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幕間 上


 わたしには記憶がない。わたしの持つ一番古い記憶、それは、ベッドの上で目が覚めたときの記憶だ。そのとき先生はわたしのすぐ脇にいて、目覚めたわたしに優しく声をかけてくれた。

 それより昔のことは、分からない。わたしには、名前も身寄りもなかった。それを与えてくれたのが、先生なのだ。



 この数週間ずっとカンカン照りで、森の中は少し乾いているように見えた。空気も乾燥していて、先生はちょくちょく文句を言っていた。この家で使われている水は、先生が設置した装置が作り出すものだ。それはどうやら、大気中の水分を集めるようなものだったらしい。

 蛇口を捻ってもちょろちょろとしか出ない水に、ため息をつく日が続いた頃。


 それまでの埋め合わせをするように、空を真っ黒く染め上げる、重い雨雲が現れた。予想に違わず、分厚い雲の底が決壊してから、今日で丸一日経つ。


 外はどしゃ降りで、もはや雨音にも聞こえないような轟音が窓越しに響いてきていた。わたしはベッドに腰掛けて、机の上の小瓶を手に取る。


 記憶はちっとも戻らなかった。毎日こうして、先生が調合してくれる薬を飲んでいるのに、わたしは今までのことを全く思い出せそうになかった。

 わたしは小瓶の蓋を開けて、唇を寄せる。くいと中身をあおろうとした瞬間、わたしは聞き慣れない音を耳にした。



 こつ、こつ、と、窓に何かが当たっているような音。わたしは動きを止めて、窓を注視した。

 外はどしゃ降りで、横殴りの風が吹き付けている。でも風の音じゃない。――何か、実体のある何かが、窓を叩いているのだ。

 暗い夜の森では、視界を遮るほどの水煙が立ち込めていた。荒々しい雨風の音は、窓の隙間からゆっくりと部屋の空間へ染みてきているような気がした。暴風に晒された森は大きくうねり、梢からは悲鳴のような葉擦れの音がする。


 こつ、こつ、こつり。窓が叩かれる。何かが窓を叩く。

 ――何かが、硝子一枚隔てた向こうから、わたしをじっと見ている。


 心臓が早鐘を打っていた。わたしは身動きできずに凍りつく。鼓動が耳の底でこだまする。心臓が口から出てきそうだった。何が起こったのか分からず、それを見定めるように、固唾を飲んで瞬きを繰り返す。


 こつり。何かが窓を叩いた。こんこん、と、まるで人が叩いているみたいな振動。こつ、と、さも哀願みたいに。

 わたしは目を見張ったまま、窓を見つめた。光も何もない外、先生がいつも『危険』と言う外、激しい嵐に揉まれる外、――この窓の向こうに、何かがいる。


 窓の外はどこまでも真っ暗だ。





 一呼吸の刹那、窓が殴りつけられたように衝撃にたわんだ。ドン、と鋭い音が、過敏になった耳に突き刺さる。


 わたしは思わず小瓶を取り落とし、ベッドから転げ落ちた。窓が叩かれる。瓶が割れ、中身が床に広がった。窓が叩かれる。わたしを呼んでいる。

 わたしは震える足で這うように進んだ。窓が叩かれる。何かが外にいる。わたしは息もできずに廊下へと駆け出した。窓が叩かれる。窓が叩かれる。雨音が響く。窓が叩かれる。


 わたしが部屋を出る直前、追い打ちをかけるように、窓がもう一度、ドンと強く叩かれる音がした。びりびりと窓枠が震える気配に、わたしはついに悲鳴を上げる。耳を塞いで、わたしは絶叫した。音は止まない。窓が何度も叩きつけられる。雨音が響く。窓は絶え間なく叩かれ続ける。

 わたしは逃げようと扉に手をかけた。この部屋から逃げなくてはいけない。でも『何か』は外にいる。どこへ逃げたって回り込んで追ってくるだろう。じゃあ、わたしは一体どこへ逃げれば良いの?

 ドン、ドン、と窓は何度も何度も何度も、何度でも叩かれた。わたしは身動き出来ないまま、扉の前に立ち竦む。頭がくらくらした。




  まどが たたかれる


  なにかが そとから


  わたしを みている


  わたしを よんでいる




 わたしはやっとの思いで扉を押し開けた。そのまま転げるように廊下を通って、先生の部屋の扉を叩いた。先生はなかなか出てこなかった。わたしはこれ以上立っていられずに、廊下にへたり込む。

(さっきのは一体なに?)

 わたしはくしゃりと顔を歪めて、口を押さえた。


「ヘレカ?」

 ややあって顔を出した先生は、随分と疲れた様子だった。

「どうかした?」

 床にぺたりとお尻をつけて座っているわたしを見下ろして、先生は怪訝そうに身を屈める。

「先生、あの……」

 わたしはぐっと唇を噛む。先生はここ最近ずっと忙しそうだった。……これ以上心配をかけたくない。ただでさえわたしはほとんど穀潰しのようなものなのに、これ以上、外に何かがいると騒ぎ立てるのは憚られた。


「……何でもないんです、」

「何でもないという顔じゃないよ、ヘレカ。おいで」

 腰が抜けたみたいになって動けないわたしを、先生は軽々と抱き上げた。わたしは一度は降りようとしたが、咎めるように「ヘレカ」と呼ばれたので、大人しく先生の肩に顎を乗せる。



 先生の部屋には椅子がひとつしかない。その椅子は先生の為の椅子だから、わたしは座る場所がなかった。先生は部屋の中で思案するように立ち尽くした。

「床にでも下ろしてください……」

「馬鹿言え」

 先生はちょっと怒ったみたいな顔を作ってわたしを睨むと、わたしをベッドの上へと置いた。わたしは膝の上で両手を握って項垂れる。

「……お忙しいのにごめんなさい」

「まだそんなこと言ってる」

 先生は腰に手を当てて、叱るようにわたしの顔を覗き込んだ。


「僕は、ヘレカのことを迷惑だなんて言ったことがあったかな」

「いえ……」

 わたしは力なく首を横に振る。先生はやっと表情を和らげて、わたしの前に膝を折ってしゃがみ込んだ。握り込んだわたしの両手をほどくみたいに手を重ね、先生は優しい顔でわたしを見上げた。


「――ヘレカ。何があった?」

 その問いに、わたしは唇を引き結んで逡巡する。しばらく黙り込んでから、わたしは俯いたまま呟いた。

「……嵐が、怖くて」

 先生はやんわりと目を細める。ちらと窓の外を見やって、先生はぱちんと指を鳴らした。厚手のカーテンがするすると動いて窓を閉ざす。


「きっと明日になれば嵐も過ぎるさ」

 ふっと天井の灯りが絞られ、部屋の中は薄暗闇に落ちた。一瞬体を強ばらせたわたしの手を先生は優しく包む。

「今日はここで寝なさい。この家の中は絶対に安全だから、何も心配することはない」

 先生がわたしの目を片手で塞いだ。さも当然のようにベッドの上へ横たえられ、わたしは慌てて先生に手を伸ばす。

「わたし帰ります、先生放して、」

「それで部屋に帰って泣きながら布団にくるまるつもりかな?」

「わたし、泣いてません……!」

「そう? 僕には泣いているように見えたけど」

 先生は随分と楽しそうなご様子で笑うと、薄い掛布を引っ張ってきてわたしにかけた。


「大丈夫だよ、ヘレカ。何者もこの家には入れさせないから……安心しておやすみ」

 するりとわたしの目から手を離して、先生は少しだけ頬を撫でた。わたしはぽかんとしたまま先生を見上げる。いつの間にかわたしの頭の下には枕があるし、体の上には掛布までかかっている。

「先生……」

「僕はまだ少しやることがあるから、先に寝ていなさい」

「……先生、わたしがここにいたら、どこで寝るおつもりですか?」

 わたしはきゅっと眦を下げて、唇を噛んだ。先生はあからさまに目を逸らす。


「……先生、行かないで」

 わたしは駄々をこねる子供のようにすがりついていた。掛布から両手を出して、先生の肘を掴む。

「ヘレカ」と先生は困ったように呟いた。それから、無言でベッドの縁に腰掛ける。

「君が眠るまで手を繋いでいてあげるから」

 先生の手が、わたしの両手を包み込んだ。わたしは小さく頷いて、潜り込むように枕へ顔を伏せる。


「おやすみ、ヘレカ」

 先生の穏やかな声が聞こえて少しした頃、わたしはすぅっと眠りに落ちた。




 ――ヘレカ、と誰かが私を呼んでいた。決して知らない声ではなかった。

 その人は、私のことが大好きで、私もその人のことを愛していた。私たちは幸福な恋人だった。

 ヘレカ、と声が呼ぶ。私はその声に応えたい。けれどどうやっても手が伸ばせない。私は動けない。私はあなたのことが分からないのだ。私には何も分からない。


 泣きたいほどに愛おしい、その人の腕に、ただ抱かれたいだけなのに。


 早く行かなきゃ。あの人に会わなきゃ。でもあの人って誰? 分からない。分からないけど、私はあの人を愛しているのだ。私は彼だけを愛している。きっとあの人も同じだ。私たちは幼い頃からずっと一緒に育ってきたんだもの。あの人のことなら何だって分かっている。


 行かなきゃ。行かなきゃいけない。私はあの人に会わなくてはいけない。



 あの日も、こんな嵐だった。あの人は私に手を伸ばして、必死に追いかけてくれたけれど、私たちの手はどうやったって重ならなかった。

 でも、私は、あの人の顔も名前も分からない。それが酷くつらい。

 私は一体何をしたというんだろう。それさえも分からない。まるで霞を手で切るような心地だ。これは一体何の罰なのだろう。

 このたったひとつの願いは、それほどまでに傲慢なものだろうか? 慎ましやかな願いではないのだろうか?


 大好きなあの人のことを、私はただ、思い出したいだけなのに――!




「――ヘレカ、」

 先生の声がわたしを呼んだ。わたしははっと目を覚まして、先生を探すように首を巡らせる。

「何か悲しい夢でも見た?」

「え……?」

 自分がどこにいるのかすら分からず、わたしは狼狽えた。ここはどこ? どうして先生がわたしの隣に……。

「悲しい夢、じゃ、ないです」

 わたしはつっかえながら答える。息が詰まった。

 悲しい夢なんかじゃない。わたしが思い出せない『あの人』のこと。あの人を夢に見ているのに、それが悲しい夢だなんてありえない。

 目尻からぶわりと涙が浮き上がり、こめかみを流れて耳へ伝った。

「とっても嬉しい夢なんです、とても大好きな人が出てくる夢なんです。でもすごく苦しい。苦しいんです、先生」


 先生は枕元の椅子に腰掛けて、わたしの頬に手を伸ばした。濡れていた目元を指先でそっと拭うと、先生はほのかに微笑んだ。


「そっか。ヘレカは全部忘れてしまったけれど、まだ……」

 そう囁いて、先生は顔を伏せた。先生は苦しげに唇を噛んでいた。まるで泣いているかのようなその表情に、わたしは胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。



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