第20部
ーアクシデント3ー
不意に携帯電話が鳴った。
携帯電話は電話がかかってくる予告はしないから、いつも突然だけど、今回の着信のコールは、なぜか飛び上がりそうなほど、びっくりした。
私の携帯電話は、まだガラケーのままだ。
家にはパソコンがある。仕事をしているわけでもないから、通話と簡単なメールができれば十分だった。
巷に溢れる情報を全て知らなくていい。
大切なもの、必要なものだけを厳選すればいい。
時代の波には乗り遅れるけど、遅れたところで、大した問題はない。
だって、この瞬間だって1秒後には、過去になるのだから。
着信を見る。
怜のマネージャーの高井さんからだった。
高井さんは怜と同い年で、怜のマネージャーになってもう3年になる。
だけど、私の携帯電話に高井さんからかかってくることなどほとんどなかった。
怜は今日、ライブのリハーサルだと言っていた。
怜と電話が繋がらないのか、急用なのだろうか。
それとも、怜に、何かあったのだろうか。
心臓がざわつき始める。
一瞬にして、動悸が激しくなった。
携帯電話を持つ手が小刻みに震えていた。
「もしもし?」
「玲さんですか?」
「はい。」
「reyがケガをして。」
「えっ?」
「リハーサルで倒れたライトがreyに当たったんです。」
「怜は、怜は大丈夫なんですか?」
「今、救急車の中で。意識はあります。」
「どこの病院に?」
「まだわかりません。わかり次第、また電話します。」
「あの、高井さん、」
聞きたいことがまだあったのに、電話は突然、切れてしまった。
買い物に来ていたスーパーの店内で、立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んでしまった。
怜がケガ?ライトが当たったって、どこに?どんなケガ?怜は大丈夫なんだろうか。
病院がわからないと、どうすることもできない。
とりあえず、家に帰って、電話を待とう。
震える膝をなんとか鎮め、急いで家に戻った。
陽は、2歳の春から近所の保育園に通い出した。
中野から帰ってから、怜と相談して決めたのだ。
保育園は夜間保育がある。連絡すれば夜の8時まで預かってくれる。
まずは、保育園に連絡をする。
救急車で運ばれるくらいだから、入院も考えないと。
とりあえず、すぐに必要な物をカバンに詰める。
入院には何が必要かは、知っていた。
こんなところで私の病気が役立つとは考えたことはなかったけど。
全ての準備を整えて、車の中で電話を待った。
高井さんから電話がかかってきたのは、最初の電話から30分以上経った頃だった。
病院は家から車で40分ほどの大学の付属病院だった。
ナビを頼りに病院へと車を走らせる。
大した渋滞もなく、ナビの予想時間よりも早く病院に着いた。
受付に行くと、高井さんが待っていてくれた。
「怜は?」
「今、処置してもらってます。」
「どうしたんですか?」
「何かの機材のコードが引っかかって、reyの後ろにあったライトが倒れたんです。背後から左肩辺りにあたって、切れてしまったのか、血が止まらなくて。」
「あたったのは肩だけなんですか?」
「多分。」
「頭とかは大丈夫なんですか?」
「多分、肩だけだと。」
「切れただけなんですか?骨折とかは?」
「玲さん、落ち着いてください。」
「でも。」
「しっかり意識もありましたから。」
「すみません。突然で動揺してしまって。」
「reyのことだから、きっと大丈夫ですよ。レントゲンはさっき撮ったみたいです。CTは処置の後で、と聞きました。」
しばらくして、処置室からストレッチャーに乗った怜が出てきた。
「怜、大丈夫?大丈夫なの?」
「ごめん、びっくりしたろ?」
「びっくりするわよ。どうなの?」
「大丈夫だよ。ただのケガだから。」
話の途中で看護師が怜のストレッチャーを慌ただしく運んで行ってしまった。
怜の後で処置室から出てきた医師が、家族の方ですか?と聞く。頷くと、こちらへ、と小さな部屋に案内された。
「運ばれてきた時、出血があったので、創傷のあった左肩を20針ほど縫合しました。それと、レントゲンで鎖骨の骨折が見つかりました。中心から少し肩に近い部分の骨折です。診断は、CTの結果を見てからですが、骨折は一ヶ所だけで粉砕はしていません。靭帯などの損傷もないので、手術は必要ないと思います。」
「治りますよね?」
「固定とリハビリで治ります。鎖骨なので、完治まで2ヶ月ほどです。しばらくは固定するので仕事なども我慢してもらわないといけませんが。」
「はい。ありがとうございました。」
「あたったのが頭に近い箇所なので、一応、経過を見るために、2、3日入院してもらうことになります。」
部屋を出て、高井さんに状況を説明する。
「わかりました。今後のことを考えないといけないので、一旦帰ります。」
ライブは明後日だ。
中止となると、チケットや会場などの問題があるだろう。
高井さんも当分はてんてこ舞いになるだろう。
「reyには何も心配いらないから、後の処理は会社に任せて、ゆっくり休んで、と伝えてください。」
怜がCTを終え、病室に運ばれて来た。
救急車が到着してすぐに高井さんが手配してくれたのだろう、病室は個室だった。
看護師が来て、テキパキと点滴の準備をする。
針を腕に刺し、点滴が落ちるのを確認する。
「これで大分痛みが治まると思いますが、痛みがひどい時は言ってください。後で入院などの説明がありますので、また来ます。」
看護師が出て行く。
「怜、痛い?」
「すごく痛い。」
「骨折してるんだって。」
「痛いはずだ。」
「それに20針も縫ったんだよ。」
「結構、血、出てたからな。」
「高井さんから電話があって、心臓、止まるかと思った。」
「大げさに言ったんだろ?でも、ライブ、できなくなったな。」
「高井さんがちゃんと処理するからって。」
「いつ治るか聞いた?」
「入院は2、3日だって。完治まではい2ヶ月。」
「2ヶ月か。当分は腕、動かせそうにないな。」
「無理しちゃダメだからね。」
「うん。わかってる。」
「なんか飲む?」
「うん。コーヒーがいい。」
「わかった。下で買ってくるね。」
病室を出て、ほっと一息ついた。
ケガだけでよかった。命に別状がなくてよかった。
ギターだってピアノだってまた弾けるようになるんだ。
怜から何も奪わないでいてくれて、神様ありがとうございます。
これからも何があっても怜からは何も奪わないでください。
奪わなければいけない時は、私が捧げます。
だから、怜だけは、守ってください。
お願いします。
コーヒーとお水やお茶などの飲み物を買って病室に戻った。
「暇だよ。」
「何言ってんのよ、さっき入院したばかりじゃない。」
「肩痛くて動けないし、点滴してるから何もできない。」
「ケガ人なんだから仕方ないじゃない。テレビでも観る?」
「いい。俺の服、どっかにある?」
「服?ここにはないけど。そう言えば、いつそのガウンに着替えたの?」
「Tシャツは血だらけだったし、肩を動かせなかったから、ハサミで切り刻まれた。」
「じゃ、ジーパンはあるのよね。」
「ジーパンのポケットに携帯入れてたんだけどな。」
「聞いてくる。」
ジーパンと携帯電話は袋に入れて、ナースステーションに置いてあった。
怜に携帯電話を渡すと、右手だけで器用に操作し始めた。
「何してるの?」
「リリック作り。入院って暇なんだってこと歌にするんだ。」
「ばか。ちゃんと安静にしていないと早く治らないわよ。」
「うそだよ。そんな歌、誰も聞きたくないだろ?」
「もう。」
「高井さんに大丈夫だよ、ありがとう、ってメール。」
「高井さん、すごく心配してたわよ。また来るって。」
「普段から心配症なんだよ。」
「のんびり屋の怜にはちょうどいい組み合わせじゃない。」
「まあね。陽は?」
「保育園、延長してもらった。」
「もう大丈夫だから、玲も帰っていいから。」
「もうちょっといる。邪魔?」
「邪魔なわけないだろ。」
「でも、私がいたら、休めないかな?」
「2、3日はずっとこの状態だろ?嫌という程休めるよ。」
「何かして欲しいことない?」
「ん、じゃ、キスして。」
入院の話を聞き、怜が夕食を食べるのを見届けてから、陽を迎えに行った。
事情を説明し、退院までは延長保育をお願いした。
陽には可哀想だけど、入院の辛さは私が一番よく知っている。
それに、私が入院している時、怜は寝る時間を削ってまで私のそばにいてくれた。
それが、うれしかった。だから、早く元気になろうと思った。
今回は、私が怜にお返しをする番だ。
怜のためなら、なんだってする。
怜は、やっぱり歌っている時が、一番素敵だから。
骨折した鎖骨以外に異常はなく、傷も順調に回復していたため、予定通り3日で退院許可が出た。
入院中は、朝、陽を保育園に送ってから、夜に迎えに行くまで、ずっと病院にいた。
利き腕の右手が使えるから食事だってひとりでできるし、着替えは看護師がしてくれる。
私がいなくても入院生活になんの支障もなかったけど、怜が私を必要としてくれた。
「玲はそばにいてくれるだけでいいんだ。」
「いるよ。ずっと怜のそばにいるよ。」
「離れないって、言って。」
「怜のそばから、死んでも離れない。」
「じゃ、キス。」
横になっている怜の唇に優しく唇を合わせる。
唇を離そうとすると、怜が右手を私の首に巻きつける。
優しいキスが、長く、熱い口づけに変わる。
3日間でいったい何度キスをしただろう。
誰にも見られなかったのは、奇跡に近い。
退院する時、来てくれた高井さんに聞こえないように、個室でよかったね、と怜はいたずらっぽく笑った。
怜のケガで、私はひとつ大きなことを忘れていた。
怜の事故の翌日が私の定期検診の日だったのだ。
3ヶ月ごとにを4回、そして6ヶ月ごとに4回の検診に通い、その次からは1年ごとの検診になる予定だった。
2回もがんになったのだ。決して検診をないがしろにしていたわけではない。
ただ、怜がケガをしてからは、怜のことしか考えていなかった。
自分のことを考えてる余裕がなかったのだ。
検診のことを思い出したのは、怜のケガから2週間が経った頃だった。




