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彼方へ  作者: 原 恵
23/28

彼方へ23

ー束の間の幸せー


入院して3日後から、玲の抗ガン剤治療が始まった。


玲の体調は日によって変化した。

病院内を歩ける日もあれば、ベッドから起き上がれない日もあった。


食欲は徐々になくなり、玲の大好物のシュークリームを一個すら食べ切れなくなってしまった。

お袋の味なら食べられるかもと思い、お母さんにも手料理を作ってもらったけど、やっぱりほんの少ししか口にできなかった。


前の抗ガン剤治療が終わって少し戻ってきた体重もまたすぐに減っていった。


「食べたい物ない?」

「今はいい。」

「もっと食べないと元気になれないよ。」

「うん。でも食べたくない。」

「俺の口移しでも?」

「そんなの、余計無理。」

「なんで?甘さが倍になるよ。」

「倍にならなくてもいいよ。」

「じゃ、キスだけでも食べて。」

「ばか。」


唇を合わせると、熱があるのがわかる。

食べたくないのではなく、食べれないんだ。

なんでもおいしそうに食べていた唇まで元気をなくしていた。


どうしたらいいんだ。

やっぱり俺は、何もしてあげらないのか。

このまま痩せていく玲を見ていることしかできないのか。

俺にできることってなんだろう。

今の玲の望みはなんなのだろう。


「玲、悔しいけど、俺は何をしてあげたらいいのかわからない。」

「何もしなくていいから。」

「玲を守るって約束したのに、何もできないなんて。」

「怜はちゃんと私を支えてくれている。」

「玲に慰めてもらうなんて、俺、最低だよな。」

「そんな風に考えないで。」

「だけど。」

「だったらひとつ、お願いしていい?」

「何?」

「歌って。」

「えっ?」

「前みたいに歌って。怜の歌が聴きたい。」



玲が再発してから、玲の前で歌うことを忘れていた。

玲のそばにいても心の余裕がなかった。

病気のことだけをしか考えていなかった。

自分を完全に見失っていた。


そうだ、玲が一番好きなもの、それは俺の歌だ。

最初に会った時からずっと、玲は俺の声が、俺の歌が好きだと言ってくれていた。


こんなに近くにいたのに、玲に言われるまでなんで気がつかなかったんだろう。

俺には歌しかないのに。

玲がいたから歌っていられたのに。



玲のそばで、歌った。

玲が、素敵、と言って微笑んでくれた。

何曲も何曲も歌った。

その度に、素敵と言ってくれた。


「その歌を、怜の声を届けてきて。」



明後日からケガで延期になったものも含めて5本のライブがある。

今日、玲の前で歌わなかったら、ライブは単なる仕事になっていた。心のこもらないカタチだけのライブになっていただろう。


玲はそれをわかっていた。

玲と同じように、俺の歌を待ってくれている人がいることを。

だから、俺の歌に魂を入れてくれたんだ。


「やっぱり玲にはかなわないよ。」

「なんで?」

「玲は俺のこと、全部わかってる。」

「だって、怜のこと大好きだもん。」

「玲がいないと、俺、やっぱりだめだよ。」

「そんなことない。怜が歌い続ける限り、たくさんの人が怜を支えてくれてる。たくさんの人が怜の歌を必要としてくれている。それを、忘れないで。」

「玲。」

「怜は私の宝物だけど、みんなにとっても宝物なの。」



ライブを終え、10日ぶりに病室に行くと、玲がベッドの上で陽に絵本を読んでいた。


髪の毛はもうなかった。

だけど、痩せていた身体が少し元に戻っていた。


陽がベッドから、パパ、と飛び降りて来る。抱っこすると声を上げて喜んだ。


「おかえりなさい。」

「玲、陽、ただいま。」

「疲れてるんだから、今日は家でゆっくりすればよかったのに。」

「玲のそばが一番安心するんだ。それはそうと、食べれるようになったのか?」

「うん。今のお薬が効いてるみたいで、すごく体調がいいの。」

「よかった。」

「せっかく痩せたのに、戻ってきちゃった。」

「何言ってるんだよ、今の方が絶対いい。」

「そうよね。偽物の胸であんなにガリガリじゃ女子力ゼロだもんね。」

「最高のレディーは外見じゃない。大切なのは心だよ。玲は世界一の女性だ。」

「だったら、怜は世界一の旦那様よ。」

「そうさ、俺たちは宇宙で一番お似合いの夫婦なんだから。」

「怜ったら。」

「いいだろ、本当のことなんだから。」

「怜の想像力も世界一だわ。」

「ところで、お母さんは?」

「今、コンビニでスイーツ買ってきてもらってる。」

「毎日来てくれてたの?」

「毎日じゃないけど。」

「またお母さんに迷惑かけたちゃったな。」

「玲は、仕事なんだから仕方ないわよ。」

「元気な玲を見れたし、陽にも会えた。今日は最高の日だよ。」

「大袈裟なんだから。」

「大袈裟じゃないよ。陽、ママにキスしたいから、下ろすよ。」

「陽もする。」

「よし、じゃ、2人でママにキスしよう。」


玲の左右の頬に2人でキスをする。

くすぐったい、と玲は肩をすぼめたけど、その肩を抱き、陽と2人で何度もキスをした。


「わかった。2人が私を好きなのはわかったから。」

「本当にわかってる?」

「わかってるから。」

「じゃ、陽、許してあげようか。」

「うん。」


もう、と玲は口を尖らせているけど、笑いが止まらない。


一瞬、ここが病院だということを忘れた。

その笑い顔を見ながら、玲はがんに勝てるんだ、と思った。

陽と3人で力を合わせたら、きっと玲は元気になる、と思った。



その日の夕方、病室に医師が来て、症状が安定しているので、退院を許可すると言ってくれた。

ただし、抗ガン剤治療は必ず続けること、症状が悪化すればすぐに再入院してもらう、と言う条件付きだったけど。


「玲、退院だって。」

「うれしい。本当に退院できるのね。」

「家に帰えれるんだ。みんなで過ごせるんだよ。」

「ねえ、どこか連れて行って。」

「行こう。玲の行きたいとこなら南極だって北極だって連れて行くよ。」

「どうしてそう極端なのよ。じゃ、南極の代わりにあの公園に行きたい。」

「わかった。ギター持って行こう。」

「それと、いっぱいの星が観たい。」

「いいよ。行こう。」

「後ね、大阪とシカゴにも行きたい。」

「いいね。結婚式を挙げたハワイにも行こう。」

「楽しみだなぁ。本当に全部、行けたらいいな。」

「行けるよ。これからはどこにだって行けるんだから。」



家に戻った玲は、その日も、次の日も、玲はよく笑い、よく食べた。


退院して3日目に、陽を保育園に送って行った帰りに、玲と出会った夜の、あの公園に向かった。


玲と俺のふたりだけのステージ。

玲をベンチの客席に座らせる。

あの時と同じように玲の前に立ち、ギターを弾きながら歌った。


俺の居場所は、熱気に溢れたライブハウスでも、何千人を収容できる広い会場でもない。

ここが、この公園のちっぽけな空間が、俺の一番大切な場所なんだ。


歌い終え、玲の横に座る。

こんなに晴れやかで気持ちのいい朝を迎えられたことに、感謝した。


「もうすぐアルバムが完成するんだ。」

「おめでとう。頑張ってたもんね。」

「玲のおかげだよ。」

「私、何にもできなかった。」

「そうじゃない。あの時、玲が歌って欲しいって言わなかったら、もしかしたら、歌うことをやめてていたかもしれないんだよ。」

「私がこんなことになったから。」

「違うよ。俺が弱かったからなんだ。」

「怜は弱くなんかない。」

「強くならないといけないんだよね。」

「そのままでいい。怜はそのままでいいの。

アルバム、早く聴きたいな。」

「サンプルできたら一番に聴いてもらうから。」

「楽しみにしてる。」

「内緒にしてたけど、玲へのラブソングも入ってるんだよ。」

「本当?」

「玲への想いを込めた、究極のラブソングを作ったんだ。」

「なんだか、聴くの恥ずかしい。」

「実は、歌う方も恥ずかしかったりするんだ。」

「何、それ。」

「ライブでは、照れ臭くて歌えないかも。」

「やっぱり、早く聴きたい。」

「玲って、そんなにMだっけ?そう言えば、ベッドの中でも。」

「もう。」


頬を赤らめた玲を強引に抱き寄せ、キスをする。


「Mもいいかも。」


玲が耳元で囁いた。

一瞬の沈黙の後、俺が吹き出した。

それにつられて玲が笑いだす。

公園は2人の笑い声で溢れた。



この幸せな時は、誰も壊すことはできないんだ。


そう信じていたけど、がんは徐々に玲の時間までも蝕み始めた。






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