第5部
ー繋がる手と手ー
「玲ちゃん、昨日はありがとう。」
「山下さんが帰れるのなら、待ってもらった方がよかったですね。」
「いやいや、自分は平気で遅れるのに、こっちがちょっとでも遅れたら怒り出す人もいるから。reyくんがいい人でよかったよ。」
「取材、どうでした?」
「すこぶる順調。歌も顔も性格もいいんだから、すぐにトップスターだな。玲ちゃん、知り合いだったよな。」
「前に少し会った事があるだけなんです。」
「なんか玲ちゃんのこと気にしてたみたいだったよ。」
「会ったのは一回だけなんですけど。」
「でも、明日、ライブの取材もするんだけど、玲ちゃんを連れて来てくれって頼まれちゃったよ。」
「明日ですか?」
「行けそう?」」
「仕事たまってるんですよね。」
「締め伸ばすように副編に言っとくから。行く前に誘いに来るから、よろしくね。」
先輩にあそこまで頼まれたら、断れない。
だけど、誘われなくてもライブには行くつもりだった。
怜がどんな曲を歌っているのか、生の声で聴きたかった。
クリスマスイブの夜に公園で聴いた時のように。
だから、目の前にあるCDは聴いていない。
何回も手に取ってはみたけど、我慢した。
胸はまだ少し痛むけど、久しぶりに心が軽くなったような気がした。
ライブ会場には、行列ができていた。
怜の人気に改めて驚いた。
誰もいない路上で歌っていた怜が、3年でこんなにお客さんを集められるミュージシャンになったんだ。
ひとりで来ていたら入場すらできなかったかもしれない。
取材する山下さんについて来てよかった。
お客さんより一足先に会場に入る。
一緒に挨拶に行こうと山下さんが誘ったけど、今日は来ていないことにして欲しいと、頼んだ。
「連れて来るって約束したんだけどな。まあ、玲ちゃんがそう言うなら黙ってるよ。」
お客さんがなだれるように入って来る。
目立たないように、一番後ろで始まるのを待った。
照明が点く。
MCもなく、最初の曲が始まる。
ポップな、青い空が似合いそうな曲だった。
伸びやかな声。
怜だ。怜の声だ。
偽物の乳房の痛みではなく、本当の胸が痛んだ。
次の曲は、バラードだった。聴いている人ひとりひとりに語りかけるように、優しく言葉を綴っていく。
すごい。
3年間、かなりの努力をしてきたようだ。
声の質も音域もボイストレーニングを重ねた成果だろう。
ギターのテクニックも比較にならない程上達している。
人気が出るのも納得する。
怜の歌が、心に染み込んでくる。
上手いからだけではない、怜は歌と一緒に色々な感情を運んでくる。
楽しさや切なさ、優しさや苦しさ、喜びや悲しみ。
聴く人を怜の世界に招いてくれている。
15曲を歌い上げ、ライブが終わった。
でも、お客さんの拍手が鳴り止まない。
ステージが今度はスポットライトで照らされる。
中央にアップライトピアノが配置されている。
怜が出てきた。
ピアノの前に座る。
闇の中に、怜とピアノが浮かんでいるように見えた。
「ありがとうございます。最後は、オリジナルではないし、とっても古い曲だけど、今、このステージで、どうしても歌いたい曲です。聴いてください。」
怜の言葉で、何の曲がわかった。
just the way you are。
好きな人に歌ってあげたい歌。
イントロのピアノの音が聞こえた途端、涙がこぼれた。
私、どうしたらいいの?
自分の気持ちがわからない。
とこに進んでいいのかわからない。
『自分を変えたりしなくていいんだよ。
どんな悪い時だって離さないよ。
君を愛してる。
それは永遠に変わらないから。
そのままの君を愛してるんだ。』
私のクエスチョンに、怜は答えを出してくれていた。
会場が割れんばかりの拍手で包まれた。
怜の魅力が最大限に引き出されたステージだった。
最後のお客さんがいなくなるまで、その場を離れることができなかった。
怜に、会わずに帰ろう。
会えば、せっかく築いた心の壁が一気に崩れてしまうだろう。
怜の気持ちだけで、それだけでこれからの私の支えになる。
こんな私には、それだけでもありがたいことだと思った。
会場を出かけた時、携帯のバイブに気づいた。
着信を見る。山下さんだった。
「今どこ?」
「会場を出るとこです。」
「わかった。そっちに行くから待ってて。」
「はい。じゃ、待ってます。」
会場の入り口で待っていると、突然、怜が現れた。
背中を押され、誰もいない会場の中に戻された。
「来てくれてありがとう。」
「山下さんを待ってるから。」
「山下さんにお願いしたんだ。待ってるように伝えてって。」
「山下さんは?」
「帰った。」
「なんで?」
「今から打ち上げがあるから、一緒に来て欲しいんだ。」
「行けない。」
「話がある。」
「私にはないから。」
「だめだ。連れて行く。」
「帰る。」
立ち去ろとした時、怜が強引に振り向かせ、キスをしてきた。
抵抗したのは最初だけだった。
すぐに身体のチカラが抜け、怜に身体を預ける。
唇を離し、怜がきつく抱きしめる。
「聴いてくれた?」
頷く。
「愛の告白。」
もう一度、頷く。
「そのままの君を愛してるんだ。」
歌うように、ささやく。
「わかった。行くわ。私も話があるから。」
ライブ会場近くのイタリアンレストランで打ち上げが行なわれた。
20人くらい集まっている。
怜が取材してくれた音楽雑誌の人、と私を紹介する。
それぞれが盛り上がり、私を気にする人もいなかった。
明後日の京都でのライブが怜の今年最後の仕事で、1月半ばまでアルバムの曲作りを兼ねた休養に入る、ということがみんなの話でわかった。
両A面シングルをリリースして、その4カ月後にアルバムを発表する。
来年は、怜にとって、重要な年になる。
リリーストップテンを狙えるポジションまで登りつめるかもしれない。
たくさんの人に怜の歌を聴いてもらえるチャンスの年なのだ。
12時前に打ち上げは終わった。
何人かの人が、次、行こう、と怜を誘っていたけど、全て断っていた。
「遅くなってごめん。」
「気にしないで。」
怜の後をついて行く。
一昨日も来た、怜の泊まっているホテルまで歩いた。
「上にラウンジがある。そこでいい?」
「どこでもいい。」
ラウンジには、数組の人しかいなかった。
窓際の席に案内される。
窓の外には、都会の夜景が広がっていた。
マティーニを注文する。
何カ月ぶりだろうか、アルコールを口にするのは。
マティーニと怜のジントニックが運ばれてきた。
怜が、何も言わずに、グラスを合わせる。
マティーニを口にする。
たった一口なのに、喉が熱くなるのがわかった。
すぐにアルコールは身体を巡っていく。
これなら、言えるかもしれない。
お酒の力を借りて、話し出す。
「素敵なライブだった。」
「玲さんが来てくれているって、信じてた。」
「ピアノ、弾けたんだ。」
「3年間練習した。あの曲を歌うために。」
「歌、うれしかった。」
「聴いてもらえてよかった。」
「でも、だめなの。」
「なんで?」
「怜の気持ちには応えられない。」
「俺のこと、嫌い?」
「嫌いじゃない。」
「だったら、好きになってもらえるように努力するよ。」
「違うの。努力なんてしないで。」
「何が違うの?」
「怜のこと好きになっちゃいけないの。」
「なんで?」
「私、病気だったの。」
「そんなの理由にならない。」
「理由になる病気。」
「どんな病気?」
「がんだから。」
「玲さん。」
「乳がん。わかる?」
「わかる。」
「がんは手術で取ったんだけど。」
「じゃ、治ったって事だろ。」
「だけど、いつ再発するかわからないし、もう片方もなるかもしれない。」
「そんな先の事、考えることない。」
「先の話じゃないかもしれない。」
「じゃ、一緒に考えて行こう。」
「怜の大切な時に、私のことなんて考えないで欲しい。」
「俺の大切なのは、玲さんなんだ。」
「怜が苦しむ。」
「病気のことなんて、気にならない。」
「絶対、嫌になる。」
「何が?」
「私の身体。」
「だから、病気なんて気にしない。」
「違うの。左胸は、本物じゃないの。」
「どういう事?」
「手術で胸を取ったの。そして、作ってもらった偽物の胸。」
「玲さん。」
「胸にも背中にも、大きな傷痕が残ってる。こんな醜い身体、誰にも見せられない。」
怜の目から一粒の涙が流れた。
「玲さんの辛い時にそばにいてあげられなくてごめん。」
「何謝ってるのよ。」
「悔しいんだ。」
「怜が悔しがることなんてない。」
「玲さんが全部の痛みを1人で背負ってた事が、悔しいんだ。」
「怜。」
「女じゃないからわからないけど、胸がなくなるのは、すごく悲しいよね。」
今度は私の目から涙がこぼれた。
怜は、私の事をわかってくれている。
意地っ張りな私の本当の姿を。
窓の外に目を向ける。
涙で夜景がキラキラ輝いていた。
「うん、悲しい。」
怜が手を伸ばし、私の涙をぬぐう。
「もう、玲さんを泣かせない。」
「だめよ、忘れて。」
「胸が偽物でも、どれだけ傷があっても、玲さんは本物だから。」
「だめなの。」
「見せて。」
「何バカな事言うの?」
「3年前、次会ったら、キスの続きしようって、約束した。」
「約束なんてしていない。」
「俺の中では約束してたんだ。玲さんの全部を好きになりたい。偽物の胸も、傷痕も。」
怜が私の手を取り、握り締める。
「離さないから。この手、死ぬまで離さないから。」
怜の手から伝わる熱いものが、私の心の壁をいとも簡単に壊してしまった。