これは僕の幻か?
僕は、いい加減うんざりしたので、握った拳を素早く男の首筋に叩き付けた。男は何が起きたのかも分からず目を見開いただけで、ガクリと身体から力が抜ける。
女は崩れそうになった男の身体を抱え、驚きと恐怖の混ざった瞳で僕を見た。
「何を」
感情的に上げられた言葉は、尻すぼみに消えてしまう。
何をしたのか、何をするのか。
大して意味のある言葉ではなかっただろう。僕はしゃがんで、水を吸った方のタオルを掴んだ。
「この方が静かでいいだろう。今のうちに拭いてしまおう」
僕は淡々と言って、タオルで床の水溜りを拭う。タオルは当然殆ど水を吸わず、僕のしていることは無意味だった。
僕は水の中にタオルを残し、膝を伸ばして立ち上がる。
「もう少しタオルと雑巾を持って来るよ」
済みませんと、か細い声で言う女には目もくれず、僕は女に背を向けた。
*
男は、ソファベッドに横たわって、シーツにくるまって寝ている。邪魔にならないよう壁際に寄せていたソファがベッドにもなることを、僕はそれまでは知らなかった。
別荘に客室はないので、泊まる必要ができた時は、リビングのソファベッドで休めるようにしてあったのだろう。
僕が知らなかった通り、そのソファで眠った者は、今までに一人もいない。僕自身、数えるほどしかソファに座ったことがない。
男は僕が気絶させたので、静かなものだ。もっと早くに黙らせておけば良かったとも思うが、とりあえずすることのなくなった今は、男が眠っているだけではつまらなかった。
男の腹の傷は、銃創だ。脇腹から背中に弾丸は抜けていた。
場所からいって骨は無事だが、間違いなく内臓は傷付いている。放っておいて、治る傷ではない。
常識的に言えば、救急車を呼ぶなり、病院に行くことを勧めるものだろうが、僕がしたのは傷口を洗いガーゼを当て、包帯を巻く手伝いをすることだけだった。
僕が一度も使ったことのない救急箱も、これでようやく日の目を見たことになる。
僕がクローゼットの中の救急箱の存在を、覚えていたことの方が驚きだろう。
僕は、もたれた壁に後頭部を押しつける。
外の嵐の収まる気配はない。風と波と雨の音に混じって、室内からも水の音と物音がしている。
僕は目を閉じて、部屋の明かりを締め出し、いつもの小部屋で嵐の音を聞いているつもりになってみた。
嵐の夜にやって来た二人の男女は、僕の作り出した幻なのだと考えてみる。しかし目を閉じても、螢光灯の光は瞼の中に忍び込んで来て、いつものような本当の闇にはならない。
仕方がないので僕は目を開けた。すると、いつものように一人でこの家の中にいると言う想像の方が、ただの幻になってしまう。
僕は、ほんの一瞬――多分。僕の認識なので、数分は経過していたのかも知れない。僕は時間を計るのが苦手だ。普段から時間を必要としない生活をしているから――目を離した隙に、男は身動ぎを始めていた。
男は唸り声を洩らしながら、壁までにじり寄り、壁を背にしてズルズルと起き上がった。しかし完全に目覚めている様子ではない。気持ちは睡眠を求めているが、身体は覚醒しようとしている。そんな感じだ。
僕は、このまま寝かせてやるよりも、面倒でも男の反応が見たかったので、声を掛ける方を選んだ。
「もう、目が覚めたの。ずいぶん疲れているようだから、そのまま眠っていればいいのに。まるで危険に晒された獣の眠りだね」
男は、初めは何が何だか分からない様子で僕を見ていたが、やがて完全に覚醒したようだ。僕が誰だか分かるなり、苦虫を噛み潰したような顔で、僕を睨み付けた。
「お前か」
僕は、また男の相手ができるのが嬉しくて、微笑みながら、
「夢だったら良かった?」と、聞いた。
男は僕の言葉には返事を返さず、素早く室内に目を走らせた。
僕がもたれている対面式のカウンターの奥には、狭いキッチンがあるだけだ。一階はリビングとキッチンとユニットバス、そしてベランダ付きの部屋があるだけだった。