お伽噺は現在に
「嵐に遭って小浜に着いたとたん産気づいて、手近の小屋に駆け込んだらしいって。その小屋の持ち主は、次郎とお加代と云う若い夫婦者だった。まだ子供はいなかった」
作兵衛の妻の名前がお加代だと云うことは、弥介は知っている。改名する前の作兵衛の名前は知らないが、昔を知る吉爺はじろやんと呼んでいた。
おおかた、二郎か次郎吉当りだろう。
弥介は皮肉な意味も込めて、
「金はたんまり持たされてたんだろうな」と、聞く。
老女は、
「ああ」と、答えた。
弥介は更に意地悪な声で、
「旦那様や奥様って人は、その子供を引き取ろうとは思わなかった訳だ」
そんな子供がいたって、知ったことじゃないだろうが。
老女は弥介の言葉付きに気付いたのか、ふっつりと黙り込む。
老女の顔を見ると、堅い表情をしていた。
弥介は機嫌でも損ねたかと、おいと声を掛ける。老女は堅い顔と声で、
「引き取るって云うと思ったから、あたしは子供も死んだって報告したんだ」
弥介は想像とは違う返事に、無言を返す。老女は弥介の怒りを恐れるように、弥介に縋るようにした。
「許しとくれ。あんたの為だと思ったんだよ。次郎と云う男は、あるだけの金で船が買えると云った。養子にすれば、藩主より贅沢な暮らしをさせてやれる。死ぬ心配もないって云うから」
弥介はひたすら、沈黙を続けるのみだ。お清がオズオズと、口を挟んでくる。
「このお婆さんに、芝田さんと会って貰ったらどうですか。そうしたらきっと本当のことが」
弥介は冷たく云い放つ。
「いまさら本当のことが分かったって、どうにもならない」
弥介は更に、老女に向かっても厳しく云った。
「オイラへの罪滅ぼしだけで、オイラ達を助けてる訳じゃないだろう。何が望みだ。さっさと云っちまえ」
弥介を宥めるかのように、お清が弥介の手を掴む。
弥介はその手を振り払うことはなかったが、安心させるように掴んでやることもしなかった。
老女は、観念したように話し出す。
「うちの孫を、助けてやって下さい。藤一郎坊ちゃんに、病を移されたのに、うちの孫が移したって云われて、町の外に追い出されてしまったんです。あんな奴の息子でも治してやったんなら、うちの孫も是非。親は死んで、あたしだけが身寄りなんです」
弥介はそれ見たことかとばかりに、喉を鳴らして笑う。
お清は自ら力なく、弥介の手を離した。
老女は狡猾さを目に滲ませて、
「町の出入口は見張られているけど、あたしなら見つからずに外に出してやれるよ」
弥介は笑顔のまま、離れたお清の手を掴み取り引きだと云ってやる。
「町の外に誰にも見つからずに、オイラ達を出せ」
老女は、代わりに孫を助けて貰えると思ったようだが、弥介にはそんなつもりはなかった。
老女の孫は、藩主の息子の遊び相手の一人らしい。
大人顔負けの少年にも遊び相手が必要なのかと、そちらが不思議に思えるが、自ら外に出ない代わりに、子供達に城下町の様子や山や川のことを調べさせる手足としているようだ。それなら理解出来る。
孫は、唯一の肉親である祖母に、自分の発見をいろいろ語っていたようだ。
堂の裏の小屋と云うのも、孫に聞いたものだったらしい。
見張りの目を盗んで弥介達を外に出せると云う老女の言葉も、信頼出来そうだ。
じっさい林伝いに歩く間、誰かに見咎められることはなかった。しかし老女が連れて行こうとしているのは、ただの町の外ではない。
町の外にある、孫が隔離されている小屋だ。
弥介がどうやって老女を振り切って逃げようかと思っていた時、小屋の表からブラリと人影が現れた。
弥介は咄嗟にお清の肩を押し下げて茂みの裏に隠し、自分は木を背にする。弥介の心臓は、早鐘のように鳴っていた。
相手は弥介達に気付かなかったのか、
「役目を解かれたぐらいでは、効かぬようだな。今度勤め中に抜け出せば、放り出すと云ってあるだろう。人捜しで忙しい時に、隙を突いて抜け出てくるとは」
と、不満げに云った。
どうやら、老女に向かって云ったものらしい。
ただの賄いや、洗濯女ではないのは分かっていた。
そうであれば、藩主の息子の遊び相手に迎えられることもなかっただろう。
孫も疫病に罹かり、息子に移した張本人として、老女まで地位を格下げされたのだろう。
相手は老女を見張っていたのか。弥介達を探していて、たまたま見つけたのか。
一瞬は弥介達を見逃したらしいが、そのままで済む筈はなかった。
武士らしい男は、そこにいるのは誰だと厳しい声を出してくる。
男は云うなり駆けて来て、弥介達を見つけた。男はすぐに状況を見てとった。
「若しやその連中。お主、そいつらを逃すつもりか」
男は腰の刀に手を掛けながら、
「誰か。見つけたぞ。二人連れだ」
と、声を張り上げる。
老女が男と弥介達の間に入るようにしながら、
「待ってくれ。せめてうちの孫を」
男の目は、弥介しか見ていない。
男は、抜いた刀を弥介の方に突き出してくる。
弥介は、何かを考えていた訳ではなかった。
弥介は思わず老女の身体を男の方に押しやった。
手に持っている物があれば、男に投げ付けるぐらいしただろう。それと同じでしかなかった。
刀の切っ先に、老女が倒れ込む形になったのは、だから偶然でしかない。
老女が呻き声を上げ、男は面倒臭そうにちっと舌打ちする。
老女の背中から、赤い血に薄く被われた鋼の刃が突き出す。男は、老女の身体から刃を外そうとしてモタ着いた。
「邪魔をするな。余計な手間を取らせおって」
男の声には、人を傷付けたと云う恐れなど微塵もない。
邪魔をされたことに対する苛立ちがあるだけだ。
弥介はお清の手を引っ張り上げて、抱えるようにして走り出す。
刀が自由になれば、次に斬られるのは弥介だ。
男は、大声で人を呼ぶ。人が来るのを待っている訳にも、捕まる訳にもいかない。
弥介の頬にポツリと冷たい物が落ちる。
ついに雨が降り始めたようだ。
サアーッと辺りは雨に煙る。
弥介の視界の端に、チラリと小屋が見えた。
祖母が戻らなければ、看病をする者もない筈だ。
祖母の死を伝える者は、いるのだろうか。弥介は食い縛った口元で、ずっと呟いていた。
仕方がなかった。仕方がなかったのだ。
顔を濡らす雨は、涙のようにも感じられたが、何に対する涙なのかは分からなかった。
*お伽噺/現在
僕は、男の言った人魚に就いてずっと考えていた。
利用されてもなお、男への愛を貫いているのか、暗い復讐に喜びを得ているのか。
ただでさえ人の気持ちが分からない僕には、どちらも度し難い感情だ。
女がいつまでも風呂から出て来ないことに、男は苛立っていたが、風呂場まで行って女の様子を見ることはなかったし、声を掛けたりもしなかった。
僕が言った、人魚なら水に浸かっているだけで気持ちいいのかもと言う言葉が効いたのか、動けるぐらいの体力がなかったのか。
それとも、それほど気にしていなかったのか、僕の前で不安は見せたくなかっただけかも知れない。
何にしろ、洗濯が終わるまでは出て行けないことは、男も承知しているようだ。不満ではあるのだろうが。
それを言えば、男は不平不満しかないだろう。僕の興味の対象にはほど遠い。
男が不老不死で、二百年も生きているなら、様々なことも知っている筈だ。しかし、歴史に疎い僕が聞いても分からない。歴
史的事実も作り話も、僕には区別が着かないのだから。男に聞くべきことは僕にはなかった。
人魚の肉を食べて不老不死となった男は、海で暮らしていると言うが、人魚と同じで水の中でも息が出来るようになったのか。
そもそも人魚がどんなふうに海で生きているのかと言うこともあるが、僕には全てどうでもいいことだ。
聞けば、話して聞かせてくれたかも知れないが、本当かどうか確認する術もない。
いや、一つだけあったか。
ナイフで男の心臓を、一突きしてみればいいだけだ。
それで男が死んでも構わないが、死体の始末の為には外に出なくてはならない。
嵐が去る前に海に沈めた方がいいだろうが、そんな中外に出て行くなんてごめんだった。
女の存在をどうするかと言うのもあるので、気軽に確認する訳にもいかない。
男の話を、信じるも何もない。
ただ、そんな状況にあった人魚の内面に興味があるだけだ。
男が、誇大妄想狂でも構わない。
僕も単に、状況の判断が出来ない脳疾患かも知れないのだから。
男は僕との会話が嫌なのか、また眠ってしまった。実際には、傷の所為で意識が朦朧としてきたのかも知れない。
僕は一度、女に貸すシャツを用意するのに、脱衣所に入っている。
その時はまだ女は、湯か水かを使っていた。
僕は男に気付かれないように、バスルームに掛けてあった扉の鍵を開けて中に入る。 女は途中で助けを求めることもなく、水音が絶えた後は静まり返っていた。
洗濯も乾燥も済んだと言う洗濯機の電子音が、微かに聞こえただけだ。
それから、随分時間が経っているのかも知れない。
僕が脱衣所に入った時、風呂場のガラス戸は開けて、女は風呂桶の縁に座っていた。
女は、僕が出したシャツを着ている。短いシャツは、女の腰回りを辛うじて隠す程度だ。
僕はほんの一瞬で、剥き出しの女の太股に、生々しいケロイドがあることを見て取っていた。