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嘆きの人魚を探しに

 船が難破した時、海でおセイに拾われなければ、弥介だって死んでいた。

 あの事故の時に、既に弥介は死んだのだ。

 以後のことは、ある筈のない人生だった。

 お清がいなければ、嘉一の子も七太の子も助からなかっただろうが、それは天の定めた寿命だ。可愛そうだが、助からないのが本当だったのだ。

 代わりに辰吉達やあの老女のように、死ぬ筈のない者が死んだ。

 天が定めた寿命を、弥介達は狂わせてしまったのだ。

 

 弥介はぼんやりとしてきた頭で、お清に向かって云う。

「そうだな。お前がいなければ良かったんだ。もう人間なんて好きになるんじゃねぇ。二度とおかには近付くな」

 海に落ちて戸板で漂流していた時も、同じように弥介の頭は動かなくなっていった。その時と同じように弥介は、死に掛けているのだ。

「生きて下さい。生きていれば、きっといいこともありますから」

 お清の囁く声は聞こえていたが、その意味がもう弥介には理解出来なかった。

 血と一緒に流れて行くのは体温だけでなく、命もだ。


 静かにその時を待っていた弥介の口の中に、何か滑っこい物が入り込んでくる。

 赤子が無心に乳を飲むように、弥介はそれを飲み込んでいた。

 飲み込むと、また次の物が入ってくる。

 幾度も同じことが繰り返されるうちに、弥介の頭に光が差し込んだ。途端に、温もりを持った滑らかな肉と、生臭い血の味が口中に感じられた。

 お清は己の肉を削いで、弥介に与えているのだ。

 人魚の肉は不老不死を与えると云う。死に掛けた者が食べれば、その時点で不死となり、命も助かると云うのか。

 

 お清に先ほど云われた言葉が、ようやく意味を持ってきたが、今更助かってもどうにもならない。

 弥介は、友人まであやめてしまったのだ。

 そんな人間が、どうやってこれから生きていけばいいのか。人を信じることも、頼ることも出来ない中で。

 何よりも、弥介は己が一番信じられないのだ。

 

 弥介は、口の中の物を吐き出したかった。

 こんなことはしなくていい。

 お清がそれで死んでしまったら、弥介はどうなるのか。

 止めろと云いたくて口を開くと、息が詰まりそうになって、思わず肉の塊を飲み下してしまう。

 弥介は、何も考えずに眠ることが出来なくなって目を開けた。

 雨が止み、夜明けが近付いていた。

 雨が止み、夜明けが近付いていた。

 僕は窓辺に立って、ナイフで手の平を滅多矢鱈に切り付けた。

 何度も研いで薄くなった刃は、軽い力だけで皮膚の下に滑り込む。

 骨を露わにし腱を切り裂き、血だらけになった手を窓硝子に押し付け、そのままズルズルとなすり付けるように撫で下ろす。

 そこまですると僕は窓から手を離し、床にナイフを放り出して呟いた。

「こんなことをしても、何の意味もない」

 僕は手の平に、視線を落とす。

 血で赤く汚れているが、傷口は一つも見当たらない。

 僕は手を握り締め、椅子以外に家具のない部屋を見回した。

 床にも四方の壁にも、手の届く範囲全てに僕の血が塗り重ねられている。僕の部屋を見た男が、驚くのも仕方がない。

 僅かに生臭い匂いのする赤い部屋が、僕の全てだった。

 

 見知らぬ男女が、僕の世界を破壊してしまった。

 それともあんな奇妙な二人連れなど、初めから現れなかったのだろうか。

 僕は頭がおかしいのだ。

 痛みや傷も認識出来ていないだけで、僕の身体は治る暇さえない傷で一杯なのかも知れない。

 もちろん、自分の身体を傷付けた血で部屋を飾るのが、僕の頭の中だけの事実と言うこともある。

 僕には、区別が付けられない。

 

 夢か幻のように、あの二人は唐突に僕の世界に現れ、唐突に去ってしまった。

 おかしな話と、忘れられないような最後の光景だけを残して。

 何も起こらなければ、男もあんな突然に逃げ出したりしなかったに違いない。追っ手が来たと男を怯えさせた物音は、思った通り倒れた木の仕業だった。

 細かい年月に意味はないが、二十年は放って置かれた木が倒れて、玄関のポーチの柵を押し倒し、ドアに枝を押し付けていて、ドアは完全には開けられなかった。

 

 彼らもまた、ありもしない幻想に捉われていたのかも知れないが、男が手傷を負っていたのは事実だ。

 彼らの存在が確かなら、彼らが嵐の海に消えたのも確かになる。


 男の言う通り彼が不死で、女が人魚であれば、荒れた海に落ちても死ぬことはないだろう。

 そう信じていただけなら海に落ちて死んでいるだろうが、死体が見つかる可能性は元々低い。

 死体が出ないから生きていると言うのは短絡的で、彼らが人ではないことを証明するものではなかった。

 

 頭のおかしい男が海に落ち、それを追って女も自殺したと言うのが、一番現実味があるのかも知れないけれど。

 昨夜の出来事を、確かに思わせる物でもあれば良かったのだ。

 血の着いたタオルは、洗濯してしまった。包帯の残りや使用済みの脱脂綿や広げたソファベッドも、昨夜の出来事を裏打ちするほどのものではないだろう。

 血液検査をすれば、僕の血かそうでないかは分かるだろうが、現実的には不可能だ。それとも、不可能ではないのか。

 警察に電話をして、見知らぬ男女が崖から転落したことを言えばいいのだろう。

 例え僕の通報を真剣に受け止めて調べて何か分かっても、それは僕の本当に知りたいことではない。

 

 不死の男と人魚は、これからどうなるのだろう。

 男の、女に対する態度は冷たかったし、僕には憎んでいる言って憚からなかったが、今更ながら思い出す。

 男の目は、女を思う気遣いに溢れていたことを。

 明かりを付けた瞬間、女の腕の中にいた時の男の安心しきった様子は、僕に気付いた途端消えてしまった。

 それも含めて気が触れた僕の、作り上げた妄想なのかも知れない。

 不老不死なんて、僕の頭でも思い付ける。


 この家には鏡が一つもない。

 僕が自分の姿を見ないで済むように、鏡は割って捨てた。

 男も女も僕を子供だと思ったが、たぶん彼らより僕は年上だ。男が二百年生きているのが本当なら、見た目の年齢は当てにならないが。

 傷が残らず、老いていかないように見える僕も、人魚の肉でも食べていたのだろうか。

 誰かが僕に食べさせた、とか?

 

 本当にいるかどうかも分からないが、僕はあの男と人魚を探そうと思う。

 もし二人にもう一度会えたなら、その時こそ聞かなくてはいけない。僕も仲間なのかと。

 そんなことを聞けば、あの男はまた僕を罵るだろう。お前みたいなイカレと一緒にするなと。

 僕はそれを思うと、思わず笑ってしまう。

 罵倒され倒していたにも関わらず、僕は男の口振りを思い出して不快になるどころか笑っていた。

 それはつまり、男の態度が言うほど悪意に満ちていなかった証拠だろうか。

 

 あの人だからいい。優しい人なのだと。

 女はそんなふうに男を評していた。

 裏切りが怖くて、自分すら見失った男の側にいて何が楽しいのだろうと思ったが、男も心の底では知っているに違いない。

 だからあれほど無防備に、女の腕の中で安らぐことが出来たのだ。

 一緒にいても不幸しでしかないと思ったが、そうではないのかも知れない。

 どれだけ不幸に見えても、あれはあれで男にとっては幸福な状況なのだ。

 憎んでいると信じることで男は女に依存し、女が離れてしまうことを、何よりも本当は恐れていた。

 冷たくされること以上に、女はその方が辛いに違いない。

 女は男の側で、ただ寄り添っているしか出来ないのだ。

 

 死ねないのなら生きるしかない。

 生きるなら、物事のプラス面を見るべきではないか。

 頭のおかしい僕から言われていては、世話はない。

 僕あたりが言っても聞かないかも知れないが、指摘されなければ自分の本音にも気付かずじまいになるだろう。

 それを告げる為にも僕は、この赤い部屋を出て行こうと思う。

 

 本物かどうかも分からない《家族》にも、この別荘にも何の未練もない。

 僕が押し込められたのが、この土地だったことに因縁めいたものまで感じてしまう。

 あの《父》は、不老不死を齎す人魚の話を知っていたのだろうか。これも、答えを必要としない問いでしかない。


 塞がれた玄関扉は使えないので、テラスのドアから出て行く。

 もう必要がないので、ドアは閉めずに開け放したままにした。

 二ケ月もしなければ、僕の消えたことは分からない筈だ。

 その人は僕の秘密の部屋を見て、僕の頭のおかしさを再確認するに違いない。

 老いた《両親》は、僕がやっと死んだと思って、ホッとすることだろう。

 

 僕のことは、ある日フラリと崖まで歩いて行って、海に飛び込んだとでも思う筈だ。

 僕は町に行って、人魚の伝承の有無を確認し、話を拾い集めてみよう。そこから僕が思う、物語を作ってみるのもいい。

 

 雨の上がった早朝の空気の中に、僕は踏み出した。

 嘆きの人魚姫を探しに……。

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