第一章
どこで間違えたのだろう?
あんなに完全に支配していたのに…。
マサキはもう、自分で自分の感情がコントロールできなかったはずだ。
だから、コンナコトデキルハズガナイ。
ユキの頭の中で迷路が手招きしだした。部屋へ帰ってから、ゆっくり考えよう…。
ユキは母親が借りてくれた、江古田のマンションに向かって、トロトロ歩き出した。
上野駅に出る途中に、有名なコンサートホールがある。海外の著名な音楽家達が演奏するらしい。そういう事に興味のないユキだが、前を通る時、ちょうど演奏会が終わったらしく、中からオシャレした男女が出てきて、ユキの脇を歩き始めた。
「素敵な夜にしてくれて有難う。私あの曲大好きなの!」
「良かったよ。君が喜んでくれて」カップルの会話が耳に入った。
(この2人‥これからセックスするのかな〜どっちにしても仲良さそうだから、いつかヤルよね)
そう思うと、早く部屋に戻ってマサキを取り戻す方法を考えようと、ユキは駅に向かって駆け出した。
ユキの暮らしている部屋は練馬のはずれにあって、ユキが通う大学は歩いて10分ほどのところにある。この栄光大学は、なんとしても我が子をどこかの大学へいれたい、と願う東京近郊の親をもつ学生が多い。
ユキの母親も同様に、娘が結婚の際その価値を下げないためにと、ユキをこの大学に入れた。大学のすぐ近くに贅沢ではないが綺麗なマンションも借りてくれた。
生活費も全て母親が送ってくれた。
この頃母親には有力者のパトロンがいたので、お金で困ることは何もなかった。
むしろこの頃の母 勝枝にとって、何かと批判的なユキの目はウジャラシく、そばから追い払うためならいくらかかってもよかった。
ユキはユキで、母の膝の上の赤くてかったハゲアタマの残像から、逃げるように東京練馬のマンションに引っ越した。
ユキの実家は千葉県の漁師町で、親子三代、漁師の使う道具を作りそれを商って暮らしてきた。
父親はユキが16歳の時急死、そこで家業は途絶えた。
ユキの母親は男好きのする美人で、亭主をなくした後は、友人と近所に居酒屋をひらいた。
高額な保険金が入ったので、お金に困ったからではない。亭主に従わされてばかりの人生が、運良く早く終わったからだ。
母親は父親が死んで以来、すっかり変わった。
見た目は華やかで若々しくなり、食卓はみすぼらしくなった。
今まで三度々贅を尽くして作った食事は、買ってきたコロッケなどの安くて簡単な物に変わった。
何より変わったのは、彼女の居間に横になっている男共だった。
ユキの父親は筋肉質の美男子で、背も高く、笑うと白い歯が職人らしく爽やかだった。
だが父親が死んでから、母親の居間に代わる代わる現れて消えて行くのは、頭の禿げた脂ぎった年寄りや、何の取柄も無さそうな中年の男だった。
ユキが見たものは、母親の居間‥そこは以前父親の居間だった…に散らかっている酒のビンとつまみの料理、その中に座っている母親の膝と、その上に乗っている、赤くテカテカした禿げ頭だった。
母の勝枝もかなりの性悪だが、父の母親である菊もそれに輪をかけた性悪で、いつも息子以外の家族の悪口を言って暮らしている。
一番口汚く罵るのは死んだ夫の事だ。ユキはこの祖母から、絵本を読んでもらうかわりに、毎日…、
「お前はスケベな爺さんと、男好きの母親が作ったデキソコナイだ。お前がそんな体に生まれたのも、そんバチが当たったんだ」と聞かされて育った。
「広之(ユキの父親の名前)の子供は、元子と安良だけさ」とも言った。
ユキには、2つ違いの妹と8つ違いの弟がいる。
ユキは父親似のガッチリした骨格で色黒の筋肉質、下の2人は母親似、色白のぽっちゃり系でユキとは何もかもが正反対に出来ている。
そのせいかユキは物心ついてから、両親にだかれた記憶がない。
覚えているのは、父親の膝の上で頬ずりされている妹と、母親に愛しそうに抱かれている弟の姿だけで、自分はといえば唯一記憶しているのは、6歳の時昼寝しているユキの姿を両親が見下ろしながら…、
「この子は寝姿さえウジャラシイ」と言った言葉だけだ。
ウジャラシイというのはユキの故郷の方言で…<その対象に接していると気分が悪くなる>…という意味らしい。
その事でユキは両親が自分を愛さず、むしろ嫌っているのを思いしらされた。
妹の元子が3歳の夏、両親が留守の間に、風呂まで引っ張っていきタイルに体をゴツゴツぶつけたり、頭を殴りつけて楽しんだ。
弟の安良が1歳になる頃、やはり両親の留守中、かんだガムを赤ん坊の口の中に押し込んでのみこませた。
2人とも死ねばいいのに…、ユキはいつも思っていた。
たいがいは両親の留守中は祖母が見張っていたので、あいにくそれ以上の悪さをせずにすんだ。
20歳を過ぎた今でも、2人とも不幸になればいいという思いは何も変わらない。