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彼方へ  作者: 原 恵
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第3部

ーアクシデント 2ー


25歳のクリスマスに失恋してから、もう2年半の月日が流れていった。

私の隣は、ずっと空いたままだ。


年とともに1年が短くなる、と年配の先輩達が言っていたけど、その通りだ。

この前まで、儚げに散る桜が美しい季節だったのに、もう私より背の高くなった向日葵が太陽に向かって笑っている。


仕事に追われるているうちに。なんて、言うのは言い訳だ。

まだ、自分を大切にできていないだけ。


別れた時には感じなかったけど、時間が経過するにつれて、恋をするのが怖くなってきた。

人を好きになる前に、あの別れの辛さを思い出し、前に進めないのだ。


寂しくはない。

仕事もやっと一人前にこなせるようになった今は、仕事が楽しくて仕方ない。


強がりではなく、仕事と、なんでも話し合える女友達がいれば、彼氏は必要なかった。



取材から会社に戻ると、デスクの上にB5サイズの封筒が置いてあった。

封を開けると、5月に受けた健康診断の結果だった。


今まで結果は全てAで、異常なしと記載されていた。

まだ27歳、病気になる年でもないし、身体の変化もない。

ただ、お酒を飲むことが増えたから、肝臓の数値だけ、気になった。


結果表を見る。

肝臓の数値は正常値。よかった、と安心して次のページをめくると、何かが書いてあった。

健康診断の項目にはなかったけど、オプションで追加した、乳がんと子宮がん検診の結果。


「左乳房に異常が見られます。再検査を受けてください。」


えっ?左乳房?

今まで気にもしていなかった。

その場で左胸を触ってみる。ブラジャーが邪魔でわからない。


締め切りの後なら、何とか時間が作れる。


痛みなどの症状もないし、大したことはないと思うけど、一応、再検査に行ってみるか。


軽い気持ちで、2週間後、家の近くの総合病院に行った。


持参した健康診断の結果表を医師に渡した。

「マンモとMRI、それと細胞の検査をしましょう。一週間後に検査の予約を取ります。結果はその一週間後になります。来れますか?」


事務的に会話を進める医師に、

「病気ですか?」と聞いた。

「結果表の写真では分かりにくいけど、腫瘍があります。良性か悪性かは検査してみないと分かりません。」

「がんですか?」

「結果がでないと、それは分かりません。」


目の前が真っ白になった。

こういう時、真っ黒になるんじゃなかったっけ。

意味もないことを考えた。


病院を出る。


まさかね。健康だけが取り柄の私が、がんになるはずない。

たぶん、良性だ。

取れば治るくらいの病気なんだ。

自分に言い聞かせる。

大丈夫だ。私は、がんじゃない。


このことは、まだ誰にも言わなかった。

病気かどうかもまだわかってないのだ。

親や友達や職場場の人達にいらない心配をかけるだけだ。


でも、病院に行った日から、お酒が飲めなくなった。

お風呂上がりの缶ビールも欲しいとは思わなかった。

友達に飲みに誘われても忙しいから、と断った。



2週間後、検査結果を聞きに、病院に行った。

「がんです。」

MRIの写真とパソコンの電子カルテを見ながら医師が、がんの告知をする。

パンを指さし、これはパンです、と説明しているような、抑揚のない声で。


「手術はいつがいいですか。仕事をしているならすぐにというのは難しいかもしれませんが、できるだけ早い時期にした方がいいですね。それと、ご両親は健在ですか?手術についての詳細は、ご両親と聞いた方が良いでしょう。」


矢継ぎ早の言葉が、頭の上を通り過ぎる。


目の前は、やっぱり黒ではなく、白かった。


なんで?まだ27歳だよ?結婚もしてないんだよ?子供だった産んでないんだよ?

なんで私を選ぶの?

なんで私の中に来ちゃったの?

なんで?なんで?なんで?



次の日、その次の日も会社を休んだ。

底を突き破りそうな勢いで落ち込んだ。

1人で思いっきり、声が枯れるまで泣き叫んだ。

そしてその次の日は、病院へ行く日だった。



母に病気のことを告げると、電話口で泣き出した。

電話を替わった父は、電話口で絶句した。

三日後、一緒に病院に来て欲しい、とだけ頼み、電話を切った。


親孝行はしてないけど、親不孝もしていない。

でも、今日、親不孝な子供になった。

親を泣かせる、親不孝な子供に。

病気になって、ごめんなさい。



三日後、母と病院に向かった。

父は行くのを最後まで嫌がったそうだ。


「ステージIIです。がんは手術で摘出できます。方法として、がんだけを摘出する部分切除と乳房を取ってしまう全切除があります。」

「がんだけを取ることもできるんですか?」

「できますが、腫瘍の範囲から見て、全切除が適切です。」

「部分切除は絶対無理なんですか?」

「今の状況で部分切除の場合、手術の後、抗がん剤や放射線治療の必要があります。」

「治療って、どれくらい続くんですか?」

「個人によって異なりますが、大体6ヶ月前後と考えてください。」

「仕事は続けられるんですか?」

「今の抗がん剤はかなり進歩しているので、これも個人差がありますが、辛くてどうしょうもない、と言うことは少なくなりました。しかし、コンスタントに仕事を続けるのは、体調の変化などを考慮すると困難と言わざるを得ません。それに、脱毛も覚悟してもらわなければいせません。」

「やっぱり、髪の毛が抜けるんですか?」

「頭髪だけではなく、眉毛やまつ毛まで抜けることがあります。」

「じゃ、仕事辞めないといけなくなりますね。」

「全切除の場合なら、抗がん剤治療の必要がない場合もあります。」

「でも、胸がなくなるんですよね。」

「そうです。でも今の再建術も進化しているので、乳房をある程度納得のいく形で作ることもできます。まずは、治療方針を決めることから、始めましょう。」


医師の話が終わり、母と病院内にあるコーヒーショップに入った。


「なんで玲なの?」

「お母さん。」

「私が代わりに病気になってあげるのに。」

「そんなこと言わないでよ。」

「その年で、その若さで、がんなんて。」

「取れば治るのよ。」

「でも、胸が。」

「胸を取っても、死ぬわけじゃないんだから。」

「どうするの?」

「全切除する。」

「玲。」

「6ヶ月も治療だけで過ごすなんて嫌。仕事辞めたくないの。」

「だけど。」

「大丈夫。今は胸だって作れるって言ってたでしょう。」

「結婚もしてないのに。」

「相手もいないんだから。胸があってもできるかどうかわかんないし。」

「玲。」

「こんなの、ちょっとしたアクシデントみたいなものだから。」

「セカンドオピニオンとかもあるでしょう?」

「ここでいい。冷静でロボットみたいな先生だけど、評判もいいし、私を納得させてくれた。」

「全部、取るのね。」

「決めたから。お父さんに伝えといて。」

「お父さんに言えるかしら。」

「私が言ってもいいし。」

「電話、してあげて。」

「わかった。お母さん、ごめんね。」



8月にがんを告知されてから、3ヶ月が経った。

手術は無事終わり、やっと仕事に復帰できる日を迎えた。


抗がん剤治療の必要性がなかった。だけど退院して2週間は傷の回復と体力作りのため自宅療養だった。


昨日、自分の部屋にやっと戻って来た。


窓を全開にして、よどんだ空気を入れ替える。

風が冷たい。

もう冬なんだ。

気づかない内に、誕生日も過ぎていた。

がんとわかった時は、蒸し暑さがピークを迎えた頃だった。

それからの季節を私は全く覚えていない。


自分では、全切除を決断してからはある程度、冷静な日々を送っていた。と、思っていたけど、それは違っていたようだ。


冷たい風を全身で感じながら、生きてることを実感した。

死ぬとは思っていなかったけど、この部屋に帰ってこれるかどうか、不安だった。

でも、帰って来れた。


身体のカタチは少し変わってしまったけど、帰って来た。


服の上から、左胸に触れる。

ふくらみがある。うそのふくらみだけど、ちゃんと、ある。

乳房の中にあるのは、自分の背中の組織。


乳房再建にも色々な方法があることを今回初めて知った。

自分の組織を使う方法、シリコンなどの人工的な物を入れる方法。


私が形成外科の医師と相談して決めたのが、背中の組織を血管などを繋いだまま乳房として再建する方法だった。

出産するためには一番適した方法だと言う。

結婚すらできるなんて思っていなかったけど、女であることを忘れないために、医師の意見に従った。


手術を担当したベテランの医師が、サンプルにしたいほどの出来だ、と言ってくれた。そして、胸が大きくなくてよかったね、と。

意味を聞くと、背中には脂肪が少ないから、胸が大きい人には適さないと言う。


「それって、よかったのか、悪かったのか、どっちなんですか?」

「よかったんだよ。だから、そんなきれいな胸が作れたんだから。」


でも、この方法を決めたことによって、胸の傷以外に、背中にも大きな傷が残ってしまった。


後悔はしていない。

だだ、この身体を人に見せることは、きっとない。



約1ヶ月振りに出社する。

社内に入ると、病気を知っている人達が身体を気遣ってくれる。


長期休暇の間に、私の担当部署が代わっていた。

洋楽から邦楽への異動。

英語ができる私が休暇に入った途端、仕事がマヒしたらしい。

英語で次々かかってくる電話で、ネイティヴの即加入を余儀なくされたのだ。



「入院してる時に言う話じゃないけど。」と、副編集長が前置きしながら、異動の話を始めた。

「邦楽に異動するのは、嫌か?」

「ジャンルになんかこだわってませんから、どこでも精一杯頑張ります。」

「今さ、うちの本見てわかるように、邦楽がすごく盛り上がってる。洋楽のページまで食ってるくらいだから。」

「そうみたいですね。誌面からでも、邦楽の方が勢いが感じられます。」

「邦楽が、ずっと人が欲しいって言ってたから、今がチャンスと思って異動してもらったんだ。」

「また一から覚える作業ですね。邦楽はど素人だし。」

「玲ならすぐに慣れるよ。なんてったって、洋楽で5年も鍛えられてきたんだから。」

「ありがとうございます。本当は、クビになるんじゃないかなって、ビクビクしてたんです。」

「こんなに頑張る、人一倍強い社員をクビにするわけないだろう。」



高校時代にアメリカで住んで以来、洋楽しか聴いてこなかった。

邦楽が嫌いなわけじゃない。

ただ、忙しくて聞く機会がなかったのだ。


日本語の歌をきちんと聴いたのはいつ以来だろう。


そうだ。3年前。クリスマス。

新宿の路上で聴いた、怜の歌だ。


21歳になった怜は、どんな大人になったのかな。まだ路上で歌っているのかな。

28歳になった私は、ずいぶん変わってしまった。



邦楽部門に、私の新しいデスクが用意されていた。

デスクの上には、山積みにされたCD。


「まだ体力仕事は厳禁。まずは 邦楽を聴きまくる。これが当面の仕事。」

副編集からのメモがCDの1番上に貼ってあった。


マイヘッドホンをバックから取り出した。


入院中もずっとお世話になった、私のお気に入り。

エリック クリプトンとビリー ジョエルを聴くたびに、怜を思い出した。そして、力をもらった。


デッキにCDをセットして、曲を聴き始める。




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