人魚の血
七太は戸を揺すって延々と繰り言を繰り返していたが、一刻もすると諦めたようで静かになった。
更に半刻ほど待って、完全に去ったと確認してから弥介はそだを集める為に小屋を出た。
お清にはいつものように、弥介が戻るまで戸に突っかえ棒をして、誰が来ても何も云わなくていいと云ってある。
そだを集めて小屋に戻り、今帰ったと声を掛ける。いつもならばはい今すぐと云うお清の言葉が返ってくるのに、その時は小屋は静まり返っていた。
嫌な予感がして、弥介は戸を開ける。突っかえ棒はなく戸は楽に開き、小屋の中にお清の姿はなかった。
咄嗟に悪い想像してしまう。村人に捕まって、血を絞り出されているのか。
弥介はそだを放り出して、お清を探しに向かった。病人のいない所は外してもいいだろう。
弥介は、数軒の小屋を血相を変えて覗いた後、七太の小屋でお清を見つけた。
お清は自らの腕に椀を当てがっていた。お清の腕には傷があり、椀に血が流れ込んでいる。
弥介は頭に血が上った。
「何やってる」
お清は目を伏せると、心苦しそうに、
「小さな子供だけはと云われて」
弥介は小屋の内に入り込むと、思わずお清に手を上げてしまっていた。
血の入った椀がお清の手から飛んで、床に転がる。中の血が撒き散らされ、七太が椀に飛び着いて押さえる。
弥介は、
「どんな奴だって、小さな子供だったことはある。子供の頃に死んでた方がいいような、大人ばっかりじゃねぇか」
と、吐き捨てる。
「二度とそんな真似はするんじゃねぇ」
弥介は厳しく怒鳴るなり、お清を引っ張って立たせ、小屋の外に連れ出す。
七太は、藁にでも縋りたいのか、椀の中に残った血を、指に着け赤ん坊の口に含ませていた。
弥介はその後どうなるかなど、見たくなかった。弥介は転ぶようにしているお清を引っ張って、己の小屋まで向かう。
騒ぎに他の小屋から、人が顔を覗かせる。
お清を小屋の中に押し込め、自らも中に入って後ろ手に戸を閉めた。
お清は足を縺れさせ、土間にしゃがみ込んでいる。いつものように髪が顔に被さっているが、弥介の腕に打たれた頬が赤くなっていた。
お清の着物の左腕の部分は、血に染まっている。弥介は震える手で、お清の顎に跡の着いた頬を撫でた。
「済まねぇ。オイラは不安だったんだ」
弥介は膝を落とし、お清の身体を抱き締める。隠そうとしても、弥介の震えは隠せなかった。
「弥介さん」
弥介の肩に、何かが当たった。
僅かに身体を離すと、お清の膝から地面に真珠の粒が転がる。弥介は真珠を摘み上げると、強く握り締めた。
「乱暴して済まなかった」
お清は首を振って、これは嬉し涙ですと云う。
「色が違いますから」
お清が弥介の手を広げさせる。確かに前に見た真珠とは色が違う。
喜んで流す涙は仄かに桃色で、悲しみの涙は青みがかっているのか。弥介はもう一度手を握り直すと、
「ただでさえ血の気の薄いお前が、これ以上血を失ったら大変だ。お産で、血が止まらなくなって死ぬ女も多いんだ。オイラが止めるのは、お前が心配だからだ。こんな村の奴なんか、助ける必要はねぇ。お前の方が大事なんだ」
弥介は立ち上がって手拭いを取ると、桶に水を汲んで濡らした。弥介は無言で、手拭いを絞ってお清に渡す。
お清も黙って手拭いを受け取り、袖をまくると血を拭き始めた。弥介は、お清の傷口からも目を逸らしていた。
見なければ、何もかも済むと云うように。
暗くなるとお清はいつも通り出掛けたが、途中まで弥介は着いて行くことにした。明かりを持てないので、林の方に行くと綾目も分からぬ闇に包まれる。
足腰に問題がない弥介より、お清の方がしっかりしていた。
お清と別れた後、弥介は表側を通って自分の小屋まで帰った。
途中、弥介の名が聞こえたような気がして足を止めた。
一番大きな磯六の小屋に人が集まり、盛大に火を焚いている。
小屋の戸は閉まっているし、空気抜きから人が覗いている訳でもない。弥介は小屋に近付いて中の様子を窺った。
「弥介は、病気を治せるあの女を一人占めしてる」
次郎松のおっさんの、苦々しい声がした。
苦労を掛けた母親が病気になって、お清に助けを求めてきた。
真っ白になった弥介の頭の中に、それでも次から次へと人々の言葉が入ってくる。
「病気は、あの女が持ち込んだんだよ。あたしらに復讐しようとしてるんだ。供養か祭りかして祟りを消さないと、そのうち村は全滅するよ」
「殺したか何だか知らないが、全部芝田が悪いんだろ。供養はあいつらが出すべきだ。オレ達には出せるほどの金はねぇんだから」
「追い出しちまえば、疫病も収まるに違いねぇ。あの女の血で病気は治るとしても、別の呪いでも掛けられ兼ねない」
「追い出したりしたら、今度はもっとひどいことが降り掛かるよ」
弥介は、身体を震わせながら拳を握り締める。
「弥介は、化け物にとり憑かれたんだ」
その言葉は、弥介の遊び仲間のものだったが、誰もが知らない者のように感じられた。
「親なんだからしょうがないよ」
弥介は、静かにその場を離れた。お清に助けられたんじゃなく、病気を移されたと云うのか。感謝する必要もない訳だ。
弥介は、自嘲とも着かずに独り言を呟く。
「人間ってぇ奴は」
弥介は、お清が戻って来るまで眠らずに起きていた。火はとっくに消えていたが、まだ空は暗かった。
弥介が座り込んだまま起きているのに気付き、お清も驚いたようだ。
弥介は自分の聞いたことは話さずに、これだけ云った。
「別の村に行くか、海辺で二人だけで細々と暮らそうか」
お清は弥介に詳しい説明を求めずに、ただ静かにはいと答えた。
その結果を出し、お清が同意してくれた途端、ずっと弥介の肩に掛かっていた重荷が、とれたようだった。
*
弥介は次の日から、村を出て暮らす算段を始めた。隣村に移るぐらいでは、お清の噂ごと移るようなものなので、どこにも属さない方がいい。
弥介は海沿いに北と南に歩いて、住めそうなところを探した。
北に二里ほど行った処に、小さな岩場に降りられる崖と、古くなって木が倒れた後に出来た空き地を見付け、そこに小屋を作ることにした。
小屋を作る板は、今の小屋の物をそのまま使う。板材は貴重だ。
弥介の小屋は一人立ちした時に、自分で古板を集め建てた物の後に、稼ぎで板を買い付けて建てたものだ。
元々あった小屋ならば村の物として接収されてしまうが、自分で買った板なので、持って行ける。
草を抜き、土を掘って根や石を取り除いたあと突き固めて、土間を作る。
村から離れられたのと、久しぶりの労働らしい労働のお陰で、弥介の気分は随分楽になった。このところあまり動いていなかった為に、筋肉が強張ることすら快い。
お清は、以前と同じように昼間出掛けて、夕方に戻って来る。一緒にいないのではっきりしないが、村人の為に血を与えるようなことはしていない筈だ。
仮小屋を作り、瓶や笊など僅かな道具を運ぶ。
それぐらいなら背負子に積めたが、壁や屋根の板は以前は少量ずつ手に入れたので、弥介一人で運べたが、全部運ぶとすれば、三から四往復しなければならない。
大八車を借りるか、嘉一にでも手伝わせるか。何でもすると言う言質を盾にとって、嘉一を脅してもいい。
空模様と相談して、小屋は解体しなければいけない。
村人と極力顔を合わさずに過ごす内に、十人ほどの死者を出して病は去っていった。
七太の子供は、結局助かったようだ。七太のは赤ん坊だったから、椀に残っていた半分ほどの量でも効いたのか、看病の結果か、それとも神仏にでも祈りが届いたのか。
お清と無関係なら、どれでもいい。
七太は礼に来て、改めて恩は返すと云ったが、態度はぎこちなかった。弥介が冷たく応対したことを恨んでいると云うなら、構わない。
無礼を働くと祟りがあると思っていて、機嫌を伺いに来るなら冗談ではない。しかし七太には頼みがあったので、何であれその口約束を利用させて貰った。
弥介に代わって、車を借りさせたのだ。何に使うかは言わなかったし、弥介の名前も出さないように含めてある。
村を出ることは、最後まで知られたくない。自分で借りに行って、止められるのも面倒だった。
七太は何に使うと云ったか知らないが、借りる算段は付けて来たが、生憎車は出払っていて、戻って来るのを待たねばならなかった。
疫病や舟が沈むような災厄の後には、必ず厄払いの為にお祓いをして、清めの酒が振る舞われる。
金に細かい船主どもも、こと災難を払う為には金を惜しまない。
漁民の一揆より、天の采配の方が、金持ち連中にとってはよほど厄介なのだ。
漁民なんて皆殺しにしたって、替えは利くが、天候不順で舟が出せなくなれば、贅沢な暮らしに支障が出る。
車が出払っているのは、酒を贖う為だった。
車の帰りは、七太が知らせてくれた。町から荷役として出て行った連中の話によると、疫病は町を席巻しており、城の中にまで患者が出たそうだ。
医者に薬に祈祷と、八方手を尽くせる殿様でも助からないとなると、天の非情さを改めて人は知る。
富も地位も力も、絶対ではないのだと。
勿論同じ時間を生きるなら、富や地位や力がある方がいい。誰が、苦労だけして生きたいものか。