村を出る
帰って来たお清に、弥介は早速藩主の話を聞かせる。
二度とするなと云って手まで上げた手前、虫が良過ぎるかと思ったが、お清は構わないと云った。
しかし幾度かに分けてと云う案は、お清に退けられた。
傷が浅いと血が出ないまま傷が塞がってしまうかららしい。
短期間で何度も、または一度に数人を癒そうとすれば、お清の命も危なくなるが、そうでないなら平気だと云う。
お清に苦しい思いをさせずには、済まないようだ。
それを思うと弥介は、無理を云えなくなる。
しかしお清は、弥介の家族を助ける為にやりたいと自ら云った。
弥介は、まだ本当の家族かは分からないと言い直す。芝田を問い詰めても、分からないかも知れないが。
お清はあるかなきかの笑みを浮かべ、
「分かるまで病人は、待ってくれないかも知れませんから。弥介さんの両親が、誰かはっきりするといいですね」
弥介は自分を戒める意味でも、
「そんなにうまい話はないだろうけどな」
お清はその返答の代わりに、
「お礼を下さると云うのに、何も貰わなくていいんですか? 村の為にと云うのは、何よりも素晴らしいことだと思いますけど」と、聞く。
弥介が何かする訳ではないのだから、礼にお清の望むものをと云えば良かったのだ。
弥介は気の利かないどころか、己のことしか考えていないことに気付き、恥ずかしさに顔が赤くなった。弥介は今更ながら、
「勿論、お前の欲しい物があるなら、それを貰う」
お清は、弥介さんに必要な物以外欲しくありませんと云った後、僅かに目を伏せて、
「家や仕事があれば、私がいなくても困らなくなります」
弥介に弓や剣の才能があるなら、船に乗らなくても働くことは出来る。しかし剣や弓を持つのも、鍬に持ち替えるのと同じぐらい難しそうだ。弥介は首を振って、
「本当にオイラが血の繋がりがあっても、武士になぞなれねぇさ。お前がいないと、酒ばかり呑んで、それだけで身を持ち崩しちまうだろう。ただ、一つだけ貰ってもいいかも知れないと思う物はあるんだ」
藩主と別れた後、一人で良く考えた。その結果。
「舟が欲しい。オイラのじゃなく、村全体の舟が。獲れた物を売った金は、乗り手に平等に分けて、舟の修理も全員の金でする。多分それが、一番自然な形だと思う。きっと藩主様も金を出してくれるだろう」
お清は、弥介の決定を称えるように、ソッと弥介の手を取った。
弥介もお清に、微笑み掛ける。
病人全ては助けられなかったのは確かだが、それでも村への罪滅ぼしにはなるだろう。
弥介は、お清がいれば二人だけで生きていける。だからと云って、村人達などどうでもいいとは思わない。
弥介には何も出来ないし、自分の代わりにお清にさせるのも心苦しいが、お清の力を借りて、村人達にも運が向けばいいと思う。
弥介は承諾の旨を伝えに行き、お清はもう一度海に浸りに行った。
一日二日なら、海から離れても平気だと思うとお清は云うが、実際に遠出するのは初めてなので不安らしい。
弥介も心配になる。
何を於ても、一日でお清を海まで戻してやらなければいけないし、二度お清にこんな真似をさせるつもりはなかった。
出掛けたままお清が、戻って来なかったらどうしようかとも思ったが、お清は暗い内に戻って来た。
弥介だけでなくお清も、片岡が出してきた古着に着替える暇があった。
藩主が、新しい着物を買う暇はないので、弥介達に何か服を用立ててく欲しいと頼んでくれたのだ。
明け方と云われていたが、漁師の弥介達の基準より、出立の時間は遅かった。
船主など日が上るまで起きてこないと云うので、平民とは時間の配分が違うのだろう。
二人の男に二頭の馬が家の前まで引かれて来た時、まだ日は上っていないが、物の判別が付くほどの明るさだった。
馬を引いている侍は、弥介達を拾って村の外で藩主一行と合流することを、それとなく伝えた。
男達は漁に出た後で、女達は水汲みなど一日の作業を始めている。
弥介とお清が馬に乗せられるのは、人目に付いた。こんな時間になるなら、村の外の街道ででも弥介達を拾って貰えば良かったと思う。
女達の言葉付きからして、片岡の屋敷に城の人間が来ていることまでは、噂になっていたようだ。流石に、藩主自らが来ていることまでは知らない。
馬には別れて乗らなければならなかったので、お清のことは念入りに頼んだ。
弥介が馬を操れれば、お清を前に乗せて、しっかり抱いていてやれるが、弥介も振り落とされないよう、侍の腰にしがみ付いていなければならない。
侍達は、藩主に何を云われたのか、口数は少ないが、弥介達に丁寧な態度を取った。 馬に乗る時の注意点を聞きながら、弥介は馬の尻の方に座った。
馬に慣れない者を乗せるなら、後ろより前の方が落ちずに済むと云うが、弥介は身体が大きいので鞍の前に座ったら、視界を塞ぐことになる。
せいぜい落馬しないよう祈るのみだ。
女達は何処に行くと、弥介達自身に問い質してはこなかった。
城で病人が出たことも、昨日の内に町から戻って来た荷役から聞かされているので、弥介達が出掛ける訳を推測するのも訳はない。
出発の用意が整った時、女の一人から声が上がった。
「貧乏人の仲間の為には出来なくても、金の為ならする訳だ」
義理の母親を疫病で亡くした次郎松の女房は、憎々しげな言い方をした。
生きている間は、女房より母親を大事にすると愚痴ってばかりだったが、義理の母親の死に少しは悲しんでいるのだろうか。
弥介は、恨みに思って拗ねる代わりに、ぶっきら棒に言い返した。
「そうだ。村全体の舟を買う為だ」
弥介の言葉に、女達は静まり返る。
弥介を乗せた馬は軽い並み足で駆け始め、弥介の言葉の意味を理解した女達が話し始める声を、あっと云う間に引き離した。
*
生まれて初めての馬の乗り心地は、最悪だった。
運良く一度も振り落とされることはなかったが、最後に馬から降りた時には足が立たず、無様に地面に転がる羽目になった。
侍達が慌てて駆け寄って来て抱き起こしてくれるが、弥介はまともに立てなかった。 弥介がこれほどなら、お清は息も絶え絶えかと思ったが、お清は不自由な足で転がるように弥介に駆けて来る。
お清は馬の背での強行軍も、それほど苦痛ではなかったようだ。
馬の首と男の胸に挟まれていたので、落ちる心配だけはなかったのだろう。
反して尻の方に座った弥介は、身体を低くした侍の腰に腕を回すのに身体を倒すのと、覆い被さって相手の動きを制限しなよう気を付けていて、全身が変なふうに強張っている。
尻も太股も痛くて、弥介は改めて己は武士にはなれっこないと感じた。
弥介達より先に知らせが出され、城では藩主達の到着の用意が整えられていた。
お清が倒れた時の為に部屋に布団が用意されていたが、暫く横になったのは弥介の方だった。
一刻もすると調子は戻り、昼食を勧められたが、腹拵えをする気には流石になれなかった。
帰りも、馬の背で揺さぶられなければいけないのだ。食事なんかしたら、吐いてしまうだろう。
お清だけ先に送り帰して貰って、弥介は歩きで帰りたいぐらいだ。
弥介は食事の代わりに、菓子と茶だけ貰った。お清も菓子の方が珍しいからと、そちらを所望した。
海から離れてまで、新鮮さには及ばない焼き魚など食べても仕方がない。
藩主の食事が、船主ほど贅沢でも口にする気にはなれないし、今は酒も欲しくなかった。
口寂しさを紛らわせる為に口にした菓子だが、以前に女にくれてやった時に一緒に摘んだ饅頭より、ずっと旨かった。
瓜だの芋だの餡だのの甘さと、砂糖の持つ甘さは全く違う。
かと云って、瓜や芋が不味い訳ではない。瓜や芋は砂糖菓子とはまた別に、食べたくなるだろう。
お清も菓子が気に入ったようだ。