僕と男の不毛な対話
男に見えるのは、殆ど空に近い今いるリビングと奥のキッチンだけである。男は慌てた様子で、
「あいつは?」
と、一言で聞いてきた。僕も一言で返してやる。
「風呂」
僕が風呂を勧めると女は、入らなくてもいいと言った。男の側を、離れたくなかったようだ。
僕は、どうせ暫くは起きないと請け合うと同時に、汚れを落として貰わないと困ると言って、無理に風呂には入って貰った。
女の行くところ行くところ、雑巾を持って着いて回るのは嫌だと言うと、ようやく風呂を使うことは了承してくれた。
男は忌々しそうに鼻を鳴らし、
「何を呑気にしてるんだか」
と、悪態を吐く。その後で自分の裸の身体を見下ろすと、慌てて辺りの床を見回した。顔を上げるなり、噛みつくように、
「俺の服はどうした?」
「洗濯中」
僕は軽く肩を竦めて、答える。男は憎々しげに、余計なことをと言った。僕は笑顔で、
「僕の服は小さ過ぎて、あんたには着られないから、乾くまでそのままでいて貰うしかない。彼女には、僕の服を貸すから安心して」
男は何を思ったか、侮蔑のこもった笑みを浮かべて僕を見た。
「あいつに惚れたって言うのか? それよりも、碌でもない男に苦しめられているって、同情したか?」
僕は、思いも寄らぬ言葉を聞いて目をぱちくりとさせ、その後で笑いながら首を横に振った。
「僕は頭がおかしいから、恋愛感情や同情とは無縁だよ」
男は鼻白んだ様子で、ヘッと呟いたあと、きつく僕を睨み付けた。
「お前が異常なのは分かってる。お前がまともなら、俺達を追い出すか、自分が逃げ出すか、それとも人を呼ぶかのどれかだからな」
僕にはどれも魅力的な案には思えない。
出て行くと言うなら構わないが、追い出す為には労力も要る。ここは僕の家なのに、なぜ僕が出て行かなければならないのか。人を呼ぶなんて、自分から面倒を呼び込むようなものだ。
追い出したり人を呼んだりする労力より、彼らがこの家にいることで僕に掛かる負担が越えて初めて、僕はどちらかの方法をとるだろう。
今のところ、僕はさほどの迷惑は被っていない。目を開ければ、いつも通りの日常が、あるだけかも知れないのだから。
僕はわざと男を挑発して、
「あんたが気を失っている間に、人を呼んだのかも知れないよ」
男は、ギリと奥歯を噛み締めた。押し潰すような声で、
「お前は本当に気に食わねぇ」
「それは僕がおかしいからだよ」
僕は笑う。男は、殺した方が世の中の為かもなと悪態を吐く。また殺すだの殺せだのの堂々巡りが始まるのなら、面白みがない。
そう思っていると男が不思議そうに、
「俺は何で気なんか失ったんだ?」と、言ってきた。
僕に当て身を食らったことに、気付かなかったようだ。
よくもやったなと因縁を付けられると、殺すだの殺せだのと言う話を蒸し返し兼ねないので、僕はその件には触れないことにした。
「粋がっててもその怪我だもの。あんたが静かになってくれたお陰で、やっと小汚い物を始末出来た」
身体を清拭したので、男からはもう海とも血ともつかない生臭い臭いはしない。
「お前が俺を」
男は怪訝そうな顔で、僕を見る。僕は微笑んで、
「少し手伝っただけだ。別に、感謝されるほどのことじゃないよ」と、言ってやる。
男は嫌味たっぷりに、そりゃあ有り難いこったと言った。僕は微笑んで、礼なんていいよと更に言ってやる。
男はブスッとした様子で黙り込む。かと思ったら、これだからイカレた奴はと、毒突くのは忘れなかった。
僕は座っていた床から、腰を上げる。
「彼女が風呂に入っている間にあんたを殺して、あんたは失血多量で死んだとでも言うことにしようか。悲しみに暮れる彼女を、僕が支えて上げる……なんて、これこそメロドラマだね」
僕は言いながら、男のベッドにゆっくりと歩み寄った。男は鼻で笑って、
「そんなことにはならないね。せいぜいお前が、俺に殺されるってところだ」
僕は、首を曲げた。
「彼女とあんたの愛は、何よりも深いとでも言うのかい?」