第17部
ー戦いー
4回目の抗がん剤治療が終わった。
いつの間にか、もう9月に入っていた。
今日は、朝からベッドの中だ。
体調が優れない。どこがどうと言うわけではなく、ただただ身体がだるいのだ。
抗がん剤の薬が今回から変わる、と医師から聞いた。
副作用は人によって違う、と言うけどこんなにも辛いことがあるのだろうか。
起き上がる元気すらなかった。
嘔吐感はないけど、食欲もない。
寝返りですら、しんどかった。
「大丈夫?辛い?」
怜が声をかけてくれるけど、うん、とだけしか応えられない。
3日後からライブツアーが始まる怜の貴重な休みの日に限って、なんでこうなるのだろう。
ツアーが始まれば、なかなか家に帰れないというのに。
「今日は一日そばにいるから、安心して寝てていいよ。」
小さくうなずく。
「歌、聴く?」
もう一度うなずく。
怜が歌い出す。
優しい歌。怜の声が私を羽のように包み込んでくれる。
鉛のように重かった身体が、少し軽くなっていくようだ。
閉じていた目を開ける。
歌いながら怜が私を見て微笑む。
怜の笑顔は私に元気をくれる。
怜の微笑は私を癒してくれる。
私は怜に何をしてあげられるのだろうか。
ぼんやりとした頭で考えていた。
怖かった。
このままいなくなってしまうかもしれない。もう怜や陽や両親にも会えなくなってしまうかもしれない。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
自分自身の全てで、抵抗した。
もう私から何も奪わないで。
お願い、お願い、お願い。
だるさが少しましになった時には、もう夕方になっていた。
「怜。」
「気分はどう?」
「少しましになったみたい。」
「よかった。何か食べる?」
「いらない。」
「食べないと元気になれないよ。」
「そうだね。」
「お母さんに何か作ってもらうよ。」
「陽は?」
「さっきまでそばにいたけど、好きなテレビが始まったから。」
「うん。」
手を伸ばす。
怜の大きな手が私の手を包む。
よかった。
怜の顔が見れた。怜とまた話せた。怜ともう一度手が繋げた。
私はまだ生きている。
「ありがとう。せっかくの休みなのに。」
「玲のそばにいられるのなら、どこにいても同じさ。」
「明日から九州でしょ。」
「今回は18ヶ所回るから、ちょっと長くなる。」
「たくさんの人に愛されて、怜は幸せだね。素敵な歌、いっぱい聴かせてあげて来てね。」
「でも、俺は、」
「だめ。私ならもう大丈夫だから。」
「わかったよ。けど、ツアーのラストは東京だから、玲に来て欲しいな。」
「行きたい。」
「元気になって、来て。その時だけは、玲のために歌うから。」
「うん。行く。絶対、行く。」
「じゃ、しっかりご飯食べないとね。」
「その前にパジャマ、着替えたい。」
「わかった。着替えさせてあげる。」
「自分でするから。」
「いいから、玲はそのままで。」
「だめ。」
手術の後、着替えが必要な時は母に手伝ってもらった。
私の胸に並んでいる偽物の乳房を怜に見せる勇気がなかった。
抜けた毛は、抗がん剤治療が終わればまた生えてくる。
だけどなくなった胸は、どんな治療を受けても元には戻らない。
怜は、きっと、どんな傷があってもいいと言うだろう。
だけど、やっぱり嫌だった。
自分で好きになれないこの胸をどうして受け入れられると言うのだ。
怜に、醜いと思って欲しくなかった。
そして、同情して欲しくなかった。
「だめじゃない。ほら、着替えるよ。」
「いや。ひとりでするから、向こうへいってて。」
「玲。」
「お願い、見ないで。」
「玲、俺は玲のなんなんだ?」
「だって。」
「そうして一生いやだって言い続けるのか?」
「きれいじゃない。私、自分でも信じたくないくらい醜いんだよ。」
「玲がそう言いたくなるのもわかるよ。胸がひとつになった時ですらあんなに頑固だったんだから。」
「でもあの時はまだ自分の胸があった。」
「玲は本当に辛いと思う。でも、俺にとっては、どんな身体になったって玲は玲なんだ。」
「わかってる。でも、やっぱりいや。」
「俺をそんなに信用できないのか?」
「違う。違うの。」
「信用してるんだろ?じゃ、着替えるよ。」
最初から、わかっていた。
結局、怜に押し切られることくらい。
怜が私を醜いと思わないことくらい。
着替えを手伝いながら、怜が言った。
「玲はやっぱり勝利の女神だ。」と。
「どれだけ傷だらけになっても、玲はきれいだ。俺たちのために戦ってくれて、ありがとう。」と。
勝利の女神だって、怜には敵わない。
怜はいつだって私にとって最強のそして、最愛の王子様だ。
翌日、怜は出発した。
ツアーは九州から始まるから、当分は帰ってこれない。
体調は昨日よりずっとよかった。
行ってらっしゃい、が笑顔で言えてよかった。
怜のツアーが終わる頃、やっと抗がん剤治療が終わる。
その後に放射線治療が始まるけれど、抗がん剤ほど副作用はないと聞いている。
ただ、放射線治療は週に5回病院に通わなければいけない。それが6週間も続くのだ。
まだ、終わらないな。
元気な時は、時間なんてあっという間に過ぎていくのに、病気になった途端、時計の針はまるで止まっているかのように、遅々として進まない。
特に体調の優れない日の夜は最低だった。
本を読んだりテレビを観る気力がなくなる。
何かを考えようとしても、頭の中に霧がかかったように何一つ明確なカタチが見つけられない。
ただ、ただ、闇をぼんやりと見つめているしかなかった。
けど、後、1ヶ月半。放射線治療を含めても、後、3ヶ月だ。
弱音を吐かないって、決めたよね。
ちゃんと治療をやり遂げるって決めたよね。
病気との戦いに絶対に勝つって誓ったよね。
元気になるって誓ったよね。
私には、やらないといけないことがあるんだ。
怜と陽と両親にちゃんと返さなきゃ。
支えて、助けて、見守ってくれた分を私の命がある限り返していく。
生きていく理由が、生きないといけない意味が、私にはあるのだ。
日中には、歩き始めた陽と、できる限り散歩に出かけるようにした。
陽はすぐに出かけたがったし、私も外の空気の中で気分を変えたかった。
陽と一緒に歩くと、たくさんの発見があった。
陽の目線は私よりずっと地面に近い。
ほんの数メートル歩くごとにしゃがみ込んでは、何かを見つける。
誰かが落とした一円玉。
銀色のガムの包み紙。
割れた赤いプラスチックのかけら。
アスファルトの裂け目から伸びた雑草ですら、陽には新鮮なのだ。
母は嫌がるけど、私はできるだけ見つけたものを触らせる。
固いのか柔らかいのか。
軽いのか重いのか。
温かいのか冷たいのか。
見て感じ触れる。
陽にはいろんなのもを知って欲しい。
五感を使って吸収して欲しい。
大人になったらできなくなることを今のうちに、私が一緒にいられるうちに、教えてあげたかった。
無駄に思えてもそれぞれにちゃんと意味を
持って生まれてきたのだ。
だけど命には必ず終わりがある。
だからこそ、大切にして欲しい。
思いやれることのできる心を。
分け隔てのない優しさを。
「ありがとう。」
そして、この素敵な言葉を素直に言える人間に育って欲しかった。
優しさにあふれた、怜のように。
抗がん剤治療が終わった1週間後、怜のライブに行った。
ライブに最後に来たのはもうずいぶん前だ。
音楽の仕事をしていたのに、あんなに密接に音楽に関わっていたのに、いつの間にか、音楽からどんどん離れて行ってしまったような気がした。
体調が悪くなることはもうなかったけど、自分が変わってしまったようで、少し寂しかった。
優しさのあふれたウィッグとキャップを被り、なくなった眉毛をきれいに描き、つけまつ毛を付ける。
アイシャドウとリップで色彩を加えると、のっぺりとしていた顔に立体感が出た。
陽が見慣れない私の顔を見て少しびっくりしていた。
陽も一緒だとよかったけど、まだ一歳の子供をライブハウスに連れて行くことはできなかった。
会場の後ろで立って観ると言ったけど、怜にだめだと言われた。
「玲が気になって歌なんか歌ってられないよ。」
「大丈夫だって。もう全然普通だし。」
「でも2時間も立ち通しだから。」
怜の言う通りだ。
2時間立っていることは、今の私の体力では無理かもしれない。
ステージの袖にひとつだけ置かれた椅子が私の席だった。
しばらくすると、ライトが全て消えた。
一本の光が、ステージの上のギターを持った怜を照らす。
大きなどよめきと声援と拍手がおさまるのを待ち、怜が歌い出す。
怜と再会した時のライブを思い出した。
だけど、あの時よりもまた一段と上手くなっている。
一瞬で、みんなを怜の世界に連れて行ってくれた。
できることなら、こんなひとりぼっちの席ではなく、あの観客席でみんなと一体になって聴きたかった。
一緒に歌い、踊り、同じ時間を共有したかった。
ステージにいるのは、私のだんな様でもなく、陽の父親でもなく、ミュージシャンのreyだった。
そして、私といる時より、陽といる時より、ずっとずっと輝いて見えた。
それが、とてもうれしかった。
楽しい時間は、やっぱりあっという間に過ぎていった。
アンコールは、以前と全く同じセッティングだった。
ピアノと怜が暗闇の中に浮かんでいた。
ピアノの前に座った怜が話し出す。
「今日は俺の勝利の女神がやっと来てくれました。
みんなと一緒の場所で聴きたいって言ったけど、病み上がりだから今はステージの袖から見守ってくれています。
最後の曲は、オリジナルじゃないけど、女神に初めて出会った時に歌った大切な曲です。
宇宙一愛しい女神と、大好きなみんなに感謝を込めて歌います。聞いてください。
just the way you are。」




