現実はお伽噺に
男は僕のことも忘れた様子で一声、
「奴らが来た」と、叫ぶ。
男は女の手を掴むと、
「逃げるぞセイ」
と、言って、奥の部屋のドアに向かって駆け出した。
ポーチに出る扉があることまで、見ていたようだ。
雨と風と扉を揺する音に混じって、家の壁に何かが擦れる音がする。
僕は気付いて、男達の後を追った。
「木だよ。風で木が倒れたんだ。僕がここに来て二十年以上、庭木は一度も手入れされてないだから。それだよ」
パニックになっている男には、僕の声は届かなかったようだ。
ポーチに出るドアを開け放ち、嵐の夜の中に出て行ってしまう。
僕は濡れたポーチの屋根の下に立って、声を張り上げた。
「待って。まだ行かないで。大丈夫だよ。誰も来てないんだから」
男は、海に突き出した崖の方に向かっていた。
崖は僅かに、海の方に傾いている。
晴れた日なら、崖の際まで行っても、滑って海に落ちるような心配はないが、雨に濡れた草は危険だ。
そっちは危ないと僕が叫ぶより先に、男の身体が草に足を取られて滑った。
崖の縁まで二メートルはあった筈だが、男の身体はそのまま滑って崖下に消えた。
咄嗟に男は女の手を離したのか、女は無事、崖の上に立っていた。
女がヤスケさんと叫んだように思えたが、嵐が聞かせた幻聴かも知れない。
女は僕を振り返り、小さく頭を下げたように見えた。
そのまま女は崖までの残りの距離を走り抜け、空中に身を躍らせた。折しも強くなった雨に、女の身体は掻き消されたように見えなくなる。
人がいた痕跡すらも、残らない。
僕は、夢か幻を見たようにポーチに立ち尽くし、屋根を叩く雨の音を聞いていた。
*
一度降り始めた雨は、いつまでも止まなかった。
雨の中の、嫌な逃避行となった。
弥介は、お清を背負って駆けた。
雨は煙幕になると同時に、弥介の体力を奪う。必ずお清を海に帰すと弥介は誓ったのだ。
何があっても、その約束は果たすつもりだった。
夜になっても雨は降り続け、弥介も止まらなかった。
火事場の馬鹿力か。
お清を背負っていても、少しも疲れなかった。
雨と闇が味方をしてくれたのか、それほど熱心に探していなかったのか、運が良かったのか、弥介達は途中で捕まることはなかった。
もう少しで海まで辿り付けるところまで来て、弥介は追っ手は諦めたのだと思い込みそうになった。
村に近付くような真似はしなかったが、海岸沿いに篝り火が焚かれているのが見えた。
海辺はもう見張られていた。
沢山の人間を投入して、逃げ隠れしている弥介達を探させる代わりに、馬を走らせて待ち伏せしていたのだ。
弥介がお清を連れて必ず、海の側に来ることははっきりしていた。村人達も狩り出されていることだろう。
もうここまで来たのだ。何処からでもいい。お清さえ海に放り込めば済む。
武士なら手強いが、村の男達なら何とかなると思った。
弥介は、警備の手薄なところを狙った。
夜が明けたら見つかり易くなるので、急がなければならない。雨足も、弱まって来ていた。
篝がり火の間を、明かりが行き来している。
見張りの間を縫って通り抜けることは出来たが、最後の最後で呼び止められた。
「弥介、その化け物を渡せ。だから云っただろう。こんなことになるって」
弥介は、辰吉の名前を呟きながら、背後を振り返る。
そこにいた三人とは、弥介が子供の時分から親しくしている。
弥介はお清を守る為に、三人と向き合った。火の着いた薪を持った千造が、
「お前は、その化け物に誑されたんだ。オレ達が、化け物から助けてやる」
昔の仲間達を見回しながら、弥介は鼻で笑う。
「それでオイラを殺すように、得物を渡されたって訳か」
辰吉達は、槍や刀を持っていた。辰吉は、
「違う。これは化け物から身を守る為だ。何で、仲間のお前を殺さなきゃなんないんだ」
弥介は苦々しい思いで一杯になりながら、辰吉達を睨め付けた。
「藩主の奴は、オイラを殺せと云ったんだぞ。自分が力を一人占めする為に、オイラを殺させようとしたんだ。お前達に捕まえさせて、後でオイラを始末する気に違いねぇ。それとも、オイラの油断を誘って殺すつもりか。オイラを殺せば、金でもくれると云われたかもな」
千造が鼻を鳴らして、
「そんなことなら、とっくに人を呼んでらぁ」
弥介は冷めた思いで、
「自分達だけの手柄にした方がいいもんな」
勝五郎が抜き身の刀を握り締め、追い詰められたような声を出す。
「お前は昔は、そんなひねくれた奴じゃなかった。その女が来てから、みんなおかしくなったんだ」
弥介は、暗い怒りを胸に言い返す。
「それは違う。海に出られなくなった時に、オイラは駄目になったんだ。お前達の心はとっくに、オイラを墓の際に追いやってたのさ。役立たずとしてな」
辰吉達は慌てたような、狼狽した様子で否定する。
「そんなことはねぇ」
否定されることで余計に弥介は、仲間達の本音が分かったようだった。
弥介を蔑ろにしたと云う思いがあるからこそ、連中は全てをお清の所為にしてしまいたいのだ。
弥介はきっぱりと、
「オイラに生きる力を取り戻させてくれたのは、お前達じゃねぇ。お清だ」
弥介が腕っ節が強く、弁も立ち、仕事が出来るから、誰もが弥介に心易く接してくれたのだ。
お胤だと云う一風変わった噂や外見が、連中に弥介と親しくなりたいと思わせたのだ。
役立たずと認識された途端、連中は潮が引くように去って行った。
お清だって、弥介の外見に引かれただけかも知れない。容姿が衰えれば、お清も去るだろうが、それだけは見ずに済みそうだ。
辰吉が頭を下げて、謝る。
「オレらが悪かった。お前はいつでも、自分の生き方でやっていて、誰よりも強く見えたから、海に出られなくなっても、気侭に暮らしてるとばかり思ってた。オレらがもっとお前のことを考えてやってたら、お前はそんな化け物に付け入られることもなかったんだ」
お清は人間ではない。しかし化け物ではない。
嘘を吐いた藩主や、お清を食うと云ったその息子こそ化け物だろう。
人間と云う名の化け物だ。
弥介はお清を、背中に揺すり上げ、
「オイラ達に構うな。お清は海に戻る。オイラは村を出る。黙ってここを、通すだけでいい」
そのまま歩き出そうとするが、辰吉達に前に回られた。
「駄目だ。その化け物には金が出る。村全体の船をくれるって云ってるんだ」
三人とも、後には引かない必死な顔付きをしている。
船があれば、暮らし向きは良くなる。その為なら、何でもすると云いたげだ。
弥介はおかしくて、声に出して笑う。
そのまま弥介の云ったことじゃないか。次は何と云って、約束を破るつもりか。
弥介はそれは嘘だと吐き捨てて、三人に構わず進もうとする。勝五郎が刀を構えて、弥介の前に飛び出してくる。
「弥介を押さえろ」
辰吉と千造が、弥介目がけて襲い掛かって来る。弥介は勝五郎の方に走った。
勝五郎が来るなと叫びながら、刀を振り回す。身体を打たれた感触があった。それ以外、弥介には何が起きたのか分からない。
弥介の足から力が抜けた。
お清が弥介の背からズリ落ちる。
弥介は自分の身体を見下ろした。胸から脇腹に掛けて肉が裂け、血が溢れ出していた。
顔を上げると、勝五郎は目を見開いて、その場にへたり込んでいる。
「そんなつもりじゃなかったんだ」
勝五郎は刀も放り出し、弥介の身体の傷を見つめながら、震えて云った。
自分は死ぬと分かった。
弥介は手探りで刀を掴むと、勝五郎に斬り付けた。眉間が割れて、勝五郎はギャッと叫ぶと横倒しに倒れた。
弥介は立ち上がって、辰吉の胸にも斬り付ける。千造が、鬼だと一声云って、背を向けて逃げ出そうとした。
千造は人を呼ぼうとしたが、その前に弥介は追ってその背にも斬り付けた。斬ったと云うより、棒で殴ったような感触しかしなかったが、千造は起き上がらなかった。
血油や歯零れで、全員致命傷になったとは思えないが、みんな殺してしまったのかも知れない。
弥介は片手に刀を、片手でお清を抱え上げ、そのまま走り出す。
今の騒ぎが、聞き付けられなかったとも限らない。
弥介は波の音だけを目指して、ひたすら前に進んだ。
不意に足を草に取られて、態勢が崩れる。
咄嗟にお清を離した後、弥介は一瞬の浮遊感と、何かに叩き付けられる猛烈な痛みを感じ、訳が分からなくなった。
次に気付いたのは、自分の名を呼ぶお清の声と、顔を濡らす冷たい滴の所為だった。
目を開けると、自分を覗き込んでいるお清の顔が、薄ぼんやりと見えた。
身体を動かそうとした途端、全身に痛みが貫く。弥介は何があったのかと、お清に聞く。
お清は、泣きそうな顔をして、弥介のザラ着く頬を撫でながら、
「崖から岩礁に落ちたんです」
弥介の顔を濡らすのは、泡立つ海水らしい。
弥介の周囲で、波が逆巻いているのが感じられるが、恐怖はなかった。
弥介は「海か」と、呟く。その後で、お清に向かって云う。
「着いたな。お前を帰してやるって、約束しただろう。オイラのことはいいから、もう行け」
お清は窶れた顔付きながら必死で、
「嫌です。弥介さんから離れません」
「馬鹿云うな」
弥介は、叱る。
何の為に、ここまで来たのか。古い馴染みの命まで奪って。
お清は、弥介の身体に縋り着く。
「死なないで。私がいなければ良かった」