2*認識阻害の呪い 中
「それから、僕は……僕が、シアを導いてやらなきゃいけないんだって、そう思うようになったんです」
エルルさんは苦々しげな表情で呟いた。その膝の上で、握りこぶしが震えていた。隣で微笑むシアさんは何も言わないままだ。
「初めは、シアの相談に乗って、新しい就職先を一緒に探すくらいのことだったのに、いつの間にか、僕はシアの一挙一動に口を出すようになっていた。それが怖いんです」
「そうですか? それほど恐ろしいこととは思えませんが」
先生は腕を組んだまましれっと呟いた。わたしは思わず先生の横顔を振り返る。先生は不思議そうな顔でわたしを見た。
(先生、束縛が強めなタイプだったんだ……)
わたしは無言で瞬きを繰り返す。先生は何だかいつも飄々として見えるけれど、メラナさんのときも『恋に身を焦がす気持ちは分かります』なんて言っていた。
……先生って実は、わたしが思っているよりも結構、情熱的な人なんだろうか?
エルルさんは手元に目を落としたまま首を振った。
「ぼ……僕は恐ろしかったんです。シアの仕事のこと、私生活のこと、人間関係のことにわざわざ介入して、それで平気でいた自分のことが恐ろしくて。だから今日、ここに」
「ふむ」
先生は顎に手を当てて目を眇めた。探るような目線に、エルルさんが僅かに身を引く。強ばった表情に浮かんでいるのは、恐怖だけではない。これは……後ろめたさ?
先生は視線をエルルさんから、その隣のシアさんに移す。
「――それだけではありませんね?」
普段よりやや厳しい声音に、わたしとエルルさんは同時に首を竦めた。ひゅっと息が止まる。
「まあ、その通りですね」
しかしシアさんは平気な様子で、ひょいと肩を竦めて頷いた。
「実際に見てもらった方が早いかなぁ」と言いながら、シアさんが手を首元にやった。それを見たエルルさんが血相を変える。
「やめろ、シア!」
それまで静かに語っていたのが嘘のようだった。剣呑に声を尖らせて、エルルさんがシアさんの肩に手をかける。白くなった指先から、強い力で肩を押さえつけているのが分かった。
「エルル、離して、っ!」
首に巻かれたスカーフを掴んだまま、シアさんは痛みを堪えるように顔を歪める。
そのとき、黙って様子を見守っていた先生が、鋭く指を鳴らした。
「僕の家で暴力は許しませんよ、エルレージオ・ナジェル」
ばち、と火花が弾けるような音とともに、エルルさんの手が離れる。シアさんは肘掛けにもたれかかって、肩で息をしながらエルルさんから距離を取った。
「あ……」
エルルさんは我に返ったように顔色を変え、言葉を失う。
「二度目はありません」
先生が低い声で告げると、エルルさんは数度大きく頷いた。
そのとき、はらりとスカーフが落ちた。シアさんは「あっ」と声を漏らして下を見る。
見えた光景に、わたしは息を飲んで、両手で口を押さえた。
「それ……どうなさったんですか?」
わたしがシアさんをそっと窺うと、シアさんは目を伏せたまま微笑む。それから彼女は「エルルが」とだけ答えた。
シアさんの首には、くっきりと手の跡が残っている。十指の形が分かるほどに鮮明なそれは、赤いような黒いような色をしていた。まるで鬱血みたいだ。
目に痛い。非現実的な光景に思えた。倒錯した何かを感じて、頭がくらくらとした。
「首を……締められたの?」
わたしは小さく呟く。誰に言うでもない独り言だったけれど、先生は片腕をわたしの背に回して、強くわたしを引き寄せた。それでわたしは、自分が震えていることに気がつく。
先生は柔らかい動きでわたしの背を片手で抱いた。視界を遮るようにわたしの頭を胸元に寄せて、静かに告げる。
「申し訳ありませんが、一旦それを隠して頂けますか」
シアさんは「そうですよね」と息混じりの声で応じると、少しだけ苦笑したようだった。軽い衣擦れの音が続く。それから先生はわたしの頭から手を離した。
「ごめんなさい……」
わたしは首を竦めながら呟く。わたしのせいで気を遣わせてしまったみたいだ。「あたしの方こそ」とシアさんは舌を出して頭を掻いた。
「話を続けようか」
小さく咳払いをして、先生が続きを促す。視線を向けられて、シアさんは再び口を開いた。
「あたしたち、このまま一緒にいたら、いつか死んでしまうって思いました。だから今日はここに来たんです」
沈痛な顔で俯き黙り込むエルルさんに、シアさんは少しだけ笑みを向けた。
「あたしは新しい仕事を見つけて、別の街に移って……本当に遠い街なのに、エルルはそれでも頻繁に様子を見に来たんです。体を壊したのは、今度はエルルだった」
シアさんは訥々と語る。まるで何かの報告みたいだ。軽やかな調子で、ただ事実だけを述べるみたいな口調で、殺されかけたときのことを語った。
「だからあたし、もう来なくて良いって言ったんです」
首を覆う布に、そっと指先を触れる。シアさんはぽやりとした笑みで遠くを見た。
「あんまり詳しく話すのはお互いに嫌ですよね、」と苦笑すると、シアさんは隣で項垂れるエルルさんを振り返った。
「エルルは激昂した。そのことは、あたしも何となく予想はついてたけど……まさかこうなるとは思ってなかったからびっくりしました」
シアさんの言う『こうなる』というのが、恐らくは首に残った跡のことだ。わたしは思わず首を竦めた。首を絞められるだなんて、どんなにか苦しいだろう。
わたしが肩をすぼめる向かい側で、シアさんはあっけらかんと笑った。
「でも別に良いかなって。あたしたちは、たまたま生き残っただけなんだから……死ぬんだったらエルルに殺された方が、綺麗に収まると思ったんです」
「僕はそれを否定しました。僕がシアを殺すだなんてとんでもない。……でも、いつか僕はシアを手にかけてしまいそうで、怖かった。シアは僕のあずかり知らぬところで幸せになるべきなんです」
二人は互いに語る。
「だからといって、あたしたちがそう易々と縁を切れたら苦労しないでしょう?」
「その通りだ」
「だからあたし、一緒に心中するのもワンチャンありじゃない? って、そう言ったんです」
「冗談じゃない、そんなのは認められない」
「って、ね? エルルが我儘を言うんです」
「これは我儘なんかじゃない、当然の判断だ。……僕のためにシアが死ぬなんて、絶対に許さない」
頭が、くらくらとした。エルルさんは酷く苦しげに顔を歪め、胸元を掴む。対してシアさんはにこにこと楽しげな笑顔だ。わたしは心臓が変な感じにばくばくと暴れるのを感じていた。
訳が分からなかった。わたしの知っている言葉では、この二人の関係は一言で表せなかった。これが愛ってものなんだろうか?
エルルさんは膝に握り拳を起き、ゆっくりと顔を上げて先生を見据えた。
「だから僕は何とかシアと縁を切る方法を探して、ここに来ました。愚者の意志薄弱による問題も、賢者様は親身になって聞いてくれるのだと、とある花屋の女主人が言っていたのです」
先生は足を組み換え、「なるほど」と深く頷いた。
「確かに僕は、同じ頃に生まれた仲間の中では、比較的親切な方ですね」
そんなようなことを呟いて、先生はふとわたしを横目で見た。目を回しているわたしに、小さくくすりと笑う。
「こうした話題は、ヘレカには少し難しかったかな」
「ごめんなさい……」
わたしには分からない世界だ。エルルさんはシアさんのことが嫌いなんだろうか? でもそうとは思えない。でも、シアさんのことが好きなら、首を締めるなんて酷いことをする訳がないのだ。
「ヘレカは分からないままで良いよ」
先生は目を伏せて薄らと頬を緩めた。わたしは釈然としない思いを抱えたまま俯く。そんなわたしの頭を一度撫でてから、先生は再びエルルさんに向き直った。
「よろしいでしょう。相応の対価をお支払い頂けるのであれば、出来うる限り力をお貸しします」
先生は鷹揚に頷いて、組んでいた足を戻す。エルルさんはぱっと表情を明るくして、「本当ですか」と身を乗り出した。先生はもう一度ゆっくりと首肯する。
「それで……対価というのは?」
「それは、これから選ぶ手段によりますね」
先生は空中に指先をかざし、ふっと目の前を横切らせた。光の線が軌跡となって残る。
「縁を切りたい、と。しかし、ただ距離を空けるだけでは上手くいかず、会わないようにすると意志を強く持っても緩んで解けてしまう。……確かにそれは、何らかの手段で外部から介入した方が簡単なように思えます」
先生の指先が、何やらいくつかの単語を綴った。お二人に見せるために、鏡文字で書いているらしい。上手く読み取ることができずに、わたしは頭を傾けて目を凝らした。
「ここに来るまでに、結界は考えましたか? お二人のどちらかに結界を張れば、障壁に阻まれて近づくことが出来なくなるはずですね」
先生の言葉に、エルルさんは「いえ」と真剣な眼差しで応じる。光る文字に頬が照らされ、表情がはっきりと浮かび上がった。
「結界は動かないもの――例えば建物や街などに対して使われるものです。移動する生物に結界を張るのは、消費する魔力が膨大であるだけでなく、周囲の人々にも迷惑がかかります。知り合いの結界術士にも訊きましたが、不可能だと言われました」
「素晴らしい、よく勉強していますね」
早口で交わされる会話に、わたしは思わず顔を引きつらせた。何を言っているのか、全然分からない。そっとシアさんを目線で窺うと、全く飲み込めていない様子でぽかんとしている。仲間がいた、とわたしは胸を撫で下ろした。
「それでは、結界はなし、と」
先生が手のひらで空中の文字列の一部をかき消す。
他にもいくつか並んでいた単語に関して、先生とエルルさんはひとつずつ消していった。魔術、魔道具、薬剤など。
結局、わたしたちの間に浮かんでいる文字は、たった一単語だけ。
「なるほど、やはりこれが残りましたか」
先生は面白がるように指の節で顎を撫でた。それまでにわたしはやっとこさ鏡文字に慣れて、その言葉を小さな声で読み上げる。
「呪い……」
わたしはごくりと唾を飲んだ。先生はまた呪いをかけるのだろうか。相談者とのやり取りで呪いが俎上に載せられるのは、メレナさんのとき以来だった。
先生は空中に浮かんでいた文字を手のひらで散らす。苦笑混じりの、それでいてどこか楽しげな口調だった。
「確かに、普通の方法ならば叶わない望みも、呪いなら満たすことは可能でしょう。呪いが呪いたる所以です」
先生は淡々と語る。エルルさんは険しい表情でそれを聞いていた。訳が分かっていないのはわたしとシアさんだけだ。
先生は長椅子の背もたれに肩をつけ、指を三本立てる。
「僕に使える呪いは三つです。そのうち今回使えそうなものは――」
「三つも!? 何だってそんなにたくさん……」
「……まあ、必要に応じて、ということでしょうか」
言いかけた言葉を遮るように、エルルさんが目を剥いて身を乗り出す。先生は一瞬だけ目を逸らすと、口元に手を当てて咳払いをした。
わたしはそっと先生を振り返る。先生はわたしの視線を避けるように顔を背けた。わたしには言わないような事情なんだろうか?
(先生が、呪いを使えるようになったのは、どうしてなんだろう……)
わたしは少しだけ首を尖らせた。この分では、きっと訊いても教えて下さらないんだろう。
(わたし、先生のこと、なんにも知らないんだ……)
先生はもう一度咳払いをして、話題を戻す。
「一つ目は、対象の記憶を封じる呪い」
「……僕はシアのことを忘れたい訳じゃないんです」
エルルさんが不満げに首を振った。シアさんも同じように頷く。
「それに、僕たちは同じ家に養子として引き取られた以上、互いに忘れてしまうと支障があります」
「なるほど、確かにその通りですね」
先生はあっさりと応じて、指を一本折った。
「それなら、これは? ……対象への感情を操る呪い」
「顔も見たくないほど嫌いになってしまえ、と?」
「まあ、そういうことですね」
先生の微笑に強い口調で返したのはシアさんだった。
「嫌です」
断固とした声で、シアさんは先生を見据える。それまでぼんやりとした表情をしていたシアさんが、ぐっと奥歯を強く噛み締めて先生を睨んでいる。
先生は「我儘ですね」と肩を竦めて苦笑した。特に気分を害した様子ではない。
「それでは、残るのはひとつだけです」
一本だけ残した人差し指で、先生はじわりと微笑んだ。
「――認識阻害の呪い」
わたしは首を傾げる。「認識、阻害?」と繰り返すと、先生は頷いた。
「対象を認識できなくする呪いです。古の時代にはよく戦で用いられましたね」
なかなか特殊な効果だ。わたしは難しい顔で首を傾げる。先生は遠くを見るように目を細めた。
「知り合いが旗手にこの呪いをかけて、将軍の指示を認識できないようにしたときがありました。あれは流石に感心しましたね。そのせいで僕は敗走を強いられた訳ですが」
懐かしげな面持ちで呟く先生に、シアさんが怪訝な顔でわたしを見る。『何の話?』と言いたげな視線に、わたしは慌てて『分かんないです』と首を振った。
エルルさんは「認識阻害、」と真剣な顔で繰り返す。
「……姿を見ることが出来なくなる、と?」
「そうですね。声も聞こえません」
「触るのは?」
「もし体の一部が触れたとしても認識できないでしようね」
「なるほど」
わたしは二人のやり取りを聞きながら、何とはなしにその様子を想像しようとした。姿も声も認識できなくなれば、確かに今までのような関係を続けることは不可能だろう。――縁は切れる。
「……他に手段がないのなら、僕はそれで構いません」
エルルさんの言葉に、先生は「僕に打てる手はこの程度しかありませんね」と腕を組んだ。エルルさんがシアさんを振り返った。小さな声で何やら説明をしたのち、「良い?」と短い問いが投げかけられる。シアさんは一瞬躊躇い、それから頷いた。
エルルさんは数秒の間シアさんをじっと見つめて、それから先生を振り返る。
「賢者様……お願いできますか」
「はい」
先生は静かに微笑んで立ち上がった。右腕をもたげ、ゆったりとした袖を左手で手繰る。空中へ触れた指先が文字を紡いだ。
「どちらに先に呪いをかけた方がよろしいですか?」
先生はあくまで柔和な口調で、しかしはっきりとした問いを投げる。エルルさんとシアさんは顔を見合わせた。二人の目には明らかな逡巡が浮かんでいる。
「あたし、」
「僕が先に」
シアさんが何か言いかけたのを遮って、エルルさんが立ち上がった。先生は宙にさらさらと文字を綴りながら、「分かりました」と応じる。「座っていた方が良いですよ」
長椅子に腰掛けたエルルさんが、落ち着かない様子で膝の上に手を置いて居住まいを正す。シアさんはそっと立ち上がって、不安げにお腹の上で手を重ねた。
「本当によろしいのですか? もっと手立てを探さなくて良いのですか?」
先生は一瞬だけ、自分の首が締められたみたいに苦しげな顔をした。すぐにそんな表情もかき消して、先生は普段通りの飄々とした態度に戻った。
「この呪いが成立してしまえば、もう二度と彼女の姿を見ることは叶いませんよ。言葉を交わすことさえ出来ません。ましてや触れるなんて、」
「だから良いんです」
エルルさんはおずおずと背筋を伸ばしながら、遠慮がちに微笑む。
「これで、僕はもう、シアを縛ることも傷つけることもなくなる」
「……そうですか」
先生はそれ以上何も言わずに、空中に文字を綴るのを終えた。指先が一度、軽く宙を突く。終止符だ。その瞬間、先生が記した文字列が燦然と輝く。
「エルル、」
シアさんが手を伸ばした。「離れて」と先生が厳しい口調で制するので、わたしは立ち上がってシアさんの腕をそっと取る。
「これは僕たちを守るためのものなんだ、シア」
エルルさんはにこりと微笑んで、立ち尽くすシアさんを見上げた。
「このまま一緒にいたら、きっと僕はまたシアを傷つける。シアは僕のことなんて置いて幸せになるべきなんだ」
「うん……うん…………」
シアさんは重い表情で繰り返し頷く。先生が腕を動かし、宙に鮮明な文様が浮かび上がった。
「あたしがいたら、エルルは駄目になるから、」
シアさんが静かに呟く。エルルさんは苦笑して「その通りだね」と首肯した。
先生の手が文様に触れる。エルルさんは酷く柔らかい表情で囁いた。
「――さよならだ、シアネア」
光が部屋を満たす。閃光がエルルさんの喉元に突き刺さり、彼はその場に崩れ落ちた。「エルル!」とシアさんの悲鳴が響く。わたしが押さえていた腕を振り払い、シアさんが駆け寄った。
シアさんがエルルさんの体を揺する。数秒をおいて、エルルさんはゆっくりと起き上がった。
「これが、呪い……」
エルルさんは姿勢を直して、自分の体をしげしげと眺めた。特に変化のない様子を確認して、少し息をつく。
「呪痕はどこに?」
「首元に。その辺りが一番都合がいいので」
先生は答えてから、大きく息を吐き出した。わたしは先生の側に寄る。
シアさんはエルルさんの肩に手を置いている。ふと顔を上げたエルルさんが、小さな声で呟いた。
「シアがいない、」
その一言に、わたしとシアさんが同時に息を呑む音が聞こえた。
「ほんとに……見えなくなるんだ……」
シアさんはエルルさんのすぐ側に立ち尽くし、呆然とその顔を見下ろしている。わたしは口を押さえて、先生の服の袖をぎゅっと掴んだ。
「エルル、」とシアさんはゆっくりと微笑む。やるせなさの滲んだ表情に、わたしは胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「これは……本当は、シアはどこにいるんですか? さっぱり分からない……」
エルルさんは呟き、周囲を見回しながら立ち上がった。
「――まるで、シアだけが世界から消え失せたみたいだ」
シアさんは立ち上がったエルルさんを見上げる。その表情には静かな感傷が浮かんでいた。
「エルルさんの、目の前です」
わたしは小さな声で告げる。エルルさんは目を見開いてその場でたたらを踏んだ。わたしたちの目には二人が映っている。二人の声が聞こえている。けれどエルルさんにだけ、シアさんが見えていないのだ。
シアさんは躊躇いがちの笑顔で先生を振り返った。
「呪いってすごいんですね」
「いえいえ、それほどでも」
先生はわざとらしい謙遜をして、シアさんに長椅子を促す。
「お二人どちらにも呪いをかけた方がよろしいですか?」
「はい。あたしもきっとエルルのことを探しちゃうので」
シアさんはあっけらかんと笑った。先生は躊躇うことなく「分かりました」と頷く。わたしは思わず先生を見上げたけれど、先生はさりげなく唇の前に指を立ててわたしを制した。
「あの、一つ伺っても良いですか?」
シアさんはエルルさんの隣に腰かけながら先生を見上げた。長椅子が沈み込んだのを感じたらしい、エルルさんが目を見開く。
「この呪いというのは、どこまで作用しますか」
真剣な表情でシアさんは問うた。質問の意図が分からずに先生が首を傾げる。不安げな顔をしているエルルさんに、わたしは「大丈夫ですよ」と微笑んだ。
「例えば、あたしが今ここで何かを食べたら? 何かを持ったら、エルルにはどう見えるんですか」
「食べ物などは認識できなくなりますね。認識できなくなったということも認識できません」
シアさんは「体の中にあるものは見えないんですね」と頷く。何やら深刻な表情に、わたしは唇を引き結んだ。
「じゃあ……あたしがそれを口から出したら? それを手放したら?」
「貴女から離れたものは再び認識されますね」
「なるほど……分かりました」
シアさんは噛み締めるように応じた。その眼差しに何か切実なものを感じて、わたしは眉根を寄せる。
「……シアに何かあったんですか?」
エルルさんが身を乗り出した。わたしが先生を振り返ると、先生は黙って首を振る。わたしは開きかけた口を閉じた。
先生が宙に文様を描き始める。わたしはそっと先生に近寄って固唾を飲んで見守る。
「エルル」
シアさんがエルルさんの肩に手を置いて身を寄せ、低い声で囁いた。エルルさんは何も反応しない。きょとんとした表情で周囲を見回すだけだ。
「エルル、エルル、……」
シアさんの声がにわかに潤みを帯びた。わたしは胸元でぎゅっと手を握る。
「あたしばっかり頼ってごめんね。いつも自分のことばっかりで、エルルのことを考えることができなくて、あたし、」
シアさんが何を言っても、エルルさんはまるで反応を示さない。何故自分を見るのか、と言いたげな視線を向けられて、わたしは思わず先生の背の後ろにそっと隠れた。
エルルさんは、宙に指を滑らせる先生を眺めている。少し顎を持ち上げて、ぼんやりとした様子で物思いに耽っているようだった。
「賢者様、お願いします」
シアさんはエルルさんの首に腕を回しながら、低い声で囁く。先生は頷いて、描き終えた文様に手をかざした。
「エルル、あたしがどうして心中を途中で諦めたか分かる?」
シアさんがふと呟いた。わたしは眉をひそめてシアさんを注視する。部屋の中が輝きに満ちた。わたしは先生の服の裾を強く掴む。
「本当なら二人で死んでしまいたかったけど、それじゃあんまりにも可哀想だと思ったから……」
言いつつ、シアさんはエルルさんを抱く腕に力を込めて、ゆっくりと首を伸ばした。静かに頬擦りをしても、エルルさんは何も気づかない。ただ黙って先生を眺めるだけだ。
「――この子は、あたしが、ちゃんと幸せにするよ」
その言葉を残して、シアさんは先生の放った光に貫かれた。
***
「何だか不思議な二人でしたね」
後片付けをしながら、わたしは先生を振り返った。先生は窓の方を見て苦笑する。
「ヘレカには難しかったかな」
「その言い方、ちょっとだけ嫌です」
わたしは唇を尖らせて俯いた。グラスを回収して、わたしはお盆を手に体を起こす。
「それにしても、先生……対価はあれで良かったんですか?」
「ああ」
先生は窓から目を離しながら頷いた。平然としたその様子に、わたしは数分前のことを思い返す。
先生が二人に対価として要求したのは、酷く曖昧なものだった。それは、
「『幸せになること』、だなんて……」
わたしは手元に目を落としながら呟く。先生にしては珍しい、随分と概念的な要求だった。
「前にも言っただろう、呪いに大きな対価を要求するのは良くないって」
先生はしれっと答えて、余っていたお茶請けを口に放り込む。先生がそれで良いならわたしだって構わない。わたしは小さく微笑むと、そのまま厨房へと向かった。
エルルさんとシアさんは、互いに互いが認識できなくなった状態のまま、別々に帰って行った。シアさんは転職する関係で引越しを考えていて、エルルさんは数年後には卒業してどこへ行くかまだ分からないという。
(引っ越してしまったら、本当に、もう辿る手立てはないんだろうな……)
食器を洗いながら、わたしは変な感傷を胸に項垂れる。養父母はもう相当なご高齢だという。養父母の実の子供たちとは繋がりはほとんどなく、書類上は家族になっていても縁は薄いらしい。
(会いたいのに、会えないのは、とてもつらいこと)
わたしは目を伏せた。わたしがずっと会いたい人。誰なのかも分からずに恋い焦がれている人。霧の中を掻くようなこのもどかしさを、あの二人はこれからずっと感じ続けるのだろうか?
(一番会いたい人を見つけることが出来ないで、どうやって幸せになれって言うんだろう……)
先生は、二人に何を要求しているんだろう?
――幸せな姿を見せに来るように、と先生は二人にそう言った。『きっとそのうちまたこの家に来るよ』と先生は自信がありそうだったけれど、わたしにはそうは思えない。
(新しい恋なんて、そんなに簡単に始められるものじゃないのに)
胸を焦がす切なさに唇を噛みながら、わたしは長い息を吐いた。
それから半年経っても、二人はまだ姿を現さない。