女、人ならぬ身にて
貧しくて物を買う金がなくても、生きる為には少しでも暮らし易い方がいいから、ある物だけで修繕しようとするものだ。
しかし生きる気力がなくなると、何をするのも億劫になり、物が壊れても気にならなくなる。
お清が来る前の弥介は、生ける屍だった。
最低限のそだしか集めず、椀が欠けてもそのままだった。
そだを多目に貯えたり保存食を作ったり、その場凌ぎに過ぎなくても修理して使うのは、明日があると信じていて、明日に期待を繋いでいるからだ。
生き抜こうと云う思いがあるからこそ、嵐の度に海水が浸いて駄目になる畑や、剥がれて飛んで行く壁板を、その度ごとに直すことを止めずにいられるのだ。
お清は、笊を竃の横の台に置きながら、
「でも、あの娘さんは、他の村の人とは様子が違いました。死ぬ必要があるようには見えませんでした」
おセイが呪ったと怒鳴り込んで来た作兵衛を思い出し、弥介は毒突く。
「あんな奴、それこそ放っておいて死なせりゃ良かったんだ」
お清が驚いた様子で、
「え?」と、聞き返してきた。
人の死を願うなんて、幾ら何でもひどかったかと、弥介は、
「ああ、いや、何でもない」
と、言葉をとり繕った。そう云った後で弥介は肩を落とすと、やっぱりお前には話しておくかと呟いた。
お清は作業は続けずに、板間に腰を下ろして、弥介の話を聞こうと身体を向けてくる。
「事実と信じてきたことに、嘘が混じってたと分かった今となっては、何が本当のことかも分かんねぇんだが」
弥介はそう前置きしてから、口を開いた。
「オイラのおっ母は、この村の者じゃなかった。しかも、村の外から来た時には腹ん中にオイラがいて、オイラを生んだ時に死んだんだそうだ。名前も素姓も明かさず、村の連中は、おキヨと呼んでいたとオイラは聞かされていた。噂では、オイラのおっ母は奥女中で、殿様に目を掛けられて、オイラが出来たんだと云われてた」
そこまでは、子供の頃から聞かされていた話なので、すんなりと話すことが出来た。
弥介は、その後をどう話せばいいのか分からなくて、暫し沈黙した後、考えながら言葉を口に出した。
「二十年前、おっ母の面倒を見たのが、お前が今朝助けた娘の親だったんだそうだ。ただの漁師に過ぎなかったのに、おっ母が死んだ後、船を買って船主に収まったんだと。丁度時期が悪かった所為で、死んだ女の金を横取りしたんじゃないかと思われたらしい。死んだんじゃなく、殺したんじゃないかと云う噂もあって、もし本当にお胤を宿した奥女中だったりしたら、村がとり潰しに合うと思って、名前を変えたんだそうだ。オイラのおっ母は、本当はおセイって名前だったらしい」
「まぁ」
弥介は、ずっと握っていた髪飾りを握っていた手を開いて、お清に差し出しながら、言葉を続けた。
「本当に、疚しいことでもあるのか、芝田は、あの娘の親は、死んだおセイに呪われると本気で信じてた。おっ母の呪いの篭もった髪飾りの所為で、娘が身投げしたんだと思ってる」
お清は、慌てた様子で、首を激しく横に振った。長い髪がそれに合わせて、ユサユサと揺れる。
「私は、弥介さんのお母さんのことなんて知りません。それに、過去に何かあったとしても、娘さんに罪などない筈です」
お清はそう云って、壊れた髪飾りを載せた弥介の手に、己の手を重ねた。僅かに手と手が触れた部分から、お清の膚の冷たさが伝わってくる。
弥介は、手の中の髪飾りを、ギュッと強く握り締める。
弥介は、強い憤りを込めて、
「確かに、芝田の子であることに罪はねぇ。でも飛び降りた理由は、十分オイラからしたら罪深い」
お清は、弥介の拳に労るようにソッと手を触れて、理解を示す様子で、
「命を粗末にするのはいけません」
弥介は、そうじゃないと云って首を振る。
「髪飾りを買ったら呪われると親は止めていたんだが、自分だけ持っていないのは嫌だとごねて、内緒で買って行ったんだ。友達に自慢していた所為で親に知られて、買うなと云ったのに買ったと、厳しく叱られたんだと」
弥介は、そのことを思うと、馬鹿らしくなって鼻から息を吐き出した。
「捨てろ、捨てないで、とり上げられそうになった娘は腹を立てて、髪飾りを持ったまま家を飛び出しんだ。叱られたことを考えている内に、段々辛くて辛くて、たまらない気持ちになったんだと。娘は、生きていられないほど苦しくなって、屏風岩から身を投げたんだそうだ」
弥介の話を聞く内に、お清の様子がおかしくなった。お清は、両手で顔を覆うと、肩を震わせた。
「妾の所為です。妾の所為で」
お清は、啜り泣きの声を洩らす。
弥介は驚いた。
お清が感情を露わにするところなど、初めて見るからだ。
弥介は髪飾りを手にしたまま、慌ててお清の側までにじり寄り、肩を抱いた。
「何も泣くことはない。お前は一つも悪くない。呪いの掛かった物を買ったなんて理由で、厳しく叱り付ける親がおかしい。それを呪いの所為で死のうとしたなんて、言い掛かりもいいところだ。蓋を開けてみれば、自分が娘を叱った所為じゃないか。それに娘も娘だ。どんなに理不尽な責めを受けたからって、すぐに死ぬことを考えるなんて変だ。あそこからいつも飛び降りる連中は、謂われない誹謗中傷や苦痛を与え続けられて、やむにやまれず死んでいくんだから」
弥介の目の端を、白い物がよぎる。
コロリと床に転がったのに、思わず弥介は手を伸ばして摘み上げた。
「真珠?」
弥介は、もう片方の手に持っていた壊れた髪飾りから外れたのかと、髪飾りを思わず眺めた。
別にそうではないらしい。
弥介は、ふとお清の方を見る。
髪に隠されたお清の顔から、ほとりと滴が垂れる。
その滴は、着物の膝に落ちた時には、白い真珠の粒になっていた。
弥介は、まじまじとお清を見つめてしまう。お清は目元を押さえて、涙を止めると、
「妾は人ではありません。村の方が思われたような、人魚にございます」
弥介は思わず強い口調で、
「人魚に足なんかない」
と、云っていた。お清は淡々とした調子に戻って、
「鰭を足に替えているから、足が弱いのです。家を半日以上空けるのも、海水から長く離れていられないからです。名前を名乗ることが出来ないのは、貴方に付けて戴くまで、名前などなかったからです」
弥介は震える声で、
「そんな苦労をしてまで、どうして」と、だけ云う。
今更聞かなくても、お清が最初に会った時に云っていたことなら聞いている。
それを真正直に信じていた訳ではないが、聞かなくてもお清の言葉は分かる気がする。自分で聞いておいてなんだが、こんな場で面と云われるのも落ち着かない気がした。
お清は、遠くを眺めるようにして、
「嵐の日、貴方様を船でお見かけしました。船から投げ出されるのも。船が沈み人が死ぬのを、これまで何百となく見てきましたが、その時だけはただ見ていることが出来ませんでした。気が付くと、板を引っ張って来て貴方を載せていたんです」
弥介は思わず、アッと声をとり落としてしまう。弥介の身体に、震えが走る。
弥介は切れ切れの声で、
「オイラは、お前に助けられたのか。オイラを助けてくれたなら、どうして他の連中も助けてくれなかったんだ」
お清は顔を俯けると、
「妾には、貴方を救うだけで精一杯でした。人魚は、力のある妖怪でも、神でもありませんから」
弥介は、昔から小浜に伝わっている話を思い出した。小浜の海には人魚が住んでいて、それが豊漁を齎すのだと。
その人魚にまつわる様々な話もある。弥介は、
「人魚の涙は真珠になる」
と、呟いた。お清はそれに、
「心からの涙だけが、真珠になるのです」
と、訂正した。お清は、ポツリポツリと口を利く。
「貴方を思って、流した涙です。苦しくて苦しくて、どうにかなりそうでした。そんな思いで出来た真珠ですから、何か悪いことが起きるかも知れないとは思っていたのですが、まさか死に向かわせる力になるとは、思わなかったのです」
問い詰めなければ、何も起こらなければ、お清はずっとその事実を黙っていただろう。それとも、いつかは弥介を信じて、打ち明けてくれたのだろうか。
何とも云えない気持ちが、胸に穴を開ける。
村の連中が知れば、化け物を妻にしたとさぞかし嘲るだろう。
お清は、人間ではない。化け物なのだ。化け物に好意を持つことは、許されない。
お清は、床から尻をずらして土間に座り込んだ。お清は、土間に手を付いて、頭を下げる。
「騙すようなことになって、申し訳ありません。貴方の側にいたかったんです。その為には、人と偽るしかなかった」
弥介は、身体も舌も強張って、動かすことが出来なかった。お清は、悄然とした様子で呟き続ける。
「こんなことになっては出て行くしかないけれど、こんな早くに別れることになるのが辛い。いえ、人ではないとすぐに分からなかっただけ、喜ばなければいけないのです」
弥介は、お清の言葉に、再び身体を動かせるようになった。
弥介は、弾かれたように立ち上がると、裸足のまま土間に降りて、お清の肩を抱く。
「お前がいなくなったら、オイラは一人ではやっていけない」