夜だった。先生の家は冷暖房によって一年中快適な温度に保たれているけれど、その日はたまたまその設備に支障が生じていた。
「うう……寒い……」
「はは……もう少し待ってね」
先生は暖炉の前に屈み込みながら苦笑する。わたしは先生の隣で膝を抱えてしゃがみ込んだ。
「暖炉を使うのは久しぶりだからなぁ……上手く点くかどうか」
先生は薪を放り込んだ暖炉に向かって低い声で何か告げる。ばち、と火花が一瞬上がり、すぐに消えた。先生は「うーん」と唸って立ち上がる。
「マッチを取って来ようか。ヘレカはそこで待ってて」
「はい、先生」
わたしは両手で膝を抱えたまま頷いた。立ち上がりざま、先生が毛布を長椅子から取り上げて、わたしの肩に乗せた。毛布ごしの手が背を撫でて、それから離れる。わたしは呆気に取られたまま先生を見送った。
ふと、こつん、と窓が叩かれる音がした。わたしははっと息を飲んで、音のする方へ首を向ける。
いつもなら外と中との温度差で白く曇り、ときには結露が浮いていることさえある窓だったけれど、今日は窓は透明なままだ。部屋の中が寒いから。
――この家の外には、何かがいる。
わたしはそのことを知っている。先生が知っているかどうかは定かではないけれど、……わたしは何故か、このことを先生に言えないままでいた。
だからこれはきっと唯一の、先生への隠し事。
先生は知らない、わたしだけが知っている、こと。
叩かれた窓にわたしはおずおずと歩み寄った。窓を叩かれるのは、あの日から数度ほど起こった現象だった。初めこそ乱暴な叩き方をしていたけれど、やがてその力は優しくなった。
『それ』がわたしに危害を及ぼさないことが分かると、気になるのは今度はその正体である。
わたしは窓に近づく。窓にそっと指先を触れる。この窓の向こうに何かがいる。精霊だろうか、魔物だろうか、――わたしには姿の見えない、何かだ。
「あなたは一体だれ?」
わたしは小さな声で呟いた。その声が聞こえたかどうかは果たして定かではない。『それ』がわたしの言葉を解するものなのか、生き物なのかすらも分からないのだ。
何も分からず、呼ばれるがままに窓を開けるほど馬鹿じゃない。もしかしたらこれは何か恐ろしい罠かもしれない。絶対に、先生に相談すべきだ。
……でも。
「先生、教えてください……」
わたしは窓枠に両手をかけて、ずるずると壁際にしゃがみこむ。窓の外では音が止んだ。
「……どうしてわたしは、あなたにこのことを相談できないんでしょう」
窓枠から指先を滑らせて手を落とす。顔を覆って、わたしは唇を噛んだ。
足音が近づいてくる。先生が戻ってくるのだ。わたしは顔を上げて立ち上がる。
――そのとき、窓が見えた。
「何……?」
わたしは微かな声で呟いて、胸元でぎゅっと手を握る。窓へ一歩近寄り、身を屈めてそこを注視した。
小さな白い丸。まるで息を吐きかけて作った曇りのようだった。そこに、指が軌跡を残すように、文字が綴られる。
『ヘレカ、』
短いその一言を目にした瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。悪寒が全身を駆け抜ける。
「どうして、わたしの、名前……?」
外にいるこの『何か』は、わたしのことを知っている。直感する。……これの目的は、わたしだ。
『ヘレカ、こちらへ』
姿の見えない何かが、まさに今、わたしに向かって語りかけていた。廊下からは先生の規則正しい足音が近づいて来る。
(先生に、言わなくちゃ)
わたしは窓に背を向け、先生のいる方へと歩を進めようとした。間際、窓が割れんばかりに揺れる。ひっ、と息が喉で詰まった。
恐る恐る振り返れば、手のひらで乱暴に曇りを拭ったような跡があった。窓に記された名前を隠そうとするみたいに。
「先生……っ!」
扉が開き切るより早く、わたしは先生の元へ駆け寄る。堪えきれずに抱きつくと、先生は面食らったようにわたしを見下ろす。
「ヘレカ……どうした?」
「……先生、ぎゅってしてください」
わたしは先生の胸元に顔を埋め、呻くように呟いた。先生は呆気に取られた様子で絶句し、それから息を吐く。
「何があった? 正直に話してごらん、ヘレカ」
先生の腕が持ち上がり、わたしの背に触れる。先生の温かい手が、ゆっくりとわたしの背を数度撫で下ろした。
「寒いんです。……我慢できないくらいに寒いんです」
わたしは震える指先を動かして、先生の服を掴む。先生はしばらく沈黙し、それからわたしの耳元でマッチの箱を振った。
「今マッチを持ってきた。少し待っていてごらん、じきに暖かくなるさ」
先生はそう言って、わたしの頭を撫でてくれた。
暖炉の前で並びながら、わたしはずっと先生の片腕の中にいた。
「……先生、」
わたしの頭をぐるぐると回っているのは、今も窓の外にいるのかどうか分からない、『それ』のことだった。
(どうして、わたしの名前を知っているの?)
そう考えたところで、わたしははたと動きを止める。わたしはここに来てから、一度だって外に出たことはない。関わったことがある人なんて数えるほどだ。……それなのに、どうして『それ』はわたしの名前を知っているんだろう?
「ヘレカ?」
柔らかい声で問い返した先生を、わたしはおずおずと見上げる。
「先生。わたしの名前って、……ヘレカって、先生がつけてくださったんですか?」
その問いに、先生はゆっくりと目を見開いた。先生の反応に、わたしは息を飲む。先生は長いこと沈黙したのち、「……いや、」とだけ答えた。
「君の名前は、昔から、……ヘレカだった」
わたしは困惑を隠しきれずに瞬きを繰り返す。――先生は、記憶を失う前のわたしの名前を、知っていた?
「先生は、わたしを……いつから知っているんですか?」
唇がわなないた。
先生は、何でも知っていて、何を訊いても答えてくれて、けれど、唯一教えてくれないことがあった。……それが、わたしに関することだった。
わたしの視線を受け止めて、先生は苦しそうに微笑んだ。
「ずっと昔から」
***
先生と並んで暖炉を眺めながら、わたしは先生の落ち着いた声を黙って聞いていた。
「昔話をしようか」
「昔の話なんですか?」
「これは昔々のことかもしれないし、案外最近のことかもしれない」
謎めいた言葉ではぐらかした先生の横顔をちらと見上げ、それからわたしは両手の中のマグカップを見下ろす。
「これは僕の話じゃなくて、誰か別の男の話だ。分かったね?」
そんな風に前置いて、先生は静かに語り出した。
「……あるところに、一人の少年と、その幼なじみの可愛い女の子がいたんだ。二人はいつも仲良しで、一緒に成長した二人はやがて将来を誓い合う仲にまでなった」
わたしはどういう訳か、顔を上げることが出来ずに先生の言葉を聞いていた。先生がどんな顔でこの話をしているのか、それを確認するのが何故か怖かったのだ。……先生が、わたしの知らない顔をしているのを、見たくなくて。
「けれどあるとき、とても悪い、そう……強大な敵が現れて。それで、女の子は攫われてしまったんだ」
先生の声音が、僅かに苦々しさを含んだ。苦痛に歪んだと言っても良いような響きだった。わたしは思わず息を飲む。
「それで、先生は……どうしたんですか?」
おずおずと顔を上げて問えば、先生は窘めるように、わたしの頭にそっと片手を置いた。「これは誰か別の男の話だよ」とその手はわたしの髪を数度撫で下ろすと、背中へと伝ってゆく。
「その男は死に物狂いで探したよ。愛する人を見つけるために、世界中を奔走して、やがて旅の果てに、…………女の子を見つけた」
先生の大きな手は、わたしの背をゆっくりと、優しく撫でた。子供をあやすみたいなそれが、わたしは何だか気恥ずかしく思えて、首を縮めて体を窄める。
先生はくすりと笑い声を漏らし、そして、低い声で囁いたのだ。
「けれどそのとき既に、――彼女は全ての記憶を失っていた」
弾かれたように振り返った先では、微笑みを湛えた先生が、わたしを静かに見ていた。わたしは咄嗟に息が吸えなかった。喉がきゅっと締まった。
真っ直ぐに、どこまでも澄み切った眼差しで、先生は、わたしを、
――わたしの向こうにいる誰かを、見つめている。