母に纏わる噂
弥介は、そんなこと云わずに話してくれと云って、そのまま勢い込んで云う。
「芝田の娘は、オイラんとこにいるおセイと関わったら、死んだおセイに呪われるって云われたって云うんだ」
吉爺は、芝田なぁと呟いた後、おもむろに続けた。
「二十年前は、儂らと同じ貧しかったもんさ」
弥介は思わず、え?と聞き返した。
吉爺は、素手で燃え差しのそだを突ついて、炎が良く鍋に回るようにしながら話し出す。
「あそこんとこは、代々の船主とも、他所から移って来たのとも違うだろう。女房も真っ黒けな顔して。名字なんて偉そうなもんもねぇ。ただのじろやんだ。何か後で名前も変えたそうだがなぁ。何だったかな」
弥介は、先ほど会った男の、漁師然とした顔や姿を思い出しながら、
「作兵衛」と、答える。
他の船主であれば、問題があれば呼び付けるか、強面の使用人を寄越して話を付けただろう。本人が怒鳴り込んでくるなど、嫁入り前に手を付けられて怒鳴り込んでくる娘の父親と変わらない。
弥介の親達の代ぐらいになると流石にないが、更にその親の代には、別の村の裕福な家が、小浜に地所を得ようと、村の男と自分の娘を縁組ませ、船を用立ててやると云うこともあったようだ。
船主の御隠居は、昔は腕のいい漁師だった、なんてことも聞く。
吉爺は、何を思ったか小さく肩をすくめて、ポツポツと再び話し出した。
「事実だけを並べるとな、村に転がり込んで来たお前のおっ母さんを、じろやん夫婦が、面倒見てやってただ。それが、お前のおっ母さんが、お産で死んだ後に、急に羽振りが良くなったのさ。本人の話では、女房のおやっさんが死んで、家を潰したら、仏さんの像が出て来て、それさ売ったら船が買えるだけあったと云うが。確かに丁度、別の村の女房の親も死んだのは本当だがね。お前のおっ母さんが、お産で死んだのを良いことに、金をとったんだって専らの噂よ」
妬みも、当然あったのだろう。
神仏の加護めいた出来事で福が転がり込んできたと云うのは、許しがたいことに違いない。同じように真正直に生きている筈の自分達の、立場がない。
見知らぬ女の世話をした功徳だと思われなかったのは、やはり本人達の日頃の行いの所為ではないのか。
別に疚しいところがなければ、呪われるとは思わないだろう。
吉爺は、割れた木杓で、鍋の中身を掻き混ぜながら、まだまだ話し続けた。
「お前さんの母親は、地味だがこざっぱりした格好をしてて、なかなか色の白い若い女だった。別嬪ではないが、まぁ別嬪だったんかも知らん。つわりがひどかったんか窶れ切っていたからな。金を持っているようには、まぁ見えなかった。おセイと云う名前以外、何処から来たのか云おうとしなかった。色々云われていたが、じろやん達が急に裕福になった所為で、あの女はきっと奥女中か何かで、子供を育てる金を貰っていたんだろうってことになったんだ。実際のところは分からないが、お調べがあって、知れたら事なんで、名前はおキヨと云うことにしたんだな」
ならば母は、おキヨではなくおセイだったのだ。
知らぬこととは言え、村人達が口裏合わせて、ひっくり返した名前を、弥介が元に戻してしまったのだ。
吉爺は、割れた木杓を引き上げて、汁の付いたそれをねぶった後、引き続き言葉を云った。
「まぁなぁ、死人の金だの着物だの剥ぐどころか、髪まで引き抜く手合いはいるしなぁ。金だけで、お前のおっ母さんが恨むような人じゃねぇと儂は思うんだ。ただな」
吉爺は、そこでグッと言葉を低めると、弥介の方に身体を向けて前に倒した。釣られて弥介も、身を乗り出して聞く姿勢になる。
弥介以外聞こえる者はいないと云うのに吉爺は、気持ち悪そうに顔を歪めながら、ソッとその言葉を囁いた。
「もっとひでぇ噂になると、お産で死んだってのは嘘で、殺したんじゃないかって、云われてる」
弥介の目の前は、その瞬間、真っ暗になった。
*
弥介は、吉爺に聞かされた話に激しい衝撃を受け、その後にした会話は殆ど覚えていなかった。
辞去の言葉すらそこそこに、弥介は家に戻って来てしまった。
手入れをした為に格段に居心地の良くなった自分の小屋は、吉爺の小屋とは大違いだ。自分の家も貧しさが一目で分かるけれども、やはり吉爺の小屋は、人の住むような所ではない。
自分の小屋に戻って、弥介は暫くぼんやりとしていた。暗くなり掛けて慌てて、そだ拾いに出掛ける羽目になった。
いつもの段取りが随分狂ってしまったが、お清は普段の時間には帰って来なかった。
吉爺に聞いた話で胸が一杯で、弥介は食事の用意もせずに、お清が帰って来るのを待っていた。怖れていた不安が、的中したようだ。
勿論、芝田の使いから、酒など届くことはなかった。これで酒が届いていても、お清が戻って来なければ、何にもならなかっただろうが、お清は遅くなってから、ソッと戻って来た。
疲れ切った時のように、地面に座り込んではいなかったが、戸口の前で佇んだまま、中に入って来ようとしなかった。
弥介は、不安で叫び出しそうになっていた気持ちを落ち着けて、
「身体の具合は悪くないか?」
と、まず聞いた。
自分一人で泳ぐのはどうってことなくても、溺れた人間を助けたりしたら、きっと身体にも堪えるだろうと思ったのだ。
お清は、声もなく小さく頷く。具合が悪くて休んでいて、家に帰るのが遅くなったのだとしても、お清はそうとは云わないかも知れない。
それとも真珠をとりに戻った以前のように、他の用事があったのだろうか。
「何かまた、とりに行ってたのか?」
お清は、いえと小さく首を横に振る。
お清はまだ、小屋の中に入って来ようとしない。
いつも以上に顔を伏せて、何かに耐えるようにしている。まるで、弥介がお清に何か耐えさせているかのようだ。
待っていた時の不安は安堵に代わったが、お清の態度に、口の中が苦い物で一杯になる。
「あんまり遅いから、帰って来ないんじゃないかと心配したんだぞ」
弥介は思わず、声を荒げてしまう。お清は面を伏せたまま、か細い声で、
「もし、心配して下さってはと思い、戻って来ました。ここに戻って来ていいのか、分からなくて」
心配した通り、お清は戻って来ないつもりだったらしい。弥介は、咄嗟に芝田に云われた呪い云々の話を思い出して、
「何か聞いたのか?」と、声を上げた。
云っておいて弥介は、いや、違うなと否定した。弥介は、
「磯縁で泳いでいることを、誰にも知られたくなかったんだな」
と、念を押すように聞く。お清は、身体を縮めるようにして、
「おかしいと思われて、気味悪がられてはいけないと思って」
と、尻すぼみな声を出す。弥介はブスッとして、
「もうみんな、十日も前から知ってる」と、吐き捨てる。
お清がハッと、息を呑むのが分かる。弥介は、乱暴な口振りのまま続けて、
「それを聞きゃ分かるだろう。別に問題なんかない。しかも今日の件で村の連中は、すっかりお前の一目置くようになった。お前に礼を云うよう頼まれたし、みんなお前に会って労いたがってた。まぁ、そう云うのはお前の好みに合わねぇだろうと、オイラが皆に代わっておくと云っておいたが、本当ならみんなに誉めそやされて当然なんだ」
男達の態度が変わったのも、お清が助けたのが芝田の娘だったからに違いない。
おセイと云う名を持った女が、芝田の娘を助けたことで、過去の問題は水に流されたと思ったのだろう。
お清は控え目な様子で、
「別に、自分に出来ることをしたまでです」
弥介が、中に入っちゃどうだいを声を掛けると、ようやくお清は腰を屈めて今日の獲物の載った笊をとり上げ、小屋の中に入って来た。
弥介はようやくホッとして、軽口を叩き始める。
「村の連中と云うのは、人と違うことを、すぐに神仏や悪霊と結び付けるようなところがあるのは確かだ。お前のことも、魚に泳ぎを習っただの、人魚だの、馬鹿なことは云ってるがな。何事も達者なのはいいことだ。きっとお前は、足が悪くて陸ではうまく歩けねぇ代わりに、神さんが、どんな海でも泳げるようにしてくれたんだな」
お清は、弥介の言葉に顔を逸らし、何も返事をしなかった。
その所為で、弥介はまた不安になってしまう。
お清は本当に、人には聞かせられない素姓を持っているのかも知れない。
弥介は、聞くに聞けないもどかしさに苛立ちながら、次の言葉を云った。
「そんならそうと、知られる危険を犯してまで、救う必要なんてなかったんだ。大抵身投げするのは、村の余り物で辛うじて生かして貰ってるような連中だ。そんな連中は、生きてたって後がないんだ。生きる時間を引き伸ばすのは、苦痛を長らえさせるだけだ。生きる意味がなくなって生きるのは、生きているとは云えねぇ。自分自身がそうなったから、オイラにも良く分かる」
弥介は云いながら、吉爺の暮らしぶりを脳裏に思い浮かべた。
吉爺は、とっくに生きる為の努力を捨てていた。割れたり欠けたり、壊れたままにしておくのは、無気力さの表れだ。