1*記憶を消し去る呪い 下
「人の心や記憶に手を加えるのは、魔術の範疇にはありません。貴女の記憶に僕が手を出すには、呪いという手段を使うしかない。……呪いをかけられる覚悟はおありですか?」
「……何なりと」
メラナさんは全てを受け入れるように頭を垂れた。先生が組んでいた足を戻す。テールスさんは時間稼ぎをするみたいに話題を逸らした。
「賢者さまは、呪いまでもを操るのですか」
「僕が知っている呪いは三つだけですよ」
言いつつ、先生はしなやかな動きで立ち上がる。――考えるよりも先に、わたしは手を伸ばして先生の服の裾を掴んでいた。
「ヘレカ?」
「先生、……本当に、記憶を封じてしまうのですか?」
声を震わせたわたしに、先生はちょっと途方に暮れたみたいな顔をする。
記憶がない辛さは、きっとここにいる中ではわたしが一番知っている。足元がすとんと抜けてしまったような心細さや、何か大切なものを手放してしまったような、でもそれが何なのか分からない、空虚な喪失感。そうしたものを、今目の前にいるメラナさんに背負わせるのは、あまりにも酷だと思った。
でも、……でも、今のメラナさんも、十分に苦しんでいる。きっとたくさん悩んでここに来たのだ。
結局、わたしは黙ったままはたりと手を下ろした。先生は柔らかく微笑んで、わたしを見下ろす。
「僕はただ、要望を叶えることだけを使命とするって決めたんだ。それが正しいとか間違ってるとか、善とか悪とかを判断するのは、森の外での話だ」
「はい……」
わたしは頷いて、それきり口を噤んだ。出過ぎた真似をしたのは、誰よりも痛感している。いたたまれなさに身を竦めると、メラナさんは「ありがとう」と控えめに微笑んだ。
先生は右腕をすらりともたげた。その指先が弧を描いて、光の軌跡を中に残す。
「今ここで記憶を封じてしまっては、帰るのに支障がおありでしょう。――メラナさん、あなたが想い人を思い出すのは、どのようなときですか?」
メラナさんは長椅子に腰掛けたまま、背の高い先生を見上げた。突然の問いに困惑したように、ぽかんと口を開いて、……それから儚く微笑む。
「花を見たときに」
その表情が、あんまり優しいものだから、わたしは思わずくしゃりと顔を歪めた。
「それでは花を引き金にしましょうか」
先生が囁くと、宙をさまよっていた軌跡が光を増す。メラナさんは首を逸らして先生を見上げるようにしながら、そっと胸の前で指を組んだ。
「目を閉じて」
先生の声に、メラナさんが瞼を下ろす。まるで祈るみたいな姿勢だった。
「花を見たら貴女は彼のことを忘れます。その声も、顔も、名前も、思い出も、存在さえも、すべてを」
先生の周囲で、指先が通った軌跡が燦然と輝く。眩いばかりと明るさに、わたしは思わず目を細めた。
メラナさんの眦から、音もなく、一筋の雫が頬を伝った。
光が室内を満たす。いっそ痛々しいまでの光度を放った紋様は、一瞬の明滅ののち、鋭くメラナさんの喉を突き刺した。
メラナさんは静かに微笑んでいた。
「――あの人もいつか私のことを忘れて、幸せになりますように」
そんな囁きを残して、メラナさんはその場に崩れ落ちた。テールスさんが慌ててその体を受け止めて、背もたれに体を戻す。
反らされた首元には、星の形をした痣のようなものが浮かび上がっていた。――これが呪いのしるし、なのだろうか?
「じきに目覚めます。帰るまでの道中にも花はあるでしょうから、帰宅までは目隠しをしていた方が良いかも知れません。介抱できますか?」
「分かりました」
先生は光る指先を握り込みながら、不安げな顔をしているテールスさんを見やる。テールスさんは少し躊躇ってから、しっかりと頷いた。
テールスさんが自らのネクタイを外して、メラナさんの目を塞いだ頃になって、メラナさんは意識を取り戻した。
「……花を見たら、私はアルビネスのことを忘れるのですか?」
「花、あるいは花を象ったもの、――貴女の想い人を想起させるすべてです」
先生は淀みなく答えた。メラナさんは「そうですか」と息を吐く。
「ありがとうございました。それで……私はどのような対価を払えばよろしいでしょうか」
メラナさんの言葉に、先生はつと視線をわたしに向けた。いきなり見られたわたしは、ぎょっとして首を竦める。
「ヘレカ、欲しいものはある?」
「えっ、えっと、欲しいもの、ですか?」
わたしは意表を突かれて、目をぱちくりした。そんなの、いきなり訊かれても困ってしまう。
「食べたいものでも良いよ」
「食べたいもの……!?」
わたしは目を回しながら、先生を見上げる。
「えっと、じゃあ、わたし……桃が食べたいです」
「だそうです。桃をお願いします」
先生はすぐさまメラナさんに向き直った。わたしは「ええ!?」と仰け反る。メラナさんとテールスさんも、随分と驚いたような反応を示した。
「……そ、それだけでよろしいのですか?」
メラナさんはおずおずと問い返す。先生は「はい」と一旦答え、それから「ああ、それと……」と言葉を続けた。メラナさんが肩を強ばらせる。
「――メラナさんがとびきり綺麗だと思う花を、手ずから摘んで送ってください」
軽やかにとどめを刺して、先生はにこりと微笑んだ。
手を繋いで森の中を帰って行った二人を見送って、わたしは小さく息をついた。
「先生、いつもは法外な金額を要求するのに、どうして今回は……桃とお花だなんて」
「今回は呪いを行使したからね。呪いに大きな対価を発生させるのは、昔から災いのもとだ」
先生は窓際に立つわたしの肩を引き寄せて、窓を静かに閉める。
「あまり窓に近づいてはいけないよ」
指先で素早く錠をかけ、直後、ぱちりと小さな火花が散る。結界だ。
「――外は危険だからね」
そう言って、先生は両腕を伸ばすと、静かにわたしの頭を抱いた。まるで目を塞ぐみたいに、胸元にわたしの頬を寄せながら。
***
兄によって頭に巻かれたネクタイを、メラナは数日経ってもなかなか外すことができなかった。頭にネクタイを巻いてるなんて、とんでもなく恥ずかしかったけれど、それでもだ。
見るに見かねた侍女によって、ネクタイは柔らかい絹布に変えられた。決して外が透けて見えないように、幾重にも折りたたまれた布だ。
「メラナ、いつまでそうしているつもりなんだ?」
陽の射さない部屋の中、窓際に佇んでいるメラナに、テールスは困り果てたような調子で問うた。
「せっかく賢者さまのところまで行ったのに、目隠しをしていてはなんの意味もない」
「分かってるわ。……分かってるけど……どうしても勇気が出なくて、」
メラナは分厚いカーテンの裾を握る。このカーテンの向こうには、かつてアルビネスが世話をしていた花園があった。その光景を瞼の裏に思い浮かべるだけでも、胸の底に痛烈な痛みが走った。
このカーテンを開けて、目隠しを取ってしまえば、メラナは本当にアルビネスを忘れてしまうのだ。その声も、笑顔も、言葉も、すべてを。出会いから別れまでのまるっきりが、なかったことになる。
そうすればどれだけ楽になるだろうかとメラナは項垂れる。もう何も苦しむことなく、思い残すことなく幸せな花嫁になれるのだ。
「それなのに、どうして……!」
メラナは窓枠に片手を置いたまま、ずるずると壁際にしゃがみ込んだ。堪えきれない嗚咽が喉から漏れる。背後ではテールスが狼狽えるような気配がした。
メラナは賢者に対価を払わねばならない。桃はどうにでもなるけれど、花はそうもいかないのだ。森の賢者がメラナに要求したのは、花――メラナが自分の手で摘んだ、メラナ自身が綺麗だと思う花だ。
メラナはほとんど癇癪のように声を荒らげた。
「花が綺麗かどうかなんて分からないっ! 私は花を見たくない、見たくないのよ……!」
両手で顔を覆って、メラナは暗い室内でうずくまった。誰もいない部屋に、嗚咽だけが響く。
――――花を見たら、私は誰よりも大好きな人を忘れてしまうのだ。
*
目隠しをしていることによる弊害は、事故という形となって現れた。自室の壁紙が花柄というまさかの事態に、メラナはカーテンを閉め切った屋敷の中でも目隠しをして行動することとなったのだ。
そうして、メラナは階段を踏み外した。
意識を取り戻し、はっと目を見開いたとき、メラナの目には包帯が巻かれており、何も見えることはなかった。そのことにまずメラナは安心したのである。
話を聞くところによると、階段を踏み外して、そのまま手すりに顔をぶつけたらしい。侍女たちでは咄嗟に支えられず、目に近いところの頭を酷く打ち付けたようだ。視力が著しく低下する――あるいは、盲目となる可能性があると医師から聞いた。
外交を担うことの多い王太子妃、ひいては王妃にとって、盲目は大きな痛手である。顔を見て覚えることができないのは、それまで視覚に頼って人を認識していたメラナにとって、大変なハンデとなり得た。
これが、既に婚姻後ならば、周囲の全力の支援によって立ち続けることもできたろう。しかし――メラナはまだ、引き返せる位置にいたのだ。
誰も口に出して言うことはなかったけれど、『もしかしたらあの話は反故になるのでは』といった雰囲気が、屋敷の中には蔓延していた。
王太子が見舞いに来るという報せが舞い込んだのは、そんな頃だった。
王太子には、賢者の呪いのことは言っていない。王太子はアルビネスのことなど、つゆ知らずにいるはずである。
負傷した婚約者を見舞いに来た優しい王太子は、頭に包帯を巻かれたメラナを痛々しそうに見た。
「こんにちは、メラナ」
枕元に腰掛けて、王太子は優しい声で語りかける。メラナは丁寧な調子で、来訪への礼と、このような形で迎えることの詫びを告げた。
「大変な事故だったね、可哀想に」と王太子は酷く善良な、それでいてやや凡庸な同情を示した。メラナは淑やかに微笑むことで応えた。
この人と添うて、きっと不幸になることはあるまい。きっとこの人はメラナをとても大切にしてくれるに違いない。そこには穏やかな幸せが待っている。そんなことは言われるまでもなく分かっている。
……それでも。それでもなのだ。そう簡単に思うようにならないから、メラナはわざわざ森に分け入ってまで賢者のところまで行ったのだ。
すとん、と何かが心の内に落ちた。メラナは泣き出すのを堪えるように顔を歪めた。
それを、王太子は痛みに耐える仕草と思ったらしい。彼は気遣いに満ちた声で語る。
「王族専属の治癒師集団なら、きっとその目を治せる者もいるはずだ。今はまだ治癒師を派遣してやることはできないけれど……正式にこの話が決まれば、」
そんな風に未来を語る王太子の言葉を、メラナは「いえ」と柔らかく遮った。
「私、このままで構いません」
え、と戸惑った声が床に落ちた。メラナには何も見えない。包帯がなくともきっと、メラナには何も見えない。痛み止めを飲んでいても、両眼の痛みは耐えがたかった。それでも、……これで良いのだ。
「治すつもりはない、と? しかしそれでは、色々と支障が……」
王太子は困り果てたように呟く。メラナはぐいと口角を上げた。随分と久しぶりに笑った気がした。
「はい。私、このまま何も見えなくても構わないのです」
***
初夏と呼べるような爽やかな季節が過ぎ去り、むっと草いきれが押し寄せるような真夏が訪れた頃、わたしと先生の住む湖畔の家に、一抱えもあるような大きな花束が届けられた。
花束と共に届けられた箱を前に、わたしは首を傾げる。
「この箱は何でしょうか?」
「大体見当はつくけど……開けてごらん」
先生に促されて、わたしは箱の蓋を持ち上げた。「わあ!」と思わず歓声を上げてしまう。
「美味しそうな桃ですね……!」
「そうだね」
平べったい箱の中に、大きくて丸い桃がきっちりと枠に入れられて並べられている。わたしは目を輝かせて箱を覗き込んだ。
と、そこでわたしは、はたと動きを止めた。桃とお花ってことは、これって……。
「これ、メラナさんからの謝礼ですか?」
先生は「さあ?」と微笑みつつ首を傾げた。
「都に最近できた花屋からの贈り物みたいだよ」
花束に添えられていたカードを指先で挟んで、先生は含みのある表情でわたしを見る。わたしは話が分からずに眉をひそめた。
「最近、こんな話を聞いたんだ。真偽の程は分からないけれどね」と先生は穏やかな口調で、しかし淡々と語る。
「あるところに、とある令嬢に求婚した命知らずの使用人がいたんだそうだ。あとは、王太子殿下が最近ちょっと落ち込み気味、なんて噂も聞いたかな」
先生は、世界中のものごとを、まるで見てきたかのように話す。今も、先生はさしたる感慨も込めずに、訥々と森の外のことを語っていた。
「ああ、そういえば――とある都の街角に、元庭師とその妻が、新しく花屋を開いたという話も聞いた。妻は盲目だけれど、誰よりも花の美しさを知っているそうだよ」
わたしはちょっとだけ、眦を下げた。
「これで良かったんでしょうか……?」
「それは、森の外で決めることさ」
先生は明確な答えを返すことなく微笑むと、桃の入った箱を抱えあげた。
「今日の昼食後にでも、さっそく一つ頂こうか」
「わたしは花瓶の準備をしてきますね」
それから、わたしたちの家には、定期的に綺麗なお花が届くようになった。