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悪疫

 おセイは、椀の半分ほどまで満ちると、弥介の手に椀を押し付けた。

「これを」

 弥介が咄嗟に椀をとると、お清は傷口の上を手できつく掴んで、床に倒れた。

 弥介は悲鳴を上げながら、椀を嘉一の女房の方に押しやり、お清を腕に掻き抱く。お清は、弥介の腕に抱かれながらも、嘉一達に向かって、

「それを呑ませれば、助かる筈です」

 嘉一と女房は、目を見交わしあった。嘉一は立ち上がると小屋の中に入って来て、自分の女房の側でしゃがみ、女房の肩を抱いた。

 二人とも縋れるものになら、藁にだって縋りたいのだろう。

 

 女房と嘉一は子供の口元に椀を当て、口の中にソッと、粘り掛けてきた液体を注ぎ込む。

 弥介は、お清の肩を抱いたまま、

「何でお前が、こんなことしなけりゃならねぇんだ」

 お清は、紙のように白くなった唇を開いて、

「私なら大丈夫ですから」

 弥介は、お清を抱く手に力を込めて、嘉一夫婦を睨み付けた。

「何が大丈夫なもんか。お清に何かあってみろ。オイラがお前らを呪ってやるからな」

 弥介の剣幕に、夫婦は怯んだように顔を上げた。

 その時、幼い娘がグズグズと声を出した。弥介の大声に、目が覚めてしまったのか。

 泣き出すのかと思って、弥介もちょっと怒りを抑えた。夫婦も心配そうに娘に目をやる。

 幼い娘は、小さな目をポカリと開けると、両親の顔を認めた。娘は何も分かっていない様子で、

まま食いてぇ」

 そのまま、グズグズと言い出す。

 両親は目を見開き、弥介も毒気を抜かれた。娘は普段なら自分の要望がすぐに通るのに、なぜ今ばかりは通らないのかと、

「飯は?」

 と、繰り返す。嘉一が動揺した声で、ようやく、

「食えるのか?」と、問う。

 娘は、こくんと頷いた。その後で、娘は何が何だか分からない様子で、弥介とお清に目を向け、それから部屋の中に目を転じた。

 弥介はようやく身体の力を抜いて、

「きっと病気の山を越えたんだな。大事な一人娘だ。騒ぐのも分からないじゃないが、それでお清が受けた迷惑も考えて貰いてぇ」

 お清の血を飲んだことと、病が癒えたと云うことに因果関係を認める訳にはいかなかった。弥介は、単なる偶然で片付ける。

 嘉一夫婦も、途惑っていた。芯から、お清が何か出来ると思っていた訳ではないだろう。

 嘉一達の顔には、畏怖や驚き、喜びのようなはっきりした感情は浮かばず、それらが混じった茫然とした表情が浮かんでいた。

 娘は、自分の家ではないから、食事はまだなのかと、何とはなしに理解したのか、興味深そうな顔で弥介達を見ている。

 

 嘉一夫婦はとりあえず、頭を下げて申し訳ないことをしたと何度も謝り、恩には必ず報いるからと夫婦揃って請け合った。

 迷惑掛けられた詫びは当然して貰うと、弥介も云った。

 子供を抱いて、嘉一達は繰り返し頭を下げながら、弥介の小屋を出て行った。

 誰も、何を云えばいいのか分からなかった。

 お清は、まだ気分は悪そうだったが、自分でもう身体を支えていられるようになった。弥介は、スッとお清から身を離す。

「もうこんなことはするな。お前が身体を悪くするだけだ」

 弥介は、既に塞がり始めているお清の傷口には、目を向けないようにして、それだけ云う。

 着物を汚す心配がなくなったお清は、無言で頷いてまくっていた袖を下ろした。

 弥介は、この一件に就いては、何も云わないことに決めた。

 見なければ、その事実も消えてなくなると云うように……。

  *

 お清が、お幸の病を治したと云う話は、密かに村の中に流れて行ったらしい。

 嘉一夫婦は、大っぴらに話した訳ではないようだが、根掘り葉掘り聞かれれば僅かに話も洩れてしまう。

 お陰で、我も我もとお清の処に押し寄せて来るようになった。

 当然だが弥介は、全て追い帰している。お清の血を飲んだ後、お幸が快癒したのは単なる偶然で、それ以上のことはない。

 そんなことの為に、お清は血を一滴残らず抜かれてしまう訳にはいかなかった。

 例え偶然にしても、お清に身銭みぜにを切らせておきながら、嘉一夫婦からは何の音沙汰もない。

 自分が嘉一の立場だったら分かるぶんだけ、腹が立つ。

 感謝するよりも、嘉一達は恐れたのだ。自分の理解の範中を越えた出来事に。

 もし、他にもお清の血を飲んで回復する者が現れても、嘉一達と同じような反応しかしないだろう。

 人間ではなく、人の命を救えるからと云って、お清が何かしてやる必要なんてない。

 

 人間様は、それほど偉いのか。

 

 己らだけの富を追求し、金に飽かせた暮らしをする者。身を粉にして働くが、より弱い者を見下すことで満足している者。欲の塊で――贅に狎れた船主一族、残酷で――役に立たなくなれば捨てられ。

 祟りなんぞを信じることよりも、疚い生き方をするほどに愚かだ。

 肝を取られる熊だって、人間よりはよほど存在価値があるだろう。

 

 これ以上おかしな騒ぎに巻き込まれない為に、お清にも人目に付かないよう気を付けさせている。

 お清の日々の働きのお陰で、外に出なくとも暫く保つ食料はあったが、お清は出掛けることは止めなかった。

 お清はこの頃では、夜に出掛けて村人が起き出して来る前に帰って来て、昼間は寝ているか繕い物などをしていた。

 弥介も出来る限り小屋を離れないようにしているが、煮炊き用のそだを集めなくてはいけない。

 弥介が出た後に心張り棒をさせて、開けられないようにしているが、弥介は出来る限り小屋を空けないよう気を付けていた。

 

 流行り病が出ると、村は死と恐れによって暗雲に包まれる。

 村人は生気を失い、船主は門戸を閉ざせば悪疫あくえきからも身を守れると云うように、屋敷の奥に引き篭もる。

 誰の小屋でも一日中火が焚かれ、気候が良くても魚や海草を表に出して干す者もいない。

 弥介の小屋には火の気はないが、干物を作るのは流石によしていた。

 薄暗い己の小屋の中で弥介は、益体やくたいも無い木彫りを彫って時間を潰す。

 家を訪ねて来る者があっても、暫くは放っておくが、いつまでも引き下がらないと、弥介が出て行くことになる。

 

 病なんてものは人知を越えている。

 どんな医者も薬も、効果が出ないこともあるのだ。

 医者であっても、医者なら治してくれと云う訴えに、理不尽さと同時にいたたまれなさを感じるだろう。

 船主の方がよほど、薬代の無心や、慈悲を乞いに来る村人に対しても、平静でいられるに違いない。

 弥介には貸せる金があるのに、出し惜しみしているのではない。

 お清の血は、万病の薬などではない。そんなものを求められても、出せる訳がないだろう。

 

 小屋の中も、重苦しい沈黙に支配されている。それを破るのは、病人を治療してくれとおとなう者がある時だけだ。

 忙しなく戸を叩く音と同時に、弥介の名が呼ばれる。

 他の声なら無視しただろうが、声の主が七太しちただと知ると弥介は時を置かずに外に出た。

 七太は、遊び仲間の中で、弥介を兄のように慕っていた。

 幼い頃から結婚の約束をしていた隣の娘と早々に夫婦になって人の親にまでなった為、すっかり疎遠になってはいたが。

 戸を開けた弥介は、開けなければ良かったと後悔した。弥介は少しだけ開けた戸の端を、強く握り締める。

「七太。お前んとこの子もか?」

 弥介よりも年下で、丸顔の愛嬌のある七太は切羽詰まった顔をして、地面に座って土下座した。

「太一郎を助けてやって下さい。どうかお内儀様の御加護を。弥介兄ぃ頼んます。助けてくれたら、一生恩にきますから」

 七太と同じ年の、自分も子供のような娘も、目ばかり大きくしながら乳呑み子を抱いている。

 弥介の血を椀一杯やって助けられるなら、喜んでそれをしよう。

 しかし、お清にそんなことさせる訳にはいかないのだ。

 弥介は、仕方がないんだと思いながら、心を鬼にして七太に云った。

「まだ若いんだ。幾らでも生める。それに、その子が無事育つとも限らないだろう。早く死ぬ定めだったと思って、諦めろ」

 七太は、泣きそうな顔を上げて、

「そんな鬼のようなこと云わんで」

 と、振り絞るように云う。

 

 大抵の病気は医者や薬で治る。

 治らない時は金持ちでも、神仏に頼る。

 他に縋れるものがないのは分かるが、お清は神でも仏でもない。

 弥介は、冷たく七太を見下ろしながら、

「無茶を云っているのは、お前らだ。薬代を寄越さない業突く船主と、オイラを一緒にするな。それに、恩に着るなんて言葉は信じられない。嘉一達も恩は忘れないと云ったが、顔一つ見せねぇ」と、吐き捨てる。

 七太は必死で何でもするからと掻き口説くが、何を云っても無駄だ。

 お清の血をやる訳にはいかない。それははっきりしている。

 それ以外のことなら、弥介に出来ることなら何だってしてやりたいほどだ。

 弥介は七太に分からせる為に、はっきりした言い方をする。

「恨むなら、嘉一夫婦を恨め。何が、助けてくれたら恩は忘れないだ。お前らも同じ穴の狢だ」

 話を聞いても仕方がないので、弥介はそれだけ云うと、ピシャリと戸を締めた。

 自分が血も涙もない鬼のように思える。

 病人全てにお清の血をやったら、お清の方が死んでしまう。

 お清を死なせて病人に血を分けてやるなら、それも鬼の所業しょぎょうだろう。

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