嫌な流行り
「嵐の海で死んだ方が良かった。お前が助けた所為でオイラは、死に損いになっちまったんだ。嵐の中オイラを助けたりしなければ、オイラはすっぱり死ねたんだ。身体だけ生きてても、生きる意味を持たない、墓の際の連中のようにはなりたくねぇ」
弥介は、駄々っ子のように、お清にしがみ着きながら喚いた。お清も辛そうな口調で、
「ここにいれば、村の人にも知られるでしょう」
弥介は、お清の身体を強く抱いて、離さなかった。
「人に知られたって、気にしなければいい。オイラは気にしねぇ」
弥介は、泣いていた。
お清の手がオズオズと、弥介の背に当てられる。
「弥介さん」
弥介は泣きながら、お清にしがみ着いていた。
弥介は、何も考えられなかった。
お清が人ではないことが村人に知られた時、村人がどんな態度に出るかも、これから二人がどうなっていくのかも。
幸せで穏やかな未来などある筈もなかったが、お清がいなくなり、弥介の生活が再びお清の来る前のようになることの方が地獄だった。
お清が来たことで、まともに食べられ暮らせるようになったことだけではない。
例え、村人に日々の食事を恵まれる生活に戻ろうと、お清が一緒ならば、辛くはなかった。
明日に夢を繋げた。
お清がいなくなれば、例え日々の暮らしに困らないとしても、生きる意味は失われてしまうだろう。
しかし、人ではないお清が村人達から与えられる苦痛の方が、大きいに違いない。弥介もそれに気付いたが、お清は静かだがきっぱりとした口調で、
「妾のような生き物に好意を寄せられては、人間の貴方にとったらいい迷惑です。迷惑を掛けている代わりに、貴方の為に出来ることがあるなら、妾は何でもします。側にいられることは、何よりの喜びですから」
弥介は、何も云えなくて、ただお清を抱き締め続けているしか出来なかった。
*
お良が身投げした次の日には、芝田は家をそのままに村を出た。とりあえず家族の身の安全を計ろうと云うのだろう。
二十年前、弥介の母親の死の前後に、何があったか聞くことは出来なくなった。
なりふり構っていられないほど、呪いが怖いらしい。
その頃から、お清の髪飾りも、ふっつりと売れなくなった。呪いが掛かっていると思われた訳ではなく、丁度流行りが過ぎたのだろう。
お良のように身投げをする者は、現れていなかった。お清の髪飾りを付けて、他に死にたくなった者もいない筈だ。
きっと、辛い気持ちを、お清の涙で出来た真珠が増幅させるのだろうと、弥介は考えていた。
流行りが去れば、お清の髪飾りを付ける者もいなくなる。
死を望む者が出なかったのは、流行りが過ぎて髪飾りを付けなくなった所為と云うより、お良ほどにも暗く沈んだ気持ちにならなかった所為だと、弥介は考えている。
お清の髪飾りが、村の中で売れなくなった代わりに、村の外に卸せるよう、装身具屋に細々と売るようにした。
お清は、また何かあったらと嫌がったが、金持ちの女が髪飾りに飽きるまでの間に、打ち沈む確率など小さいと説得して続けさせた。
他に金を得られるような方法がなかったからだ。
村の一部にだけ広まったお清の髪飾りの流行りが終わった後は、村全体に、今度は嫌な流行りが始まった。
流行り病が出たのだ。
周囲の村では、不漁に喘ぎ、飢え掛けて弱っていた者から順に死んでいった。
幾ら豊かと云っても、疫病は小浜を避けて通ってはくれない。
それでも、毎日食べる物をしっかり食べているだけで、死者の数は変わってくる。
病は、日々を辛うじて生きているような人間から、容赦なく命を奪いとっていく。
小浜ではまず最初に、墓の際の人間が患うなり、バタバタと死んでいった。弥介の古くからの知り合いの、吉爺も死んだ。
次に病気に罹かるのは、幼い子供や年寄り、身重の女だ。
これらの者は、病気になっても、薬代さえ工面出来れば回復出来た。
貧しいと云っても、他村の者よりは恵まれているので、小金を貯め込んでいる者はいたし、借金の伝もあった。
一生涯船主に仕えると証文を書いて貰えば、薬代の借金を肩代わりして貰える。
家族の命が掛かっているので、やむにやまれずに、希望のない境遇に身を落とすことになる。
船主の使用人になっては、小金を貯めることさえ叶わなくなる。
それでも、大切な者の命には代えられないと云う訳だ。
お清は人の病には罹からないのか、病気にはならなかったし、弥介も体調が万全だったので、病着くことはなかった。
作兵衛が怒鳴り込んで来た為に、呪い云々の話も村中に広まってしまったが、疫病が出たことで、それらの話は有耶無耶になってしまう。
但し今度は疫病と関連付けられ、村の外から来たお清が、病を持ち込んだのではないかと、疑われることになった。
人知を越えた物事があると、すぐに人は神仏の加護や、悪霊の仕業だと考える。
そうでも思わないと、やっていられないのだ。
何かを恨み、何かに縋らなければ、人は生きていけない。
村の者は流石に恨めないから、その代わりがお清だったのだと思う。お清がいなければ、また別の人間が槍玉に上げられただけだ。
それはもしかしたら、弥介だったかも知れない。
疫病が出て以来、村の中には重苦しい雰囲気が漂うようになった。
ある夜、弥介の小屋の戸を激しく叩く者があった。
何かと思って出てみると、弥介よりは十才程年上の嘉一夫婦の姿があった。女房の方が、娘のお幸を抱えている。
まだ二つ、可愛い盛りのお幸は、流行り病のようだ。弥介は訳が分からず、
「何なんだ。家を間違えてるんじゃないのか?」
嘉一は切羽詰まった様子で、
「お願いに上がったんです」
弥介は顔をしかめて、戸を閉め直そうとしながら、
「薬代に貸してやれるような金はねぇんだ。全部食い物に消えてる」
嘉一が戸を押さえて、
「待ってくれ。そうじゃない」
「遠くの医者に見せるのに、娘背負って走ってくれとでも云うのか?」
弥介は訝りながら、聞く。嘉一は、弥介の着物の胸を掴んで、小屋の中に半身を入れながら、囲炉裏端で内職をしていたお清に、
「話があるのは、お前の女房にだ。お前の女房は、本当は人でねぇんだろう? この流行り病は、罰の為に起こしたんだろう? 弥介さのおっ母の仇討ちの為に、手ぇ貸してるんだろう」
弥介は、嘉一の肩を掴みながら、
「病とお清は関係ねぇ」
と、強い声で云う。嘉一は、弥介を見上げながら、懇願する口調で、
「でも、人でねぇなら、偉い力で人を殺すだけじゃなく、人を救うことも出来る筈だ。どうか、どうかお幸を救ってやってくれ。十年待って、やっと授かった子なんだ」
弥介と旦那が掴み合っている横を、娘の小さな身体を抱えた女房が、すり抜けて小屋の中に走り込んで行った。
弥介は、あっおいと、困惑の声を上げた。女は、床の前の土間に跪き、手仕事を止めて凍り着いているお清に、哀訴する。
「どうかお慈悲を。この子だけは助けて下さい」
弥介は、いたたまれない気持ちで眉間に皴を刻みながら、嘉一を訴えるように見る。
「呪ってなどいないとお清に云わせて、早く良くなりますようにと祈らせれば、気が済むのか。そんなことしても、何の気休めにもならないことは分かってるんだろう」
嘉一は、その場にズルズルと座り込みながら、哀願するように弥介の身体を撫でた。
「救ってくれたら、恩は決して忘れない。オイラ達に出来ることなら何でもする。金や日常の手伝いでは足りないと云うなら、儂らの命ならとっていいから」
「お前らの命なんて、貰っても嬉しくもない」
弥介は身を引いて、吐き捨てる。嘉一は俯いて、振り絞るような声で、
「お前だって、子が出来たら分かる筈だ。子供だけは助けたいって気持ちは」
弥介は、お清に何をさせたい、何が出来ると叫び出したかった。それをしなかったのは、お清が細い声で、
「お椀を、薬を呑ませる為のお椀を」と、云ったからだ。
咄嗟に弥介は、後ろを振り返ってお清を見た。嘉一の女房も、弥介の方を見て、
「お願いです」
弥介の足元に踞っていた嘉一も、弥介を見上げて、
「頼む」
弥介は、黙って唇を噛んできびすを返すと、吊り棚から素焼きの椀をとり出した。
青い炎を出して燃える海草や、弥介には馴染みのない調味料など、これまでにもお清は出してきた。
人魚のような物にしか知れていない、深い海の神秘もあるのだろう。
お清は、小刀をとり出していた。
弥介は椀を持って、床に上がってお清の側に行く。お清は、小刀を抜いたかと思うと、袂を肘のところまでめくって、細く白い腕に刃を押し当てた。
弥介は驚いて、
「何をする」
と、声を上げ、小刀をとり上げる。
お清は、弥介の手から椀をとり、傷口から溢れる血を受けた。
お清は落ち着き払った声で、
「人魚の血は万病に効きます。ですから」
弥介は、言葉も出なくなる。
お清の血は赤かった。
魚の血だって赤いのだ。しかし、人ではない筈のお清の血が赤いことも、弥介にとっては衝撃だった。
他の色であれば、諦めも着いただろう。