第21部
ー再発ー
退院した怜は、3週間の自宅療養となった。
左肩はまだまだ動かせないけど、肘から先は自由だから、日中は曲の制作、夜は陽と遊ぶために時間を使った。
陽は大好きなパパが家にずっといることがうれしくて、一瞬たりとも怜のそばを離れなかった。
買い物に行くために家を出た時に、病院に電話した。
検診に行かなかったことを怜に知られたくなかった。
怜が自分のケガのせいだと思って欲しくなかった。
担当医の診察は週に2回しかない。
3ヶ月先の予約ですらなかなか取れないと評判の医師だ。
無理を言って、どうにか2週間後に予約が取ってもらった。
6ヶ月が7ヶ月に延びるだけのことだ。
もし、何があっても、1ヶ月で病気が急激に悪化するなんてことはないだろう。
この検診が終われば、次からは1年ごとになるのだ。
大丈夫。そう思おうとしたけど、心の片隅に小さな影が、引っかかっていた。
怜と一緒にいる時間は、いつもあっと言う間に過ぎる。
朝ごはんを3人で食べた後、陽を保育園に連れて行く。
家に戻ると、もう怜はパソコンの前にいる。
音のカケラが掃除や洗濯をする私の周りを飛びまわる。
このカケラは、どんな曲のどんなメロディーになるのだろう。
想像するだけで、掃除も洗濯も楽しくなった。
家事を終えた私は、怜の横に座り込む。
最初は邪魔になるからと、そばに行かなかったけど、こっちにおいで、と怜が言ってくれた。
「俺の横は玲の指定席なんだから。」
「邪魔じゃない?」
「全然。」
「集中できる?」
「玲が横にいてくれた方が、ずっと集中できる。」
「じゃ、怜が何をいってもここから動かないからね。」
「横で、褒めてて。」
「わかった。どんどん褒めちゃう。」
「どう?」
いくつかのカケラを集めた音を聴かせてくれる。
「素敵。」
私の答えはいつも同じ。
それでも怜は、満足気に頷いてくれる。
「じゃ、これは?」
今度はカケラに言葉が乗る。
「素敵。」
やっぱり怜は、うれしそうに頷いてくれた。
「明日、今までのを持って行きたいんだけど、スタジオまで送ってくれる?」
「いいよ。でも、高井さんは?」
「わざわざ迎えに来てもらうのも悪いし。」
「そうだね。高井さんも忙しいだろうしね。」
「2週間で2曲できたんだ。いいペースだろ。」
「私、カケラしか聴いてなかったけど、もう曲になってたの?」
「そう。すごいだろ。」
「どんな曲?」
「初めて入院して、今まで気づかなかったことや知らなかったことがちょっとわかったんだ。」
「入院はヒマだってこと?」
「それもあるけど、それだけじゃないよ。」
「どんなこと?」
「玲は強いなって。」
「なに?それ。」
「すぐに治るケガだってわかってるのに、病室で夜ひとりでいると、心細くて、不安になったり怖くなったりするんだ。」
「うん。わかる。」
「なのに、玲は入院してるときにそんな弱音
は一切、吐かなかった。俺とは比べものにならないくらい大変な病気だと言うのに。」
「そんなことない。私だってずっと怜にわがままばかり言ってたよ。」
「でも、いつも笑顔でいようって頑張ってた。」
「うん。」
「笑顔はひとつじゃない。笑顔の奥にあるものはみんな違うんだからね。」
「そうだね。」
「それがわかったから、そんないろんな笑顔の曲ができたんだ。」
「聴きたい。」
「明日、スタジオで聴かせてあげる。」
「うれしい。楽しみにしてる。」
翌日、怜を送って行ったスタジオにはたくさんの人がいた。
入院中にお見舞いに来てくれた人や会社の上層部の人もいて、私はあちこちで頭を下げて回った。
デモは送っていたけど、今日はレコーディングではないから、スタジオ内では和気あいあいとした雰囲気だった。
怜がマイクの前の椅子に座り、横にギタリストがスタンバイする。
怜が歌い出す。
この声だ。私の大好きな怜の声。
優しくて暖かくて、伸びやかな声。
私は怜の声を聴くために生まれてきたのかもしれない。
この声を守るために怜と出会ったのかもしれない。
守り続けないといけない。
そして、たくさんの人に届けないといけない。
それが、怜のそばにいる私の使命のような気がした。
7歳も年上で病気ばかりしている私より、若くて健康な女の子の方が怜にはふさわしい。
結婚して子供までいるのに、今でもたまに考えることがある。
でも、今、やっと私の存在理由が少しわかった。
自信、持っていいんだよね、怜。
ガラスの向こうの怜が微笑んだ。
自宅療養を終え、怜が仕事に復帰した。
とはいっても、まだギターのストラップを肩にかけられないから、当分はボイストレーニングやピアノの練習をすると言っていた。
怜のいない部屋は、こんなに閑散としていただろうか。
どこにいても、どこに座っても、自分の置き場が見つからなかった。
心の底にあった影が、かすかにざわめき始めた。
明後日は、検診の日だ。
数日前から、腰のあたりに少し痛みがあった。
怜が家にいたから、動きすぎたのかもしれない。
無理をしてはいけないことはわかってる。明日はちょっとだけ、のんびり過ごそう。
検診は1ヶ月遅れてしまったけど、きっと大丈夫。
翌日には、腰の痛みが背中にまで広がっていた。
陽を保育園に送って行った後、湿布を貼ってみたけど、あまり効果がなかった。
それでも動けないほどではない。
明日の検診の時にでも診てもらおう。
夕方、陽を迎えに行くまでは横になっていたけど、痛みは一向に治らない。
そのうち、頭までズキズキと痛み出した。
陽を連れて帰る途中で、スーパーでお惣菜を買った。
もう夕食を作れる状態ではなかった。
夜、陽を寝かしつける時に、そのまま眠ってしまった。
怜がもうすぐ帰ってくることはわかっていたけど、もう起き上がる気力もなかった。
家に帰るといつもは聞こえてくる、お帰りなさい、の声がなかった。
リビングに玲はいなかった。テーブルにはラップのかかったお皿が並んでいる。
玲は寝室にいた。
疲れたのか、陽と並んで眠っていた。
できるだけ音を立てずに寝室を出る。
リビングのソファーに座った。
静かだった。
玲のいない部屋は、こんなにも孤独な空間だったんだ。
玲の存在の大きさを改めて感じた。
玲がいなかったら、何もできないや。
明日起きたら、玲に伝えよう。
笑われたっていい、ひとりで淋しかった、と。
目覚まし時計が鳴っている。
いつもは玲がすぐに止めるのに、今日はずっと鳴ったままだ。
手を伸ばして音を止める。
玲、と声をかける。
返事がない。
身体の向きを変え、隣で寝ている玲を抱きしめる。
熱い。
服を通しても玲の身体が異常なほど熱いことがわかった。
「玲、玲。」
何度かの呼びかけでやっと玲が目を開け、声を出した。
「怜。」
「どうした?玲。」
「ごめん、起きなきゃ。」
「何言ってんだよ、すごい熱だ。」
「大丈夫。」
玲が起き上がろうとするけど、身体の曲げて顔をしかめる。
「どこか、痛い?」
「少し腰と背中が。」
「病院、行こう。」
「今日、検診なの。」
「だったらすぐに診てもらえる。早く行こう。」
「陽を。」
「わかった。病院に行く途中で保育園に連れて行くよ。」
「うん。」
何に対しても我慢して頑張ってしまう玲が、これほどまでに辛そうにするなんて、よっぽど激しい痛みなんだ。
でもどうして?何があったんだ?
もしかして、再発?
不安が胸をよぎる。
だめだ。絶対、そんなことはさせない。
お願いだ。
もうこれ以上、玲を辛い目に合わせないでくれ。
玲に痛い思いをさせないでくれ。
もう玲を泣かせないでくれ。
俺から玲を奪わないでくれ。
願いは、叶えられなかった。
「がんの再発です。」
病院で一番聞きたくなかった言葉を医師から告げられたのだ。




