第四章の五
栄光大学の建物は、コストだけを考えたコンクリートの味気ない建物で、趣などはどこを探しても見当たらない。それでも図書室だけは中に入ると、なにか知的で哲学的な空気を感じさせる。それは、本の背表紙が醸し出す不思議なマジックだ。
星野は昔から図書館が好きで、よく学校をサボっては図書館で勉強したものだ。
今日もレポートの資料探しで、受講後の時間を図書室で過ごしている。なぜかここの窓だけは、他の教室のような味気ないサッシではなく、木枠だ。窓の外のプラタナスの樹に目をやると、その木枠で区切られた色ガラスの向こう側に、堀田眞樹の顔が見えた。
(堀田先輩だ)と、思っただけで星野は読んでいた本に又目を戻した。スイス在住のドイツ人が書いた、教育学に関する著名な翻訳本だ。戦後、世界の子供達の教育に大きな影響を与え、その基礎となっている本だ。
教師になる気はなかったが、教員資格だけは取っておこうと思っている。だからそれに必要な講義にはかかさず出てきた。2流大学だが、星野がこの大学を選んだのは、英国の大学へ留学する道が開かれている、それだけの理由だった。できれば日本以外の国でも、食べていけるだけの資格が欲しい…教員資格もその一環に思っている。
読み進めていくと、けっこう面白い内容なので、星野は気をとられて読むことに集中していた。
チャイムの音で時計を見ると6時20分。
あと数分で図書室の閉まる時間だ、(わ〜い、2時間も読んでたんだ。たいへ〜ん!借り出し手続きシナクッチャ!)
バタバタとノートや筆記具をバックにしまった。気がつくと大きな木の机のはじに、もう一人誰か座って熱心に本を見ている。
堀田だった、「先輩!閉まりますよ。その本、借りなくていいんですか?」
肩を叩きながら後ろから覗くと、それは大きな分厚い魚の図鑑だった。
「あっ!貸し出し禁止の貴重本ですね」そう言われて、堀田がやっと星野の方を見た。
「星野さん!ビックリだなぁ!」堀田は本当に内心ギクッとした…安堂かと思ったのだ。
「君で良かったよ」そう言った堀田の顔が、あまりホッとした表情なので、星野は何と言っていいの分からなくなってしまった。
「この間は、バーベキュー出れなくてごめんなさいね」
「そんなのいいから…それより君、借り出し手続きするんだろ?」
そう言われて、時間間際なのを思い出した星野が、慌てふためいて受付の方に駆けていくのを、微笑みながら堀田は見送った。何故か気持ちが久々に和んでいた。
堀田がゆっくりとした足取りで図書室を出ると、プラタナスの樹影で星野が待っていた。
夕暮れの光に、淡いグリーンの薄いスカートが風に揺れて、プラタナスの妖精が居るように思えた。シンプルなワンピースがよく似合っている。
「わりとオッチョコチョイなんだね、君」堀田はその情景を楽しみたかったので、出来るだけゆっくりと星野に近づいて、歩みを止めた。
「先輩こそ意外!あんなに熱心だなんて。お魚、よっぽど好きなんですね」
堀田は魚のことには何も答えず、歩き出した星野に歩調を合わせてその横を歩いた。
「この間、安堂さんから聞いたよ。お母さん、絵をやってるの?」
初夏で日が永くなったとはいえ、校庭に学生の姿は少ない。
星野が帰りを急ぐ気配がないので堀田は話を続けた。
「もしかして画家?」
星野がクスッと笑う。「普通の主婦。趣味で版画やってて…たまたま知り合いの画廊が安く貸してくれたから」
堀田はそれを聞いてちょっと安心した。もし画家の娘だとしたら、世界が違う遠い人のような気がしたからだ。
「良かったよ。普通で」堀田は素直にそのことを口にした。星野の前だと、自分でも驚くほど自然にしゃべれた。
「先輩、もし銀座に行くことがあったら寄って下さい。『銀千画廊』て聞けばすぐ分かります。今月一杯、私も週末はそこにいますから」
堀田は、星野にさそわれた気がして嬉しかった。きっと週末は銀座に行くだろう。版画を観る為ではなく、星野に会う為に……。
校門に着くと、さすがに初夏の永い日も、闇の中に溶け込もうとしていた。
門の前には見覚えのある車が止まっている。河合の車だ。中ではミカがタバコを吸いながらこちらを見ていた。
「じゃあ、私、ミカさんと約束があるんで」と言って、星野は河合の車に向かって再び駆けて行く。
その後姿に視線を投げながら、堀田も又再び微笑みを送った。
河合の車の中で、星野はしばらくの間、独りで笑っていた。いつも冷静さを売りにしている自分なのに、普段は見せない慌てぶりを堀田に見せてしまった事で、彼に親近感を覚えていた。
「いい感じだったよ…2人」河合がタバコの煙を吐きながら、ボソッと呟くように言った。
しばらくの間、車内は空気が止まったように静かになった。が、すぐに星野の声がその空気をハジいた。
「薄いのよね…彼」星野の声も呟くように低い。
まるでシャボン玉が壊れるように何かが消えた。
河合はワカラナイといった顔をしたが、星野の方は見ずにタバコの火をもみ消した。
「何て言ったらいいんだろうな〜生命力?…意志ミタイナモノ…感じないのよね。危うくて……私はダメだな」
ちょうど信号機が赤に変わって、横断歩道の手前で河合は車を止めたが、星野の方は見ずに沈黙を守った。
助手席の星野からは、河合の表情がよく分かる。河合はごく普通の、安全運転だけを心掛けるドライバーの顔をしていた。星野はこんな時の河合が(大好き)だ。
信号が青に変わる、車は御茶ノ水方向に走り出した。
2人はこれからスキー道具を揃える為、都内最大のスポーツ用品店に向かっていた。店では安堂ユキが2人を待っている筈だ。
スポーツ用品店『清水』に着くと、2人は安堂ユキを探して中に入った。一階のウェア売り場にはいないので二階に上がった。
二階には、スキー板や靴が陳列されている。見るとユキが男の店員と笑いながら話ていた。そばに寄ると嬉しそうにユキが2人に聞いた。
「今彼に教えてもらったんだけど、板は長い方がスピード出るんですって!アナタ達どうする?」
若い男がそばにいると、ユキはいつも機嫌がいい。
「私は楽しむだけだから、危なくないほうがいいわ…ちょっと短めにしておこうかな。選んでもらえます?」と、河合はユキには答えず、直接店員に話し掛けた。
「あっ、イイデスヨ。こちらへ来て下さい」と、店員はカウンターから出て、すぐに3人をスキー板のコーナーへ案内した。
ユキはちょっと(つまらない)という顔になったが、仕方なくみんなの後について移動した。ユキは(この2人よりは、絶対カッコ良く滑ってやる!)その勢いで長めの板を選んだ。
星野は一応、道具は揃っているので、今日は新しいウェアだけ買うつもりで来ていた。
板と靴を揃えると一階に降りて、3人してワイワイ言いながら、新しいデザインのウェアが並ぶ中、服をかき分けては探し、お互いに品定めし合う…そんな女の特権ともいえる楽しい時間を過ごした。
河合は鮮やかなブルーのオールインワンを選び、ユキは星野の目を意識しながら、赤と黒ツートンのツーピースにした。星野はといえば、最後まで迷っていたが、やっと決めたのはスイス製で、銀色に白い細いラインが美しく施された、ヨーロッパの少年用のウェアだった。
ユキにはまったく理解できない、星野の感覚だ。(なんでそんな色選ぶの?それに男ものだなんて…コノヒト綺麗に見せたくないのかな〜)
ユキはひとまず、自分は気に入ったものが気分よく(若い男の店員にチヤホヤサレて)手に入ったので、かなりご機嫌になっている。
帰りがけに3人で夕飯を食べて行くことになり、駅前に出た。
ユキは回転寿司が良かったが、河合の知り合いの店があるということで、パスタを食べる事にした。
大通りから一本中に入ったその店は、思いのほか静かで、ガラス張りの店の前に大きなケヤキが植えられている。
色とりどりのケーキが、入口のショーケースの中で可愛さを競っていた。ユキは寿司のマグロのことはすっかり忘れて、ケーキに見とれていた。選ぶのに夢中で、なかなか席につけない。そんなユキには構わず、星野と河合は2人で先に席に座った。河合の顔見知りらしいウエイターが、ニコニコしながら近づいてくる。
歌手にでもしたいような、イケメンの男の子だ。
「残念ですね〜せっかく美人のお友達連れて来てくれたのに、今日は店長出掛けちゃって」
そう言いながら、丁寧に水の入ったグラスを並べた。
「いいの、いいの。かえっていないほうが気楽」と、河合はアッケラカンとした様子で、本当に気楽そうにしている。
「勘違いしないでね。ここ、兄の店なの。父の仕事手伝ってて、今月この店オープンしたばかり」と、河合が照れながら教えてくれた。
2人がパスタの注文を終えたころ、ようやくユキが席についた。
「みんな同じものたのんじゃったわよ。パスタでいいでしょ?」
星野が子供を見るような、困ったような目でユキを見ている。ユキはちょっと母親といるような気分になった。(この女キライ)いつものように又思う。(せっかく楽しい気分でいたのに、いつもぶち壊すんだから!)内心ブツブツだが、顔ではニコニコしていた。そうするのが大人だと思い込んでいる。
(人の気持ちもワカラナイんだから、アナタの方が本当はよっぽど子供なのよ)
そう思うと何だか、2人よりも高みに立ったような気がして、ちょっと気持ちが落ち着いた。イケメンのウエイターがユキの脇に寄ってきた。
「ケーキ、何になさいますか?」今時珍しい丁寧な言葉使いだ。
ユキは自分の顔が赤くなるのが分かった。年下の男の子に見られると恥ずかしくなる。
小さな声で答えた「チェリーパイをお願いします」
「かしこまりました」ウエイターが行ってしまうと、河合がからかってユキの顔をじっと見た。
「安堂さんて、年下に弱いんだ?意外だな〜それってセックスの対象にもなるってこと?」
星野はさっきの困った顔のまま、ユキを見ている。
わざと驚かすつもりで、ユキはすました顔を河合にむけた。
「もちろんよ。ナニだけ…って感じで、だから恥ズカシクナッチャウのよね。私けっこうナニ好キカモ」
そうはっきりと言い切ったユキに、河合と星野は顔を見合わせた。
ユキは得意そうに、運ばれてきたケーキを口に運ぶ。口の中いっぱいに甘い幸せが広がった。こんな時、ユキはいつも思う。(人生なんてそんなに小難しくしなくていいのよ。美味しいもの食べて、気持ちいい事して、ヤナことは人に任せて、自分はシタイコトしてればいいいのよ。なんで他人の事考えなきゃいけないのよ!)
それは、ユキの母親、勝枝の論理でもあった。ケーキの美味しさに漂っているユキを、河合の声が現実に引き戻した。
「でもアナタは、今言ったみたいなこと、男の人の前では絶対に言わないのよね」
…急所だった。ユキの顔が少し歪んだ(この女怖い…)と、ユキは河合ミカを睨んだ。
(そうよ、この間も江ノ島でお酒のイッキ飲みなんかするつもりじゃなかったわ。ほんとはお酒に弱い、可愛い女のふりして、堀田さんにかまってもらいたかったのよ……。あんな事になっちゃったけど!)それさえ河合ミカに見透かされているような気がして怖かった。
(バカにしてかかったらダメ!コイツヤバいかも…)河合に関わるのはもう止そう、そう決めた。
ユキは自分に危険な存在を感知するのが恐ろしく速い。それは人間というより、獣がもつ本能だった。
だが、ユキはそうした危険なヤツらのほうが、かえって好きだった。彼女は…好きな相手とは決して付き合わない…という不思議な法則を持っている。
星野がウエイターを呼んだ。
「明日までもつケーキありますか?母に差し入れしたいんだけど」
星野はその場の空気を変えたかった。
昔から、人間が競い合う中に生まれる緊張が、大嫌いだった。
「コレ、どうですか?」彼が持って来たのは、ドライフルーツの沢山入ったドライケーキだった。
「結構種類があるのね〜」星野が感心すると、ウエイターは得意げに河合の方を見ながら言った。
「ハイ!!歴史だけは古いですから!大正時代からあるんですよね?」
「そうだっけ?」と、河合が惚けた。
「そういえば、皆さん今日は、どちらかに行かれたんですか?」
「スキー用品買いにきたのよ」河合が答えた。
「これから夏なのに!今頃スキー用品ですか?」イケメンの目がちょっと大きくなった。
「そう。今が一番安くていいのよ」と、今度は星野が答えた。まだ少年ともいえる顔のオーラのせいか、空気はもうだいぶ和らいできた。
「差し入れって、お母さんに?」ユキが不思議そうに尋ねた。
「明日は週末だから、母の所へ行こうと思ってるの……そうそう、さっき、堀田先輩も誘ったのよ」
星野は当たり前の事のように、ユキにとっては一大事に当たる話題を口にした。
星野のこうした無防備な話し方は、会話している時は安らぎを感じて河合は好きなのだが、(それがきっと星野に災いする)と、時折心配になる。
(貴女に危ういって言われるなんて、堀田先輩は本当に危険なんだね…)河合は車の中での星野の話を思い出していた。
2人の世界とはまったく違う所で、ユキだけは独り、明日の事に思いをめぐらせている。その目の奥の底知れぬ部分で、得体の知れない魔物が蠢き出したことには、星野や河合ミカ、いや、当人のユキさえもまだ気付かずにいた。