お増にお冴にお清に
刀を持った武士達が出揃うのを待つつもりはない。さっさと外に出て、村まで帰る手段を見つけなければいけない。
庭は、中庭のように区切られていずに、屋敷の周囲を巡っていた。屋敷の中で慌ただしい動きがし、後ろから追って来る気配がする。
弥介は茂みの間を走りながら、外に出られる戸がないか必死で探す。
お清が小さく、弥介の名を呼んだ。
「苦しいか。少し辛抱してくれ。隠れられる所があったら、そこで休ませてやるから。済まねぇ。オイラが浅はかな所為で、お前をこんなことに巻き込んじまった」
お清は小さく、いいえと呟いた。
弥介は走り回っている内に、屋敷の裏に紛れ込んでしまったようだ。庫裏や洗濯場などがあった。
そこも少しザワついていたようだが、使用人達は何が起きているのかいまいち良く分かっていないようだった。
仕事の手を止めて、三人四人と固まってコソコソと噂話をしている。
近くに裏口があるに違いない。追っ手が到着する前なら、隙を突いて逃げられそうだ。
弥介とお清は茂みの後ろや、小屋の陰に隠れて、少しずつ急いで進む。
刀を持った男達が騒がしく登場すると、使用人達も蜂の巣を突ついたように騒がしくなる。
塀際の茂みの側で踞った。
目の端で何か動くものがあり、弥介達に向けたものと思われる囁き声が聞こえてきた。
「こっちだよ。ここから出られる」
老女が、慌てた様子で弥介達に手招きしていた。
弥介は、チラリと追っ手の方に目をやる。
今を逃せば機会はない。迷っている暇はなかった。
弥介はお清を抱えるようにして、老女の元に駆け寄る。
なぜ助けてくれるのか。信じていいのか聞く時間もない。
老女は潜り戸に押し込むように、お清、そして弥介の順に入れる。
弥介は肩がつかえそうになったので、斜めにして何とか外に出る。老女は戸を閉めるが、僅かに開いた隙間から素早く話し掛けてきた。
「そこを左右の道じゃなく真っ直茂みの中を行くとお堂があって、更にその裏に小さな小屋がある。そこなら誰にも見つからないから、騒ぎが終わるまでそこで隠れて待ってるんだよ。静かになったら、あたしが町の外に出る道を教えて上げるから」
そこまで云うと、戸は完全に締まり切る。
屋敷の裏の通りらしく、人影はなかったが、弥介はお清を手伝って、足早に老女の示した方向に向かった。
老女が何者で、なぜ助けてくれるのか、信じていいのかも分からないが、お清を休ませてやる必要がある。
小屋があるなら好都合だ。
疎らな木々の間を進むと、老女の云った通り、小さなお堂のある道に出た。
通りに人の姿がないのを確認してから、道を渡って堂の前に出る。一瞬、堂の中に隠れようかと思うが、指示通り裏に回って見た。
老女の云う通り、小さな掘っ立て小屋がある。
屋根は、片側にずり落ちている。中に入ると、開いている部分から木の間隠れの空が見えた。
空は雲に覆われていた。後で雨になりそうだ。
雨の中逃げるのも大変だが、追っ手を撒くには雨の方が簡単かも知れない。
小屋は、子供が遊び場に使っているのだろうか。
床板は腐って地面が覗くが、辛うじて残っている床の上に、独楽と石が置いてあった。
弥介はしゃがみ込むと、お清を膝の上に座らせた。弥介はお清の黒く長い髪を撫でながら、低い声で囁き掛ける。
「何があっても、オイラが海まで帰してやるから」
お清も小さな声で、弥介に返す。
「弥介さんが殺されるようなことがあったら、私も死にます」
弥介は僅かに声を荒げて、
「馬鹿云うな。お前だけでも逃げるんだ」
お清は強く首を振りながら、
「捕まるぐらいなら、死んだ方がマシです。死ねば、人ではない私の身体はすぐに腐る。あのような人達に不老不死の力など与えるのは、罪です」
弥介は、お清をしっかり抱き締めながら、振り絞るように云った。
「お前を捕まえさせたりはしない」
弥介の中で、澳火のように眠っていた暗い怒りが、目覚め始める。怒りの為に、身体がフツフツと煮えたぎりそうだ。
弥介は憎悪を燃え立たせていたが、人の声と草履が擦る音に、怒りを忘れた。
人声は忙しく呼び交わしながら、近付いて来る。
弥介は怒りよりも恐怖で身を竦ませ、お清をしっかり抱き締めた。
男達は、堂の中も改めている。
見つかるのも時間の問題かと、弥介はきつく歯を食い縛る。
刀を抜かれればお仕舞いだが、根棒でもあって不意打ちが掛けられれば、数人の武士が相手でも倒せる自信はあった。
堂の中にはもちろん何も見つからず、男達は次を探しに向かおうとしている。
「相手は足弱の女を抱えている。急いで探せば、遠くまでは逃げられぬ」
連中は裏を回って来ることもなく、そのまま駆け去って行った。暫く弥介は何も云わずに、お清を抱いてその髪の毛に顔を埋めていた。
お清の髪からは潮の香りがして、ほんのり濡れているように感じられた。
出掛ける前まで海に入っていたと云っても、とっくに乾いているだろう。
お清の髪から、潮水が滲んできているようだ。
弥介はぼんやりと呟く。
「なぜオイラは人間で、お前は人魚だったんだろうな」
「済みません」
お清が小声で謝ってくる。
幾ら目を逸らしても、事実は消えてなくなりはしない。
弥介にだって分かっていた。お清が人ではないことは。
それでも、人ではないと云うことが、それほど問題なのだろうか。
嘘を吐き、将軍家に取って変わることを思う藩主も人間なら、その息子も人間なのだ。
呪いに怯え、弥介の母殺しの噂まである芝田の夫婦も、村のお荷物として墓の際で生き、死んで行った吉爺も。
弥介は小さく独り言ちる。
「オイラも人魚なら良かった」
武士達は、弥介達を見つけることはなかった。
何度か忙しく行き来する足音がしたが、やがてそれも途絶えた。
静かになったようだと思った時、また一人近付いて来る者があった。急ぎ足だが、若者よりはゆっくりした進み方だった。
足音の主は、堂を回り込んで来て、斜めになったまま閉じない戸の間から、顔を覗かせる。
どうした理由からか、弥介達を助けてくれた老女だった。老女は、懐から鞋を取り出して差し入れながら、
「履物がいるだろうと思って、持って来たよ。人に見つからないよう、注意しながら進まないといけないから時間が掛かる。さっさと出発しないと」
弥介はいい加減人を信じるのも嫌になってきていたので、老女に聞かずにはいられなかった。
「何でオイラ達に構う」
老女は迷いもなく、
「そりゃあ、あんたがお冴と旦那様の子だからだよ」
弥介は苛立ちを感じながら、
「その旦那様ってのは、前の藩主って訳か?」と、吐き捨てる。
老女は、弥介の苛立ちに気付かぬように、立派な方だったと感慨深い声を出す。
その後で老女は憎々しげに、
「今の藩主なんぞ、藩主でなんかあるもんか」
弥介は苦々しい思いで、云ってやる。
「そいつはオイラの母親は、お増だとか云ってたが」
老女はフンと鼻を鳴らすと、話し出した。
「あの男が知ってる訳がない。旦那様は毒殺されたんだ。あいつが旦那様を殺して、藩主の地位を奪い取ったんだ。奥様は運か不運か子供を生めない身体だったが、子供が出来たら子供の命も危ないと、旦那様は思ってらした。お冴が身ごもったと分かった時、身を隠して生むようにと、お屋敷からお出しになったんだ。あいつもあんたの顔を見たら驚いた筈さ。旦那様に生き写しなんだもの」
弥介は耳を押さえるようにして、
「もう騙されるのはうんざりだ」
老女は、弥介を労わるような目と声で云う。
「奥様は実家で御存命だから、奥様も一目見れば旦那様の子だとお認めになるよ。お冴が子供を生むと知って、奥様は本当に喜ばれたもの。旦那様のお子を生んで差し上げられないのを、奥様は悲しんでらしたからね。実家に来て生むようにまで勧めてらしたけれど、それだとどこからか漏れる心配があったから、あたしが小浜はどうかと云ったんだ。小浜は豊かな村だと聞いてたから、そこなら食い扶持一人増えたぐらいでも問題ないと思ってね」
お清に利用価値があると分かれば、誰だって偽の証明ぐらいするだろう。
小浜の名前だって、藩主が何処に出掛けたか知っていれば、口にするのは難しくない。
弥介はその話は聞きたくないとばかりに、お清を立たせて自分も立ち上がった。
「時間が掛かるんで早く出た方がいいんだろう。さっさと町の外まで案内してくれ」
老女が弥介を利用しようとしているなら、弥介も利用するまでだ。
町の外まで安全に案内出来るなら、願ってもない。
弥介は鞋を履いて、小屋の外に出る。
老女はまだ何か云いたそうだったが、時間が差し迫っているのは確かな為か、黙って周囲を窺いに行った。
確かに、町に詳しい老女が一緒だと云うのは好都合だった。
弥介達を探す手も、だんだん探す範囲を広げていたが、老女が天水桶裏や人家の裏口の中、縁の下などに隠してくれた為、やり過ごすことが出来た。
老女は、下町に向かっていた。人に紛れれば安心だと思ったのか、老女にも余裕が出て来て、弥介に話し掛けてくる。
「小浜までお冴の様子を見に行かされたのは、あたしだよ。そこで亡くなったってことは、聞かされた。お冴は村では、お清って呼ばれてた」