事実は奈辺に
藩主はすぐに気を利かせて、それよりと云って話を変えた。
「嵐で舟が沈んで、そちだけ助かったと云うのは本当か?」
それには弥介は、はぁと答えた。藩主は笑顔を見せて、労う。
「その時死んでいたら、そちのことも知らぬままになった。良く生きて戻ったな」
弥介は、自分だけ生きて戻ったことを喜べなかったので、どっちつかずに頭を下げた。弥介は気詰まりを解消するのに、
「息子は幾つなんで?」
と、聞いて、余計に悪い話題だったかと思う。
藩主は顔を曇らせることなく、我が子を誇らしく思う親の顔で云った。
「やっと十三になった。親馬鹿ながら、ほんに賢い子でな。そちのような兄が出来れば、喜ぶだろう。もう少し身体を鍛えさせるのに、遠乗りや狩りに行く時、そちが着いてくれれば安心だ。この村に寮を作って暫く暮らせば、海が息子にも良い影響を与えてくれるかも知れぬ」
藩主は、今現在息子の病状が思わしくないことを思い出し、後は神仏を頼るしかないと呟く。
弥介は手を畳に着いて頭を下げたまま、強く云った。
「もしオイラが、前藩主様の子だと云うなら、義理の叔父と云うより兄も同じ、オイラで出来ることなら、何だってして差し上げたい。お清の血を呑めば、病は癒えると云うが、本当かどうか分からないんです。血を抜いた所為で、自分の方が死にそうになるし。オイラにとってはお清は家族なんです。お清を失うことも出来ない」
藩主は気にするなと云うように、弥介の肩を叩く。そうして聞いた。
「お清と云うのが、その女の名前か?」
弥介は鈍い口で、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。
「名がないと云うので、母親の名前の読み方を、変えて付けたんです。オイラは、母の名前はおキヨだって教えられてたから。その名も本名かどうか、分からないんだが。でもその頃、村で呼ばれてた名前は、おセイだったらしい。オイラの母親が死んだのを幸い、金を奪って船主に収まったとか、良くない噂があったんで、名前を隠そうとしたんでしょう。それをオイラが元に戻して、身許の知れない女に付けたものだから、祟りだとか呪いだとか村の奴が言い出して」
頭がうまく回らず、何からどう云えばいいのかも分からない。弥介の分かりにくい言葉に、藩主は明確な言葉で返した。
「お女中の名前はお増だ。大人しいが芯は気丈だった。祟りだの呪いだの成すような女人ではない。そのように云うなど、失礼極まりない」
これだから無知な者はと云う口振りだが、弥介は不愉快ではなかった。弥介は目を伏せて、凉れた声を出す。
「別の噂では、死んだのではなく、殺されたのだと」
藩主はそれを聞くと、難しい顔をして暫く黙っていた。滅多な言い方をするなと叱られるかと思ったが、口を開いた藩主はこう云った。
「慎重な吟味が必要だな。例え無念な亡くなり方をしても、やはり祟ったり呪うようなことはないだろう。そちを守っていると云うなら、如何にもありそうだ。嵐で生き延びたのも、母の加護かも知れぬ」
弥介は思わず、お清のお陰だと云い掛けた。
死んだ母が弥介を助ける為に、お清を遣わしてくれたのだとは流石に考えにくい。
お清のお陰だと云うことは動かし難い事実だが、お清は人魚で、弥介を思うが故に助けてくれたと云うのも考えたくない。
俯いてしまった弥介に何も云わず、藩主はただ弥介の肩を叩いた。そして、
「金で買える物ならば、千両出しても惜しくない。しかし、人の命が掛かっているとなれば別だ。何よりも、そちの家族なのだから。私達にとっても家族も同じだ」
弥介は顔を上げて、藩主を見る。
藩主が弥介の肩を優しく撫でるが、それを妙な感じだとはもう思わなかった。藩主は弥介を労わりながら、
「ただ。生きている間に一目そちに会わせるのに、私と共に来て欲しい。そちが兄になって、これからする楽しい計画を話せば、生きる力も湧いてくるかも知れぬ」
と、云い、来てくれるなと重ねて云う。
弥介は頷きながらも、待って下さいと云っていた。弥介は激しく葛藤しながら、
「小さい傷で少しずつ呑ませれば、お清の負担は軽くなるかも知れない。治るのに時間は掛かるかも知れないが。それならお清にも出来るかも。本当に助かるかは、何とも云えないが」
弥介は、ほんの少しお清の血を分けただけで、死んだ病人達も、死を食い止め、看病や栄養によって助かったかも知れないと思うと、いたたまれない気分になった。
海に出られなくなった弥介への村人の仕打ちや、最初の頃の他所者のお清への風当りへの恨みはあるが、だからと云って病死すればいいとまでは思わない。
お清が食べていた物に薬効があり、血にも薬の成分が染み出していたのだと云って、血を何かに混ぜて、それが病に聞く食材だなどと云えば良かったのだ。
そうすれば、お清がおかしな目で見られることもなかったのだ。
弥介は、己の頭の悪さに嫌になる。
十人の内の何人かは、僅かの手助けだけで助かったかも知れないのだ。
みすみす死なせたかと思うと、後味も悪い。
お清を苦しめてまで助ける必要はないが、お清に出来る範囲での助けまで拒むつもりはない。
藩主は、弥介の両手を強く握り締めると、必死な顔で云った。
「治るなら、時間ぐらい掛かっても構わぬ。そちらのいいような方法で、試してみるだけでしてくれぬか。手を貸してくれると云うなら、今ここで前金として百両渡す。良くなるごとに百両渡し、最終的には千両払おう。それで足りるだろうか」
弥介はとんでもないと思って、頭を横に振りながら、掴まれていた手を引く。
今度は避けただけではなく、藩主の手を落ち着くようにと、上から押さえてやった。
「百両だって、多過ぎます。お清の為には、少しはマシな着物も買ってやりたいんで幾らかは欲しい。それからオイラのことですが、家も勤めもいりません。海辺でお清と暮らせればそれでいいから」
大金を手に入れる夢だって見たことはあるが、お清と暮らすようになって、慎ましい生活も幸せだと思えるようになった。
人には分相応な生活がある。
弥介のようにまともに働けない者が大金を手にしては、金の使い道がない。船主どものように、益体もないものに金を捨てるだけだろう。
毎日生活する分は、日々の中で得ることが出来る。
お清に着物を買ってやるのも、今すぐと云う訳にはいかないが、金を貯めていけば一年に一枚は普段用ではない上等な着物だって買えるだろう。藩主は慌てた様子で、
「しかしそれでは礼が出来ぬ」
弥介は、失礼を顧みず唇を噛んで覚悟を決めた後、船主の目を真っ直見つめた。
「ただ、効くか効かないかも分からない薬に千両出すぐらいなら、貧乏人が安くで医者に掛かれるような藩の療養所を作ったり、薬代の代わりに暴利な証文取るような、金持ちを咎めるお触れを出して下さい。一部の人間だけが米を食い、他は麦飯なんて云う富の片寄りをなくすのに、米の割り当てを上から下に等分に回すのも。贅沢に狎れた方には辛いでしょうが」
握り締めた弥介の手の平に、汗が滲む。
藩主はうむと一つ唸ってから、口を開いた。
「ここの船主は、私より良い生活をしているからな。但し、江戸詰めなどの為の費用が馬鹿にならないので、普段はどこの藩でも藩主が率先して、倹約に勤めておる。客や勤めの時には着物や食事も良いものを出さねば仕方がないが、普段の食事は麦割りと云ってな、米と麦の半々だ。それに、香の物と汁と焼き魚が付く。魚に関して云えば、獲れたての海の幸が食べられるここの村の者の方が、よほど贅沢だろうな」
そう云って藩主は、弥介に笑い掛けた。
弥介も気分が解れて、この部屋に入って初めて微笑した。藩主は深く弥介に頷いて見せながら、
「他では不漁でも安定した魚漁を持つ小浜だけに、値を吊り上げられたりする危険があるが、いつかは手を付けねばと思っていたのだ。そちが村人達をまとめて、私の助けとなるのだぞ」
弥介はそれに頷いた。
弥介は、お清が帰って来てから頼んだ結果、お清の返答を伝える約束をした。
お清は海から長く離れられないので、往復時間も合わせて一日しか使えない。
健康な男性の足で一日掛かる町まで、時間を掛けてもお清の足で踏破するのは無理だろう。
馬を替えて急げば、半日も掛からないそうだ。
お清もだと思うが、弥介も馬に乗れないので、人に乗せて貰わなければいけない。
城の者が、飲み屋でお清の話を聞いたのが二日前。
すぐに報告を受けた藩主は、もう一度村の者を掴まえさせて、話を確認させ、筋が通っていると見て、自ら確認に出向くことを決めた。
出立したのは今朝のことで、僅かな供だけで自分で馬を駆って来たと云う。
昨日町を出た村の者達と、到着は同じになった。
お清が承諾して出掛けるにしても、一晩馬を休めて明日の夜明けに出ることになる。
帰りも早馬で送り帰してくれるので、一日で戻って来られる。
藩主が片岡の家の者に茶を頼もうとしたところで、尻の据わりの悪くなった弥介は、仕事の途中を理由に藩主の前から下がった。
弥介は小屋で、お清の帰りを待つ。いつもと変わらぬ時間にお清は帰って来たが、弥介には長く思えた。