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彼方へ  作者: 原 恵
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第16部

ーありふれた日々ー


アルバム制作を終えた怜は、3日間の休みをもらった。


「明日、海に行こう。」

「急にどうしたの?」

「玲と初日の出を見に行った海の近くの旅館が取れたんだ。」

「でも明日って。」

「抗がん剤治療が始まったら行けないだろう?」

「治療が終わってからと思ってたのに。」

「お母さんもたまには休ませてあげないと。」

「それはそうだけど。」

「お母さんは、行ってらっしゃい、って言ってくれたよ。」

「なんかこの頃、私より先に親に相談するのね。」

「やきもち?」

「違うけど、私が知らないのにお母さんが先に知ってるんだもん。」

「お母さんも俺も、玲に喜んでもらいたいからね。」

「本当に行くの?」

「俺が運転するから。」

「でも怜、ペーパードライバーじゃない。」

「大丈夫。事務所の車、結構運転してるんだ。」

「知らなかった。」

「初日の出の時に俺が連れて行けなかったから、今度は絶対に俺が運転して連れて行くんだって思ってたからね。」

「ホテル、陽が行っても大丈夫なの?」

「ちゃんと赤ちゃんと一緒って言ってあるから。」

「だったら、連れて行って。本当はすごくうれしいの。」



翌朝、母に見送られて海に向かった。


車の中では、後部座席のチャイルドシートに乗っている陽のために怜が童謡を何曲も歌った。

はしゃいでいた陽が眠ってしまうと、今度は私のために新しいアルバムに入る曲を歌ってくれた。


「どう?」

「うん、いい、最高。」

「玲に褒めてもらうのが、やっぱり一番うれしいよ。」

「私なんかより、プロの人に褒めてもらう方がいいのに。」

「俺はね、玲がいたから、こうして歌ってられるんだ。だから、これからもずっと褒めていて欲しい。」

「怜は褒めて伸びるタイプなんだね。」

「そうそう。やっとわかってくれた?」

「相変わらず子供みたいね。」

「初めて会った時は子供だったけど、今はお父さんだよ。」

「そうね。そう考えると、なんだか変な感じ。」

「玲はずっと玲だけどね。何も変わってない。」

「最初ふたつあった胸が、怜と2度目に会った時はひとつになってて、今はもうなくなっちゃったけど。」

「それが何か問題ある?」

「半分女じゃないみたい。」

「胸なんて全然、関係ないよ。」

「今になって思うよ、胸作ってもらう時、もっと大きなのにしてもらったらよかったって。Fカップくらいのどーんと大きいのに。」

「大きければいいっていうもんじゃないと思うけど。」

「憧れるのよ。今では夢のまた夢だから。」

「玲はきれいだよ。どんな身体でも。」

「嘘でもそう言ってくれるだけでいいかな。」

「嘘じゃないよ。初めて会った時からずっときれいなままだ。」

「そんなこと言ってくれるの、怜だけだよ。」

「じゃ、大切にしてもらわないとね。」

「する。言わなかったっけ?怜は私の宝物だって。」


怜は私を素直にさせてくれる。

どんな恥ずかしい言葉でも怜の前では自然に声に出してしまう。

それは、怜が素直だから。

どんな言葉でも怜は恥ずかしいと思わないから。

真っ白な心を失わない怜が羨ましかった。

私もこんな純粋な心が持てるようになるのだろうか。

答えは、ノーだ。

胸の傷を見るたびに醜いと思ってしまう。

偽物の胸に触れるたびに悲しさが溢れる。

他人の目が気になる。好奇の目で見られるのが怖い。

そして、ふとした瞬間、投げやりになってしまう自分がいる。

こんな情ない自分が大嫌いだ。


だけど、いつかは、自分の胸を自分自身を好きになりたいと願っている。


ダボダボのTシャツではなく、身体にフィットしたワンピースが着れるように、自信を持てる自分になりたいと思っている。



優しい潮風の吹く午後。

砂浜を3人で歩いた。

青く、キラキラと輝く海。小さな波が押し寄せる。


「玲、地平線。やっぱり地球は丸いんだね。」

「うん、広いね。潮の匂い、久しぶりだなぁ。」

「初日の出見た時が最後だよね。」

「若い頃はよく海水浴にいろんな所の海に行ったんだけどな。」

「俺が忙しくなったから、連れて来てあげられなかったもんね。」

「ううん、最初の病気になってからは、水着とか温泉とかは諦めたから。」

「玲の裸は俺だけのものだから。他の人には見られないで俺は安心してる。」

「ばか。」


砂浜に並んで座った。

陽はもうすぐ8ヶ月になる。

家の中ではハイハイでどこまでも行ってしまうけど、砂浜の上でのハイハイだけはしないように止めるのは、結構大変だった。


「気持ちいい。もう夏なのね。」

「うん。」

「病気のことも忘れちゃいそう。」

「忘れたらいいんだ。」

「波が私の汚い部分を全部流してくれてるような気がする。」


「普通に戻りたいな。」

「玲。」

「怜と普通に過ごしたい。何にも変化なんかなくていい。ありふれた日常でいいの。」

「ありふれた日常か。」

「朝起きておはようって言って、出掛ける怜に行ってらっしゃいって言って、陽と散歩して、夕ご飯の用意をして、3人でご飯を食べて、おやすみって言い合うの。そんな毎日でいい。」

「なるよ。同じ毎日の繰り返しに飽き飽きする日がきっと来るよ。」

「だといいなぁ。」

「その時になって、退屈だ、なんて言うなよ。」

「言わないよ。でも、言いたいなぁ。」



旅館の若い仲居さんが、怜の顔を見て驚いていた。

部屋に案内してくれる時もチラチラと怜の顔を見ていた。

旅館の説明を終え出て行こうとした時、呼び止めた。

カバンの中から、怜のロゴの入ったノートとペンを取り出し、怜にサインをしてもらった。

もしよかったら、とノートを手渡すと、ありがとうございます、と何度も頭を下げながら出て行った。


部屋でゆっくりと食事をし、大きな露天風呂で久しぶりに足を伸ばして湯船に浸かった。

かすかに波の音が聞こえる。

見上げると、笑った口のような三日月とたくさんの星が煌めく夜空が広がっている。


時よ止まれ。


呪文のようなに、心の中で何度も呟いたけど、時が止まることはなかった。



抗がん剤治療が始まった。


開始直後は、体調に何の変化も起こらなかったが、3日目くらいから軽い嘔吐感があった。それに伴い、食事があまり喉を通らなくなった。

起きられないほどではないけど、動くとすぐに疲れた。


体調の悪い日は毎日ではなかった。

朝から元気で、食事も普段通りできる日もある。

そんな時は、できるだけ家事をこなし、陽と散歩に出かけるようにした。


いつもと変わらない生活に、少しでも戻りたかった。



そして、2週間を過ぎた頃から脱毛が始まった。

脱毛が始まった日、朝起きた時に枕を見て唖然となった。

こんなにたくさん髪の毛が抜けることを初めて知った。

指で髪をすくと指の間に数えきれないほどの毛が絡みついていた。


治療前に、セミロングだった髪をベリーショートにしたけど、あまり意味はなかった。


2回目の治療の後には、もうところどころ地肌が透けている状態になった。

帽子は被っていだけど、脱いだ後に帽子についた毛を一本一本取っているのがバカらしくなった。


近所にあるカットハウスに電話した。

事情があり坊主頭にしたいと伝えると、快く承諾してくれ、人目につかないように閉店後に待っている、と言ってくれた。


残っていた髪の毛に心の中でサヨナラをした。

鏡には初めて出会う自分が映っていた。

こんな頭だったんだ。

もう30年以上付き合って来たのに、自分の頭の形すら知らなかった。


いかがですか?お似合いですよ。

いつもカットを終えた後に聞く言葉がなかった。

そして、美容室では初めての言葉を聞いた。

頑張ってくださいね、と。


終わった後には、もう使わなくなったという練習用のウィッグを、使ってください、と頭に被せてくれた。


病気になって、こんな状態になったからこそ、人の優しさに改めて気づかされる。


元気になっても、今のどんなに些細な事でも感謝できるこの気持ちは忘れずにいようと思った。



「どうしたの、それ。もうできたの?」


ウィッグを付けて帰った私を見て母がびっくりする。

治療の始まる前から ウィッグを作る事は考えていた。

できるだけ自然に見える物が欲しかった。

でも、もういらない。

見栄を張ってどうするのだ。

何に対して恥ずかしがっているのだ。


骨折した骨を治すためのギプス姿が恥ずかしくないように、病気を治すための坊主頭も恥ずかしくないはずなんだ。


「もらったの。どう?」

「何だかお人形みたい髪ね。」

「美容師さんの練習用だって。」

「もう注文したのかと思ったわ。早く注文しないとできるまで時間がかかるんでしょう?」

「もうあれはいい。どうせ外に出る時だけだし。それに結構高いしね。」

「でもそれじゃ、あまりにも。」

「この上から帽子を被れば全然問題ないよ。」

「玲がそう言うのだったらお母さんは何も言わないけど。」

「いいの、いいの。家の中ではこれだしね。」


ウィッグを取る。

坊主頭に、ウィッグを付けて帰った時よりずっと、母は驚いた顔をしていた。

















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