2*認識阻害の呪い 上
嵐が過ぎ去って数日経った頃、この湖畔に二人のお客さまが訪れた。たまたま、玄関を入ったところの花瓶の水を取り替えていたわたしは、呼び鈴の音に素早く反応した。
「はーい!」
わたしは花瓶を置いて、玄関へと走り寄る。玄関の扉に手を伸ばして、外にいるお客さまを出迎えようとした。
「ヘレカ、出るな!」
指先が扉に触れようとしたその瞬間、慌てて走り出てきたような足音とともに、先生の静止の声が届く。しかし咄嗟に動きを止められず、わたしは取手へと指先を触れた。
「きゃっ!」
静電気を何十倍にもしたみたいな衝撃だった。一瞬足が床から離れ、二歩分ほど吹き飛ばされて尻もちをつく。
「な、なに……?」
わたしは痺れる指先をぎゅっと掴んで、呆然と扉を見つめた。駆け寄ってきた先生がわたしを助け起こす。
「ごめん、痛かったね」
「ごめんなさい、わたし、扉に触っちゃいけないなんて知らなくて……」
「言ってなかった僕が悪い。この家には強力な結界が張ってあるから……外に繋がる扉や窓にはあまり触れない方がいい」
「覚えておきますね」
わたしは先生に縋り付くみたいに立ち上がりながら、扉を見た。
「お客さまがいらっしゃったみたいなんです」
「そっか、なるほどね」
先生はわたしから手を離すと、躊躇い無く扉に触れて玄関を開け放つ。扉の向こうには、若い男女が並んで佇んでいた。どこか不安そうに身を寄せあっている二人は、先生を見上げて瞬きをする。
「……森の賢者様ですか?」
癖のある栗毛の青年が呟いた。先生は「そう呼ぶ人もいますね」と微笑むと、二人に中へ入るように促した。
「わー、すずしーい!」
赤毛とそばかすの少女が、玄関に足を踏み入れるやいなや顔を輝かせる。先生がちらりと笑った。
「外は暑いですか」
「そりゃもう、真夏ですもん」
「ちょっと、シア」
砕けた調子で頷いた赤毛の少女に、青年が慌てたように囁く。先生はくすりと笑って、「畏まる必要はありませんよ」と客間の扉を開けた。
「ヘレカ、何か冷たい飲み物を持ってきてくれる?」
「はい、先生」
わたしは頷いて、厨房脇の食料庫へと急いだ。薄暗い食料庫の床板を持ち上げて、床下に保存されている氷の塊をひとつ取り上げる。
それを砕いて4つのグラスに分けて入れると、棚に置かれている瓶を振り返った。どれにしようかと少し迷ってから、わたしは左端のものを手に取った。
桃を漬け込んだシロップである。それをグラスに半分ほど注いで、水で割った。グラスを乗せたお盆を持って、わたしは急いで客間へ戻る。
二人は長椅子に並んで腰掛けていた。栗毛の青年が身を乗り出して拳を握っている。
「つまり、ここの空調は、すべてご自分で管理なさっているということですか?」
「そういうことになりますね」
「そ、それって一体どういう式で……」
「あとで書いて渡しましょう。それほど珍しい形ではありませんから、探せば街でも使われているはずです」
「ありがとうございます」
青年は目を輝かせて大きく頷いた。その隣で赤毛の少女はよく分からないような顔をして座っている。真夏なのに首にはスカーフが巻かれていた。その結び目の辺りを指先でいじりながら、つまらなそうに唇を尖らせる。
「お待たせしました」
わたしが客間に入ると、先生は「ありがとう」と微笑んだ。
「それで、今日はどのようなご用で? まさか我が家の空調設備について調べに来た訳ではないでしょう」
わたしがテーブルを回ってグラスを置いている間に、先生はゆっくりと微笑んだ。
「今のところ、僕は弟子も生徒も取るつもりはありませんし」
「そ、そうですよね。ごめんなさい、つい……」
青年はしゅんと肩を落として項垂れた。隣の少女がその背をぽんと叩く。
「あたし、シアっていいます。こっちの魔術バカはエルル」
「ちょっとシア、やめろよ」
赤毛の少女がシアさんで、栗毛の青年がエルルさんらしい。二人は友人同士なのか、随分と仲良さそうに言い合っている。
「色々とごめんなさい。……その、僕はエルレージオといいます。こちらはシアネア。今日ここに来たのは、ひとつ相談したいことがあったからです」
「僕に答えられるものなら何なりと」
先生は柔和に微笑んで、エルルさんを促した。わたしは先生の隣に腰掛けて、エルルさんの言葉を待つ。
「――僕たちの縁を完全に断絶する魔術は存在しないのでしょうか?」
エルルさんは真剣な口調でそう言った。わたしは思わず息を呑む。はっとシアさんを見やるが、彼女が特に驚いたり傷ついたりした様子はない。……一体どういうことだろう?
先生は少し考え込むようにして、鋭い視線をエルルさんに投げかけた。
「具体的に、どのような魔術を探しておられるのですか」
「僕たちが、二度と関わらないようにする魔術です」
「……それなら、お互いに合わなければ良いだけの話では?」
先生は首を傾げる。わたしも隣で小さく頷いた。
「顔を見るのも嫌なら、引っ越すとか……」
「もう試しました。……でも、やっぱり駄目だったんです」
なるほど、ただ単に仲違いをしたという訳ではなさそうだ。わたしは疑問符を浮かべつつ二人を見た。
シアさんはどこかぽやんとした様子で、部屋の中を見回している。真剣な表情で語るエルルさんとは対称的だった。二人はとても仲が良さそうに見えた。まるで兄妹か親友のような気安さなのに、どうして、縁を切りたいと言うのだろう?
***
それは、いきなりのことだった。地面が大きく揺れた。目の前の山の頂上に亀裂が入り、走るようにして山肌へ降りてくる。
長い長い道。隣街から生まれ育った村までを結ぶ一本道の左右には、見渡すばかりのオリーブ畑が広がっていた。そんな道を、幼い少年少女が二人で歩いていたとき、それは起こったのである。
エルレージオは大きく目を見開いて、山を見上げた。傍らでは幼馴染が血相を変えて立ち尽くしている。
「おばあちゃんが、言ってた……」
そんな言葉を漏らして、シアネアは身動ぎもせずに息を止めていた。
「何だ、あれ……」
呟いたエルレージオの手を、シアネアが強く引いた。
「エルル、逃げよう!」
「え?」
「早く!」
エルレージオの手をぐいぐいと引いて、シアネアが駆け出す。二人は隣街の学校から帰宅しようとしていた途中であり、背中を向けようとしているのは生まれ育った村である。
「山大蛇が出たんだよ!」
「それって危ないのか?」
「そうだよ、早く!」
シアネアは顔面蒼白で、いつものぼんやりとした様子とはまるで別人のようだった。これはただ事ではない、とエルレージオも息を止める。
「誰も逃げてこない、村まで知らせなきゃ……」
「そんな暇ないっ!」
いつも何を言っても聞いているんだか聞いていないんだか分からない、ぽやりとした少女が、目を剥いて叫んだ。その勢いに気圧されて、エルレージオは引きずられるようにして来た道を戻り始めた。
ほんの十数歩進んだところで、凄まじい爆音が空全体を揺らした。弾かれたように振り返ったエルレージオは、天高く吹き上がった土煙と、村を飲み込む土砂を目の当たりにした。
「振り返らないで!」
シアネアが鋭く叫ぶ。しかし、エルレージオはその光景から目を離せないでいた。
村を覆う山は今や完全に崩れ去り、麓は跡形もなく土や岩に覆われている。足が竦んで動けないエルレージオの手を、シアネアが痛いほどに引いた。
「ここにいたら蛇が来る!」
シアネアがそう怒鳴った瞬間、村のあった位置から、何か巨大なものがゆらりと立ち上がった。見ればそれは川のように大きな蛇で、常識を覆すようなその姿に、エルレージオは血の気が引くのを感じた。
村を一周するよりも長い。きっと牙ひとつだけで人の背丈ほどもあるだろう。シアネアが悲鳴を上げて走り出す。 エルレージオは一瞬遅れて、それに続いた。
*
山の内に封印され、絶滅したとされていた古代の魔物。それが目を覚まし、麓の村は崩れた山に飲み込まれた。これは未曾有の災害だった。
生き残ったのはエルレージオとシアネアの二人きり。二人は一躍時の人となり、揃って都の名家に引き取られた。二人を引き取ったのは事情を聞いて手を差し伸べた、資産家の老夫婦である。
すべてを失った二人には、お互いだけしか残らなかった。事実上の災害孤児となったエルレージオとシアネアの関係が歪むのは、自明のことだったのだ。
*
悪夢を見ると、シアネアは決まってエルレージオの部屋へとやってきた。エルレージオはそれを受け入れて、結局、ほぼ毎日のように一緒に抱き合って寝ることとなった。二人の他には誰も知らない事実だった。それは二人が学園を卒業するまで続き、シアネアの就職を機に終わった。
エルレージオは学園からさらに進学して研究院へと入り、シアネアは卒業して就職する運びとなった。結果として二人のどちらも養父母の家を出て、独り立ちすることとなった。
それで、縁が遠くなり、いずれ関わりも薄くなるものだと、そう思っていた。
***
「ああ、山大蛇の大災害の生き残りでしたか……」
先生は数度頷き、顎に手を当てる。
「そうした古代生物がまだ存在していたとは思っていませんでしたから、あれは驚きでしたね」
訳知り顔でそう呟くと、先生は二人に向き直った。話の続きを促すような仕草に、シアさんが小さく頷く。
「あたしは馬鹿だけど手先が器用だったから、織物の修復を行う工房に入ったんです。空飛ぶ絨毯とかあるでしょ? ああいうのの糸のほつれを直して、また飛ぶようにしたりしてたんです。今は別の仕事ですけど」
シアさんはあっけらかんとした調子で告げた。それまで隣でエルルさんが重い顔をして語っていたのが嘘のようだった。わたしはちょっと面食らって目を瞬く。
「僕は院へ進んで、今は魔術利用に関する研究を行っています」
エルルさんは相変わらず暗い表情だ。でもその隣ではシアさんがのんびりとグラスに口をつけてにこにことしている。
何だか不思議な関係だと思った。エルルさんは随分と思い詰めてここに来たようなのに、シアさんはまるで悩んでいる様子がないのだ。どこかぼんやりと別の何かに思いを馳せているような顔をして、首元のスカーフに指先を触れている。
わたしはちらと先生を窺ったけど、先生は特に不思議そうな顔はしていなかった。
わたしは慎重に二人を窺う。一体どうしてここに来たのだろう? でもそうした事情をおいそれと訊いてはいけない気がして、わたしはきゅっと口を噤んで黙っていた。
「……お二人の生い立ちは分かりましたが、それと縁切りの話がどう関係するのですか?」
先生はあっさりと問うた。ごくごく自然に訊いてしまったので、隣にいるわたしが何故か慌てたほどだ。両手でグラスを持ったまま無言でわたわたとするわたしをよそに、エルルさんは「はい」と頷く。
「――簡単に言えば、僕の過干渉です」
「ふむ?」
先生は面白がるように目を細めた。「続けてください」と先生が手で促すと、シアさんはあっさりと答えた。
「あたしたち、このまま一緒にいたら、いつか死んじゃうんですよ」
ごく当然のことのようにそう告げたシアさんの言葉を、エルルさんが静かに継いだ。
***
エルレージオとシアネアがそれぞれ移り住んだ街は、馬車でおおよそ半日ほどかかる距離にあった。『会いに行こうと思ったら一日が潰れてしまうね』と軽口を叩いて別れたはずだった。確かに同じ家に住んでいるときよりは遠くなったけれど、別に会いに行けない距離じゃない。
二人がそれぞれ自分の生活を始めて最初の週末、エルレージオは乗合馬車を利用して、シアネアのいる街を訪ねた。住所は既に聞いていたから、特に迷うこともなくアパートの部屋にたどり着く。
「ようこそ、エルル!」
呼び鈴を鳴らしてすぐに顔を出したシアネアは、少し疲れたような顔をしていた。部屋の中には物は少なく、あまり生活感がない。
「シア、仕事の調子はどう?」
エルルが鞄を肩から下ろしながら問うと、シアネアは「んー」と言葉を濁す。
「思ったより、忙しい……かも」
その指先にいくつもの絆創膏が巻かれているのを見て取って、エルレージオは少し眉をひそめた。シアネアはさっと両手を背の裏に隠す。
「そこら辺に座って」
シアネアに促されて、エルレージオはテーブルについた。
「エルルは? 研究院でお友達できた?」
「友達を作りに行くところじゃないからね、でもまあ……気にかけてくれる先輩はいるよ」
「そっかぁ、良かったね」
へら、と眦を下げて笑ったシアネアは、飲み物と少しのお菓子をお盆に乗せて、エルレージオの向かいに座る。
少し空気が落ち着いたところで、シアネアは控えめな様子で「ちょっと作業しても良いかな」とエルレージオを窺った。
「作業?」
エルレージオが聞き返すと、シアネアは照れ笑いと苦笑が混じったような顔をする。
「あたしの作業が遅いから、仕事を持ち帰ることになっちゃって。まだ慣れてないからかな」
言いつつ、シアネアが机の下から小さめのタペストリーを取り出した。どうやらこれが、持ち帰ってきた仕事らしい。
一緒に学園に通っていた頃、宿題を忘れたシアネアが居残りで課題を終わらせるのに付き添ったことがあった。半泣きになりながらペンを動かすシアネアの向かいで、時折助言を挟んでいたことを思い出す。
懐かしい記憶に少し微笑んで、「構わないよ」とエルレージオは頷いた。
「ありがとう! せっかく来てくれたのにごめんね、さっさと終わらせたらごはんの準備するよ」
「急いじゃ駄目だよ、仕事なんだろ? 丁寧にやらなきゃ」
「うん」
シアネアはもう一度頷くと、大きな裁縫箱の蓋を開ける。色とりどりの糸がずらりと並び、立ち上がった蓋には様々な大きさの針が保管されている。シアネアが養父母から貰った卒業祝いである。
「すごいもんだな」
「仕事道具だもん」
シアネアは小さく笑うと、糸が通されたままの針を手に取った。反対の手をタペストリーの裏に回し、刺繍がほつれた位置を持ち上げる。
「あたし、ずっと、この仕事がしたかったんだ」
シアネアは照れくさそうに笑った。エルレージオは頬杖をついたまま「そうなんだ」と相槌をうつ。
「――うちは、代々織物を生業にしていたから」
きゅっと目を細めて、シアネアは手元に視線を落とした。緩く微笑んだまま、彼女が呟く。
「あたしは、お母さんの技術を受け継げなかったけど、それでも……魔道具としての織物に携わりたかった」
囁くみたいにそう言って、シアネアは静かに作業を開始した。
黙々と作業を続けるシアネアを妨げないように、エルレージオはそっと立ち上がって台所へ向かった。今日はシアネアが昼食を作ってくれることになっていたけれど、この分だとエルレージオが作った方が良さそうだ。
(頑張ってるしな)
エルレージオは少し微笑んでシアネアを眺めると、昼食の準備を始めた。
軽めの昼食を作り終えたところで、居間の方から「おわーったー!」と元気のいい声が聞こえる。直後、ぱたぱたと足音が近づき、台所にシアネアが顔を出した。目が合う。
「あ、エルル……」
決まり悪そうな顔で首を竦めたシアネアに、エルレージオは「一緒に食べよう」とだけ言って微笑んだ。
「お疲れさま」
「ちゃんとおもてなしできなくてごめんね」
シアネアは困ったような顔で頭を掻いて、それからぐっと拳を握った。
「でも、まだ慣れてないからこうなっただけだもんね! 次また予定が合ったら、今度はどこかに遊びに行こうよ」
力強く胸を張ったシアネアに、エルレージオは「そうだね」と微笑んだ。
――けれど、いつまで経っても、シアネアが、『仕事に慣れる』ことはなかった。
手紙を送っても返事が来ない。それが、異変の始まりだった。もとよりエルレージオが長文の手紙を送っても、シアネアはろくに読まない。大抵『そうなんだ、おめでとう! いえーい』程度の返事を寄越すような少女だったけれど、それでも、無視ということはなかったのだ。
これはおかしい。だが、エルレージオも進学した直後である。なかなか暇を作ることも出来ずにただ手紙を送り続ける日々が続いた。
シアネアとの連絡が絶えて二月、エルレージオは休みを見計らって彼女のアパートへと赴いた。合鍵は以前に貰っていた。
鍵を開けて入ったアパートの中は、引越し直後の整った室内とは一変していた。至るところに色のついた糸や布切れが散乱し、足の踏み場もない。照明はつけられておらず、カーテンも閉め切ったまま、淀んだ空気が沈んでいた。
「シア?」
部屋の奥は見通せず、エルレージオは大きめの声で幼なじみに呼びかけた。奥からは返事はなく、しかし何か規則的な音が響いてきている。ぱたん、とん、という音が数回繰り返されたのを聞いてから、エルレージオは室内に足を踏み入れた。
「シア、いるの?」
通路を塞ぐように倒れかかっていた絨毯の束を押しのけて、エルレージオは居間を覗き込む。果たしてシアネアはそこにいた。
大量の絨毯やタペストリーに囲まれて、一心不乱に機織り機に向かうシアネアがいた。その目は虚ろで、痩けた頬には血の気がない。
エルレージオが入ってきたのにも気づかない様子で、糸を通し、叩きを繰り返す。糸を繰るその指先は擦り切れ、血が滲んでいた。
大きな機織り機は、居住空間にはあまりに似つかわしくなかった。本来なら工房に置かれているような代物である。……そんなものが、どうしてここに?
「シア、シア!」
エルレージオは鞄をその場に放り捨てて、シアネアに駆け寄った。床に片膝をついて、肩を掴んで揺すると、ようやくシアネアの視線はエルレージオに向いた。しかし焦点は合っていない。
「…………エルル?」
長い沈黙を挟んで、僅かに動いた唇の隙間から、シアネアが自分を呼んだ。あまりにも血色が悪い。エルレージオは顔を歪めて、シアネアと向かい合う。
「シア、何があった」
努めて落ち着いた口調で問うと、シアネアはへらりと眦を下げて笑った。
「えへへ、なかなか、慣れなくて……。ごめんね、これ、今日中までに終わらせなきゃ、いけなくて、」
「シアネア、僕を見ろ」
エルレージオの手を払い、再び機織り機へ向かおうとするシアネアを引き止める。両手でシアネアの肩をしっかりと掴んで、エルレージオはその顔を覗き込んだ。
「どういうことだ。これは明らかに、個人が家に持ち帰って行う作業の量を超えている」
「そんなことないよ、あたしの作業が遅いだけ、だから……」
シアネアは途方に暮れたような顔をした。それまで妙な歪さで保っていた表情が、ここで初めて不安げな色を浮かべる。
「違うよ、エルル、あのね、……み、みんなね、あたしならできるって言ってくれるの。だからあたし、ちゃんとやらなきゃなって、」
「シア……」
エルレージオは言葉に困って、シアネアの目の奥をじっと見つめた。
「……シア、ごはんはちゃんと食べてる?」
「ううん、最近は、あんまり……」
「睡眠時間は?」
「えっと……」
シアネアはばつが悪そうに俯く。「そっか」とエルレージオは様々に言いたいことを飲み込んで、シアネアの肩から手を離した。
「何か食べるものを用意するから、シアはそこで何もしないで待っていて」
言いつつ立ち上がり、エルレージオは台所へ向かった。冷蔵庫を覗き込むが、ろくな食料がない。何とか適当に見繕った昼食を用意して、エルレージオは居間に戻る。
「……シア?」
部屋の床を埋め尽くす布地の中に、赤毛が覗いた。エルレージオはすぐさま駆け寄り、床に倒れ込んでいるシアネアを助け起こす。
「シア、どうした」
背中に手を入れて体を持ち上げても、シアネアはぴくりともしない。エルレージオは血相を変えて、シアネアを見下ろした。
*
暗い部屋の中に、ベッドが並べられていた。隅のベッドの周りに垂らされたカーテンの中で、エルレージオは椅子に腰掛けたまま船を漕ぐ。
「……ん、」
小さく声を漏らしたシアネアに、エルレージオは微睡みから抜け出した。
「……シア?」
低く囁きかけると、シアネアは「エルル、」と応じる。エルレージオは立ち上がり、ベッドに横たえられたシアネアを覗き込んだ。
「ここ、どこ……?」
「近くの診療所だよ」
エルレージオは椅子を引き寄せて、シアネアの枕元に寄る。
「過労と栄養失調だそうだ。数日はここで安静にしているようにとお医者様も言っていた」
「かろう……」
シアネアはうわ言のように呟いた。
「でも、明日は、工房に行かなきゃ……」
「シア!」
エルレージオは咎めるように声を出した。隣のベッドで身じろぎする気配を感じて、すぐに声を潜める。
「シア、あの工房は辞めるべきだ」
「どうして?」
シアネアが眉をひそめた。掛け布団から片手を出し、エルレージオを腕を掴む。
「あたし、あそこで働くのが夢だったんだよ……?」
「このままじゃ、シアは死んでしまう。……シアは搾取されてるんだよ」
訳が分からない、とシアネアは呟いた。腕に触れる指先は、肌に引っかかる。シアネアの指の腹は、酷使され乾燥してひび割れていた。
「今のシアは正常な状態じゃない。一旦仕事を離れるべきだよ」
「やだよ、やだ……! 何でそんな酷いことを言うの……? エルルは何も知らないくせに、エルルは何も関係ないくせに……!」
泣きながら、シアネアは何度もエルレージオの腕を叩いた。ろくに力のこもっていないその攻撃を受けながら、エルレージオは目を伏せて沈黙していた。
*
結局、シアネアは就職したばかりの工房を二ヶ月で辞めることとなった。シアネアが入院している間にエルレージオが工房へ赴き、事情を説明し、退職の意を伝えたのである。
ただの幼なじみにしては分の過ぎた行為であることは分かっていた。けれど心身ともに疲弊しきったシアネアが、正常な判断を下せる状況ではないのも確かだったのだ。
退院したシアネアは酷く落ち込んだが、月が一巡りもする頃には持ち直した。
「やっぱり、エルルの言う通りだったね」
初めの頃の整頓された趣を取り戻した室内で、シアネアは湯気の立つティーカップを両手で包み込みながら呟いた。
「あのまま仕事を続けてたら、きっとあたし壊れてたよ」
「……でも、僕もやりすぎたと思っている。本来ならシアネアの仕事のことに、こんなに干渉するのはおかしいよね、……ごめん」
エルレージオは後ろめたさを隠しきれずに唇を歪めた。
憧れの職を手から放して、打ちひしがれるシアネアを見るのは辛かった。しかもそれは自分の仕業なのである。
項垂れたエルレージオに、シアネアは少しの間黙り込んだ。それから腰を浮かせ、両手でエルレージオの頬を挟む。
「ううん、そんなことない」
ぐいと顔を持ち上げられて、エルレージオは思わず息を飲んだ。目の前にシアネアの真剣な表情があった。
視線が重なった一呼吸あと、シアネアがふわりと目を細めて笑む。
「ほんとにありがとう、エルル」
――あなたの言う通りにしてよかった。
それが、エルレージオへの呪いの言葉となった。