女は死にたがりとくる
僕は痛くないのと、女の態度が気に入らないので、素っ気無く頷いただけだ。しかし女の卑屈な態度は、粗暴なこの男の暴力に常時晒されている所為かも知れないと、僕は思い着く。
ならば悪いのは、女に不愉快な態度までとらせる、この男の方だ。
僕は、ようやく女の態度に腹を立てずに、優しく女に話し掛けた。
「こいつみたいな男に尽くす女の気持ちは、僕には理解出来ないよ。腐れ縁で切れることができないのなら、僕が後腐れなく殺してやろうか? 今日みたいな荒れた海に死体を放り込んだら、崖に打ち付けられてバラバラになって、破片も何処へやらでまともに残らないだろう」
男は、掴んでいた僕の足首を離した。
「殺せるものなら殺してみろよ。その可愛い拳で俺を殴ったら、お前の骨が折れるだろうよ」
僕は、家の中でも土足でいたことを、今ほど感謝したことはなかった。水と血の混じった液体に濡れて滑る靴底に気を付けて、ゆっくりと立ち上がる。
僕は可愛いと評された拳を固めて、
「そうなるか、試してみるかい?」
もちろん冗談ではない。
女は男を支えていた手を離すと、男の身体を回り込んで僕の側で踞った。床に両手をついて、這いつくばるようにして女は頭を下げる。
「やめて下さい。この人を傷付けないで下さい。殺したいと言うなら、私が死にます。この人の代わりに、私を殺して下さい。私は死んだ方が良かったんです。殺されても構いません。私なんか、初めからいなければ良かったんですから」
女は肩を震わせて、泣いているようだった。僕は、女の様子に心を動かされることもなく、握った拳を己の唇に押し当てた。
「死んだ方が楽だって言うなら、あんたを殺して上げてもいいけど」
顔を上げた女は、期待するような表情を浮かべていた。その顔には、膿み疲れた様子がある。
僕は、人助けをしてやりたいような気持ちになった。女は、お願いしますと頭を下げようとする。
男は、いきりたった様子で、女の腕を掴むと自分の胸に引き寄せた。
男は僕の存在を忘れたような、なりふり構わぬ様子で、
「お前が死んだら俺はどうなるんだ。たった一人で、永久に彷徨い続けろと言うのか?」
男の顔は、傷とは違う苦痛に満ちていた。女は、耐え切れない様子で俯く。
男女の仲のことは分からないと言うが、端から見て男の女に対する態度が理不尽でも、この二人は愛しあっているに違いない。男が、心から女を必要としていることは伝わってくる。
それが分かってしまうと、僕もそれ以上怒りを持ち続けられなくなってしまう。僕は、一つの感情に捉われていることが出来ない。
男への怒りが収まると、憐憫が湧いてきた。
「もしかして、あんた。お腹減ってて疲れてるんだろう。だから、そんなに苛ついてるんだ。しかも、ひどい格好をしてたら機嫌も悪くなるよね。今着てる服を洗濯して身体を拭いて、乾いた新しい服を着たら、少しは気分もマシになるんじゃない?」
僕は仲直りの印に、男に微笑み掛けた。
男は胡散臭そうな、気味悪がるような目で僕を見る。僕は頭がおかしいのだから、気持ち悪がられても仕方がない。
「どうした気の変わりようだ。それとも分裂してるのか。乖離性何とかとか、昔で言う二重人格」
僕は、軽く肩を竦めて見せる。
「人の感情に流され易いんで、ピリピリされるとこっちまで苛々するんだ。ここが僕の家だと言うことを忘れないでくれ。あんた達は、侵略者であり闖入者だ」
そこまで言って僕は、クスクスと笑い出す。これこそ異常な態度だが、男は不快そうに眉をしかめただけだった。僕は朗らかに、
「それに、これは僕の見ている夢だ。夢の中ぐらい気分よくいたいよね」
男は嘲りをたっぷり込めた態度で、手を広げて口を開き掛けた。女は、男の発言を妨げるように、男の身体に手を掛ける。揉めても仕方がないと示す女に男は、
「分かってるよ。分かってるよ」と、返す。
男は僕を見てニヤリと笑う。
「坊やには、感謝してる」
僕は、坊やと言われて腹を立てる筋合いもないので、ニコリと微笑み返す。しかし男は笑みを消すと、凶悪な顔付きになって、
「だから、俺達には構わず奥に引っ込んでろ」と、言った。