第四章の六
銀千画廊のあるみゆき通りは、ほんのかすかだが、古き良き時代の銀座の面影が残っている。両側の歩道にある柳の木や、風花堂、小さな間口の呉服店、今ではあまり見られなくなった甘味どころ、英国仕立ての洋品店などが、通り沿いに並んでいる。
銀千画廊もそれらの店と同じように、古くて小さな造りだ。知らない人が見たら、ここが画廊とは気付かずに通り過ぎてしまうだろう。
狭い間口いっぱいのガラスに、版画の割には大きめな絵が、一枚だけ飾られ、そのとなりに、同じ大きさの、作者を紹介するポスターが貼ってあった。
<星野広子>作者の名で、すぐに星野の母親だとわかった。堀田は画廊の前で、ガラスのドアに顔をくっつけて中を覗いた。
ひとみがいないと入り辛い。中があまりよく見えないので、困ったやうに立っていると、上着の袖をひっぱられた。
「堀田先輩!私も1人じゃ入り辛いから、来るの待ってたんです」
堀田は今までの軽やかな気分が一変に吹き飛んだ。空気が急に重くなる。
「どうして君がここに?」ユキは当たり前だ、という顔をしている。
「昨日、星野さんに…誘われたんです。先輩も来るからって」
堀田は裏切られたような気持ちがした。勘違いしていた自分が急に情けなくなって、このまま引き返したかった。
本気で帰ろうとした時、中からドアが開いて、穏やかな感じの婦人が顔をのぞかせた。
「ひとみのお友達ね!来て下さって本当に有難う。さあ中にどうぞ!」
心から喜んでいるらしいその雰囲気に、2人は何も言えず、そのまま中に引き込まれた。
「あの子、まだなんですよ。もう来ると思いますから、私の下手な版画でも見ていて下さいね。」
と言って、彼女はお茶の用意の為に奥に消えた。小柄でちょっと肉付きのいい体型は、ひとみからは想像できない。
温かな人柄を思わせる眼差しや、コロコロと転がるような明るい声が、ひとみとは別な意味で人を惹きつけた。
部屋に飾られている作品にも、そんな人柄が滲み出ている。版画はほとんどが風景画で、京都と思われるような古い街並みが並んでいた。
それぞれの版画の下には、遠慮するように小さな字で金額が書き添えられてある。堀田はユキのことは無視して、1点ずつゆっくりと眺め始めた。
ユキは来客用のソファに座ったままだ。(つまんない絵だな〜白黒だし…景色なら写真の方がいいんじゃないの。どうせ堀田先輩も、こんな絵に興味ないくせに…)
やっとのことでアクビをこらえていると、星野の母親が奥から戻って来た。
大きめな木のお盆にあんみつが乗っている。
「コレ、ここの並びの鹿野屋さんのあんみつ。老舗だから美味しいのよ」
あんみつと聞いた時の堀田の顔はまるで子供のように輝いた。
「頂きます。僕あんみつ大好物なんです」そう言って座ると、本当に嬉しそうに、あんみつをぱくつき始めた。
あんまり美味しそうに食べるので
「私のもあげる」と、ユキは自分のあんみつを堀田の前に差し出した。
堀田はちょっと困った顔になったが、
「いいのよ、私お腹いっぱいだから」と言うと、
「ありがとう!」素直にそう言って、2つ目のあんみつを食べ始めた。
ユキはビックリしていた。さっきまであんなにコムヅカシイ顔でスマシテタノニ…あんみつ1つで嬉しそうになった男という生き物が、全然分からなかった。
だが、堀田が甘い物好きだという事実だけは確かに、しっかりと、頭に刻み込んだ。
堀田があんみつを食べるのを星野の母親が楽しむように見ている。
「あの子、遅いわねぇ〜」そう言った時、ガラスのドアが開いて、ひとみが現れた。
ひとみはユキがいるのでちょっと首を傾げたが、そのまま入ってきて昨日買ったケーキの箱を母親に渡した。
「コレ、この間話したミカさんのお兄さんとこのケーキ。美味しいのよ〜」
そう言いながら、ユキの隣りに座った。
「安堂さんも来てくれたんだ。有難う…貴女がこんな地味な絵に興味があるとは思わなかったな!」ひとみの言葉が、チクンとした。
こういう手応えがある時の星野には、ユキは異性と同じような魅力を感じる。優しい時の彼女は大嫌いだ。
穏やかな自信にあふれた目が母親を連想させる。母勝江を思うと、全ての女という存在へテキガイシンが沸き上がってくる。
「へ〜そうなんだ!私ってこうゆう絵には興味がないように見えるんだ〜堀田先輩はどう?こうゆう絵に興味ありそう?」
「堀田先輩は、結構趣味が渋いから……」クスッと笑いながら、ひとみが堀田の顔を見た。
堀田は瞬間、図書室の出来事を思い出して星野ひとみの目を見返した。
ひとみの言葉に、堀田は少し救われた気がして、目だけ星野に笑い返した。
2人のそんな様子が、ユキはたまらなく気に入らない。
星野の髪の毛を掴んで、引きずりまわしたい衝動に駆られていた。頭の中ではそうしている。
星野の母親がユキを見ているのに気付いてユキはビクッとした。
自分の中の今の映像を見られたような気がして恥ずかしかった。
「そうだ、私ちょうど友人にハガキ出そうと思ってるんで、あのハガキサイズの版画、売って下さい」
そう言って立ち上がると、ユキは入り口近くの机の上に並べられた小さな版画の中から数枚を手に取った。
「気に入ったのありますか?気使いは、要りませんからね」
星野の母親は、本当に欲しがっているとは思えないのか、慌てて声をかけた。
「大丈夫です。こうみえても、私、古い街並みって結構好きなんです」それは本当だった。
絵には興味がないけれど、冷たいコンクリートの建物よりは、古い木造家屋のほうが好きだ。ユキの実家も漁師町で、古い木の家が並んでいる。堀田の家も古い街屋だ……堀田の部屋で2人きりでいたその時の光景が浮かんで、消えた。
「本当!日本の古い街屋って、いいですよね〜」言いながら、堀田の方をチラッと見た。
堀田は又困ったような苦しそうな顔をして、ユキから目を逸らした。
そんな堀田に気付くはずもなく、
「せっかくだから、今夜は私の行き着けのお店で、夕飯ご一緒しません?日頃この人が仲良くしていただいてるお礼。ご馳走させて!」星野の母親が弾んだ声で言った。
堀田は行きたかったが、ユキが帰りまで一緒なのは避けたかった。星野ひとみは、当然みんな行くと思っているのか、母親と談笑している。
さっきからの様子で、堀田と星野の距離が急に縮んでいるのが分かったユキは、これ以上母親同席で2人のそばにいるのは、避けるべきだと本能的に感じていた。
だから、先に帰ることを3人に告げると、版画の代金を払ってサッサと画廊から引き上げた。ユキがあまりアッサリと引き上げたので、堀田は拍子抜けしたような、変な気持ちになった。
(アイツ、思ったよりイイヤツかもな……)
ふとそんな気がした。ともあれ、堀田はやっと星野ひとみと2人になれたのを素直に喜んだ。母親がいてもいい……それでも彼女のそばにいられるのが心から嬉しかった。
月島の灯りはボンヤリとしている。
下町の名残りが路地の植木鉢に霞んで見える。星野の母親、広子はこの街の出で、幼な友達がもんじゃ焼き屋をやっていると言う。
広子はすっかり女学生の顔つきに返って、月島の路地を案内した。
「ここもお台場が出来てからすっかり変わっちゃって……昔からやっているお店なんか、ほとんどないの」
そう言って辺りを見回す……。
「デモダイジョウブ!ここだけは、間違いなく昔からやっているわ」と笑いながら格子戸をを開けた。
中は5坪ほどの小さな店で、中から中年の夫婦が「いらっしゃい!」揃って声をかけた。
「かってに二階、使わせてもらうわよ〜」言うのと同時に、靴を脱いで階段を上って行く。
「あなた達も早く上がってらっしゃ〜い!」
広子が上から呼んだ。堀田は星野と顔を見合わせ笑った。
「君のお母さんて、楽しい人だね」
「そうなのよ、時々どっちが親なのかワカラナクナッテ困るけどね!」自慢するようなひとみの顔だ。
堀田は自分が両親とはほとんど接触がないので、わだかまりの無い親子関係がちょっと羨ましくなった。
もんじゃ焼きの具が運ばれてくると、3人共急にお腹が空いて、しばらくはお喋りもせず、急いで焼いては食べ続けた。
「広さん。ビールは?」同級生のオヤジが階段を上ってきて声を掛けた。みんなあまり飲めないので、ビールの大ビン一本とグラスを3つたのんだ。
それでも泡の溢れそうなビールのグラスを口にすると、初夏のほんのり汗ばんだ体に、沁みるように美味しい。
「量はいかないけど、お酒は好きなの。堀田先輩は?」
ビールを飲み終えて、母親が勘定を払いに下にいった間に、星野が尋ねた。
「僕も、お酒は好きだな。沢山飲むと寝ちゃうんだけどね。男のくせにダラシナイって父は言うけどね」
ちょっと寂しそうに堀田が言った。
「そう言えば安堂さん!お酒強かったんですって?小向さんから聞いたわ。あの人にはいつも驚かされる…今日もあなたと一緒なんでビックリしちゃった」
「僕の方がよほどビックリだよ。画廊の前にいきなり現れたんだから!」
「そうなんだ。堀田先輩、彼女と家の方向一緒だから一緒に帰ったりするのかと思ったわ」
星野の言葉をはっきりと否定したい堀田だった。だが否定出来ない部分もある。困ったように事実だけを言った。
「時々、偶然一緒になる時があるだけだよ」
「そう……」
言いかけた時に広子が戻って来た。
「今日いらしてたもう一人の方、なんてお名前だったかしら?」
まるで話しを聞いていたようなタイミングに2人は驚いた。
「安堂さん…よね。あの方、なんていうか…井戸みたいなもの持ってるから、2人共接し方に気を付けてね」
そう言った星野広子の顔が、怖いほど真面目なので、2人共素直に頷いた。
「お母さんの言う事、時々妙に当たるのよね。気を付けるわ」
堀田の顔が、又困った顔に変わった。
「井戸?って、何なんでしょう?」男の堀田には、見当もつかない。
星野には分かるのだろうか?堀田はひとみの顔を見た。母親の広子がゆっくりと、穏やかな口調で説明し始めた。
「う〜ん、小さい時あんまりショックな事があると、人って井戸を造って自分でその中に入っちゃうのよね。何にもない井戸の底から、膝を抱えていつも上にある小さな円い青空を見てるの。
ごくたまに、自分の気にいった人間や毒の無い者が見えると、少しだけ井戸から出ていってその人達としばらくは同じように過ごすけど、最後は自分の井戸の中に引っ張りこもうとするわ。
なぜって、彼女は井戸の中でしか暮らせないから……社会とは断絶しているの」
「怖いですね……」
「そう、怖いのよ」星野の母親は、ためらいなく言い切る。
「でも、どうしてちょっと話ただけの人のことが、そんなふうに分かるんです?」
堀田のその疑問には、ひとみが答えた。
「母って、子供の頃から見えるらしいの、時々だけど。他人の心の中とか…結構当たるから、最近は私もあまりバカにしなくなったわ。昔なら陰陽師やってたかもね。……何かパァッとフラッシュたくみたいに、写真を見るように見えるらしいの。そうよね…」と、ひとみは広子を見た。
広子はゆっくりと、頷いて穏やかに言った。
「そう、見ようと思っても見れないの。突然…いつも突然パァッと見えるの。自分が大事に思っている人が、関わっている時だけど…多分今日はひとみのことを思ったせいね」そう言った星野広子の顔は、ただの娘を思う母親の顔になっている。
「こういうのを、親の取越苦労て言うのかもね」と、微笑んだ。
堀田もその顔を見て、ゾクッとした緊張感からやっと抜け出した。
「そう言えばうちの母なんかも、女の第6感…なんてよく言ってますよ。心配性なのかな〜?」
「そうかもね…」そう言いながら、星野の母親は夏のスーツの上着に袖を通した。
「さあ、巷に酔っぱらいという魔物が増えないうちに、引き上げましょうか」
3人は、階下に下り「ご馳走さま〜、美味しかったで〜す」と、人の良さそうな夫婦に挨拶して外に出た。
「ありがとうございます。またお待ちしてます」2人揃った人の良さそうな声が返ってきた。
今夜はひとみと2人きりなる事はなかったが、それでも堀田は星野ひとみにだいぶ近づいたような気がしている。
駅に着いて、違うホームに向かって別れていく星野親子に向かって、堀田は思いっきり大きく手を振った。