010 四歳 ファーストアタック
春が来る頃には、アイザックは悩まなくなっていた。
理由は至って簡単。
――自分がここにいる以上は、周囲に与える影響は変えられない。
という、明瞭簡潔な答えを出したからだった。
本来存在しないアイザックがいる以上、この世界にも何らかの影響が出るはずだ。
元のイベント通りに進ませるために死んだりする気はないので、いつまでも解決方法のない問題を考える事は諦める事にした。
それは時間の無駄でしかない。
アイザックには、知識という大きな武器がある。
学生として学んだ事だけではなく、王子達の性格も把握している。
ティファニーに関してはわからないが、まだ会った事もない王子達にまで影響を与えてはいないはず。
ならば、いつまでも悩んでいても仕方がない。
ネイサンの排除と下剋上だけを大きな目標とし、あとは流れに任せた行動を取ろうと考えていた。
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四月の半ばも過ぎ。
王都に行っていた者達が間もなく帰ってくるという知らせを受けた。
そのため、屋敷の前で使用人も総出で出迎える。
「やっとお父様と会えますね」
「そうね」
ルシアは溜息を吐いた。
留守中はモーガンの部下である官僚が全ての職務を行なっていた。
しかし、ルシアがこちらに残っている以上、侯爵家の者として有事の際には決断を下す事を求められる。
何も起こらなかったので良かったが、留守番は留守番で気が重い。
その重荷を降ろせる事にホッとしているようだ。
騎兵に先導され、馬車が屋敷の前に止まる。
まずはモーガンとマーガレットが降りてきた。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさい」
ルシアとアイザックの言葉に合わせ、使用人達が唱和し、頭を下げる。
「ただいま。留守番ご苦労だったな」
モーガンが労をねぎらう。
「ただいま。アイザックが持っているのは何かしら?」
マーガレットはアイザックの持っている物に目を付けた。
「これは僕の育てた花です。お帰りなさい、お婆様」
アイザックは手に持った花束を差し出す。
春に咲く花を十本ほど束ねた物だ。
裏工作に使うために育てた花だが、アイザックだって人の子である。
最初は家族に渡したいという気持ちがあった。
ルシアには渡してあるので、あとは王都に行っていた家族に渡すだけだった。
「あら、ありがとう。けれども、良いの? 大切に育てた花なのに?」
「はい。日頃の感謝を込めて贈り物にするつもりでしたので」
アイザックはメイドから追加の花束を受け取り、モーガンにも渡す。
「ありがとう。執務室に飾らせてもらおう」
思いもしなかったプレゼントだっただけに、二人は笑顔になった。
孫が自分達のために用意してくれたというだけで、長旅の疲れを飛ばしてくれるような気がした。
そして、後続の馬車から、ランドルフ達が降りてくる。
「父上、それは何ですか?」
モーガンとマーガレットが手に持つ花束を見て、ランドルフが問いかける。
「アイザックがくれたのだ」
その言葉を聞き、ランドルフはアイザックの方を見る。
メイドから花束を受け取り、ランドルフの前まで歩いてきた。
「お父様、お帰りなさい」
ニッコリと笑い、アイザックは花束を差し出した。
これにはランドルフもつられて笑顔になり、花束を受け取った。
「これは……、花壇で育てていた花か?」
「はい。皆が帰ってきたお祝いです」
ランドルフはアイザックの頭を撫でてやる。
「そうか、ありがとうな」
「はい!」
アイザックは上機嫌だった。
身内には、このプレゼントが有効だとわかったからだ。
だが、それだけではない。
この和やかな雰囲気が欲しかった。
(さぁ、仕上げだ)
アイザックはまた花束を受け取り、メリンダのもとへ向かう。
「メリンダ夫人、お帰りなさい」
アイザックはメリンダにも花束を差し出した。
心持ち、花束を握る手の力を弱めて。
「なによ、こんな素人の育てた花で喜ぶと思っているの?」
メリンダは差し出された花束を軽く払い除ける。
彼女は本当に軽く払っただけだ。
カーテンを少し開ける程度の力。
だが、アイザックの手から花束が抜け落ちてしまった。
「あっ」
その声はアイザックの口から出ていた。
だが、メリンダ自身も出していたかもしれない。
そう思うほど、彼女にとっても花束が落ちるのは想定外だった。
なぜか花束は、メリンダの隣に立っていたネイサンの前に上手い具合に落ちてしまう。
「アイザック、僕達は長旅で疲れているんだ。家にずっといたお前と違ってな。邪魔だからどけよ」
ネイサンは意地の悪い笑顔をしながら、屋敷へと向かう。
わざわざ花束を踏みながら。
メリンダとネイサンの二人の行動に、周囲の空気が凍り付く。
メリンダの付き人ですら、目を剥いて驚いている。
ここまで空気が読めない行動をするとは予想外だったのだろう。
和やかな雰囲気から、冷え切った雰囲気の温度差はかなりのものだ。
「ネイサン!」
モーガンが一喝する。
兄弟で仲が悪いのは仕方がない。
人としてどうしても受け入れられないものがあるのは当然だからだ。
だが、それでも今回の件は一線を越えている。
苦手な相手でも、差し出された物を足蹴にするなど許せない。
モーガンはランドルフを厳しい目で見る。
――父親であるお前がちゃんと躾けてやれ。
そう、目で叱りつけている。
ランドルフも今回の行動は捨て置けない。
ネイサンを叱ろうと近づく。
そこで、ランドルフを止める者がいた。
――アイザックだ。
「お父様、僕が悪いんです」
「アイザック!?」
自分が悪いというアイザックに、ランドルフは首をかしげる。
どう考えても、今のはネイサンが悪い。
わざわざ踏みつける必要などなかった。
子供の歩幅でも、花束の上を跨ぐことは容易。
それをしたという事は、悪意を持ってわざとやったという事。
アイザックに非などなかった。
アイザックはメリンダの方に向き直る。
そして、ランドルフにではなく、メリンダに言った。
「メリンダ夫人。僕がメリンダ夫人や兄上の好きな物を知らなかったため、不愉快な思いをさせてすみませんでした。今度、ゆっくりお話しする機会があれば嬉しいです」
メリンダやネイサンが悪いのではなく、自分が悪いとアイザックは言った。
粗相をしでかした方が、幼児に庇われたのだ。
四歳児にこんな事を言われては、メリンダやネイサンの面目は丸潰れだ。
――アイザックとネイサンの器の違いを使用人達に見せつける。
――そして、メリンダとネイサンを悪役にする。
アイザックは、この二つを同時に達成する事に成功した。
同じような事を繰り返す事により、将来への布石とする。
小さな事の積み重ねになるが、その小さな事が大きな事へのステップアップ第一弾。
なかなか馬鹿にはできない。
「そうだよ、お前が悪いんだよ」
モーガンに一喝されて、自分のやった事が怖くなったのだろう。
ネイサンは捨て台詞を残して、足早に別館へと歩いていく。
その背後を数人の使用人が付いていった。
「お爺様、今回の事は僕の無理解によって起こった事。気を使わせて申し訳ありませんでした」
アイザックはモーガンに謝る。
周囲は「ネイサンを怒らないでやってくれ」と言っているように聞こえただろう。
実際はその逆。
(失敗を学んで、成長する機会など与えるかよ)
わざわざ家督争いの相手を手強くする必要などない。
馬鹿は馬鹿のままでいてくれた方が良い。
説教をして、人間として成長されてはアイザックの方が困るのだ。
「……本当にそれでいいのだな?」
「はい。叱りつけずとも、兄上ならばきっと自分で気付いていただけると信じています」
――弟が兄を信じる。
その思いは尊いものだ。
傍目から見る限りでは。
「ならばワシからは何も言わん。ランドルフ、父親はお前だ。子供を可愛がるばかりではいかんぞ」
「はい、父上」
モーガンはマーガレットと共に屋敷へと入った。
その後をメリンダも付いていった。
さすがにネイサンを不問にしても、大人であるメリンダには一言、二言あるのだろう。
それを察したメリンダが大人しく付いていった形になる。
「アイザック、ネイサンには父さんから注意しておくからな」
「あんまり厳しく言わないでね」
兄を心配するアイザックを、ランドルフはしっかりと抱き締める。
賢く、優しい自慢の我が子がとても愛おしい。
「ああ、わかったよ。また後でな」
アイザックから離れると、ランドルフはネイサンの後を追いかけていった。
父親としての役目を果たさなくてはならないからだ。
アイザックは父の後ろ姿を見ながら、踏まれた花束を見た。
花束を持ち上げ、中身を確認する。
(踏まれたっていっても、茎の部分だし大丈夫だろう)
「ねぇ、シェリー。この花をパトリックの部屋に飾っといてくれる?」
「はい、アイザック様」
アイザックは、近くにいたメイドに花束を預ける。
ここであっさりと「捨てておいて」と言ってしまっては、この花に価値がないと認める事になってしまう。
大事に育てた花だから、簡単には捨てないというアピールが必要だった。
シェリーに花を渡したら、アイザックはルシアのスカートを掴んで顔をスカートに埋める。
喜ぶ顔を隠すためだ。
(やった、やった。花束作戦大成功だ。)
使用人達が集まるこの場で、メリンダとネイサンにあのような態度を取らせるのが目的だった。
使用人達は基本的にウェルロッド家傘下の男爵家や子爵家の三男、三女以下の者達。
アイザックとネイサンの事を聞く場合、実家の者は彼らに聞く事になるだろう。
その時、アイザックに同情的になってくれていれば、アイザックの事を良く言ってくれるはずだ。
もちろん、彼らも貴族。
感情で動かず、有利なメリンダ側に付いたままかもしれない。
だが、その中の一部でも「アイザックに味方をしたい」「ネイサンはダメだ」と思ってくれれば、それでいい。
ネイサンを蹴落とす時まで自分の評価を上げ、ネイサンの評価を下げ続ける。
そうして、少しずつでも味方を増やしていくつもりだった。
今回はネイサンが軽はずみな行動を使用人が集まった場でやってくれた。
そのお陰で、大幅に同情ポイントを稼げただろう。
アイザックは笑い出しそうになるのを堪えるのに必死だった。
その笑いを耐えようと小刻みに震える姿が、さらに周囲の同情を買った。
――メリンダやネイサンの帰りを祝おうとしたのに、無下に扱われた。
――だが、涙を誰にも見せようとせずに堪えている。
ルシアや使用人達はそう受け取った。
泣き喚いてしまえば、メリンダやネイサンが悪者になってしまう。
「そう思って耐えている優しい子だ」と受け取られていた。
それがアイザックの思惑通りだとは知らないままに。