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娘の身投げ

 落ちた場に、おセイが遭遇したかも知れないとは思っていたが、まさかお清が助けたとは思ってもいなかった。

 しかし話を聞いてみれば、誰かの目の前で落ちたとしても、助け上げられたとは思わない。

 お清が海にいたからこそ、身体が岩に叩き付けられる前に、引き離してやることが出来たのだ。

 弥介は、動揺しながら答える。

「お清は戻ってない。人の注目を浴びるのが嫌いだから、どっか別の場所に引っ込んでるんだろう」

 お清は、荒い海を魚のように自由に泳げることを、隠したいのかも知れない。

 お清は、辰吉の所為で、既に村中に知れ渡っていることは知らない筈だ。

 お良を助けたことで、人に知られてしまったことをお清は気に病んで、もしかしたらそのまま行方を眩ましてしまうかも知れない。

 弥介は、そんな心配をした。

「それにしても、偉ぇ女房だよ。帰って来たら、たんと礼を云って、労ってやれよ」

 その後で、品のない笑いが起こる。

 弥介だけはまだ途惑っていたので、愛想笑いも出来なかった。

 男達は、弥介の困惑にも気付かぬまま、口々に云う。

「お前と云い、女房と云い、お前ら夫婦は、海の加護を受けてるんだなぁ」

「助けたのは死に損いじゃない。船元の娘だ。礼が楽しみだな、こりゃ」

「今夜は酒が届くぞ。酒が」

 男の一人が、弥介の背をバシバシと叩く。

 干し魚を噛っていた弥介は、むせそうになった。

 ようやく弥介も困惑を捨てて笑い返し、あ、ああと応じ返す。

 

 海からの生還者に、皆、興奮している様子だ。

 今までお清に掛けていた疑いも、消えてしまったらしい。

 海に出る者は、海の怖ろしさを良く知っている。

 波は淡々と寄せては返すだけで、目で見ると危険そうには見えないが、その力は人間の想像を遥かに越えている。

 大波を身体に受ければ、山に押し潰されるのも同じだ。

 だからこそ海と渡り合える者は尊敬されるし、海から戻って来た者は、他のことで死をまぬかれた者よりも喜ばれる。


 海に落ちたか飛び込んだお良を助けたことで、お清は村の者達に受け入れられるに違いない。

 男達は、一杯やろうやと云いながら、立ち去っていく。

 村人達に対して頑なになっていた弥介だが、今だけは、その気持ちも忘れられた。

 弥介は久しぶりに、少し心が明るくなった。

 お清がこのまま姿を消すなんてことは、この時だけは考えないようにする。

 

 暮らしの目処めどが立ち、今度は村での立場固めの番だ。

 お胤の噂のある弥介と、素姓の分からないお清。

 変わり者同士、似合いの夫婦と認められるかも知れない。

 認めるも何も、最初から弥介とお清は出来ていると、村の連中は思っている。夫婦じゃないと云っても聞かないので、女房と云われても、もう否定するのは諦めていた。

 弥介は構わないが、お清が他にいい人が出来た時には、困るだろう。

 女の気持ちは、特にお清の気持ちは、弥介には想像も付かない。

 こんな弥介でも、ずっと側にいたいと云ってくれるか、ある日突然弥介の前から姿を消すか。

 いなくなることを考えると不安になるが、弥介は出来るだけ何も考えないようにして、弥介は干し魚を飲み込み、椀に入れた水で口を濯いで、食事を終えた。

 

 午後になり日が陰ってくると、弥介は木箱に干し物をとり入れ始める。

 毎日漁に出ていた頃は、干物作りなんて女子供や老人の仕事と馬鹿にして作ってこなかったが、意外に手間の掛かる仕事だと云うのが分かる。

 俄か雨や、猫や鳥にも気を付けないといけないし、風の通りも良くしてやらないと蒸れて黴の元になる。

 外に干していた物を木箱に全部移してから、弥介は小屋の中に入った。

 女子供や老人では力が足りないので、何度かに分けて家の中に運ぶが、猫もちゃあんと心得たもので、そう云う隙を狙ってちゃっかり失敬していくのだ。

 もしかしたら小浜こはまで、腹一杯食べているのは、船元を除けば猫かも知れない。

 

 弥介は、土間の中で、木箱から棚に、その日の出来を確かめながら、仕舞っていた。 

 その作業の最中、小屋の外で慌ただしい足音が聞こえ、大声で名前を呼ばれる。

「弥介」

 戸口に現れたのは、今日の話題を攫っていた船元の芝田の旦那、作兵衛だ。

 作兵衛は血相を変えて、泡を飛ばしながら怒鳴った。

「私らの娘を、良くも誑してくれたな。娘は死ぬところだったんだぞ」

 船元にコンコンと理を諭されたりすると、勢いの消える弥介だが、怒鳴りつけられては、黙っていられない。何も考えなくとも、口から文句が飛び出してくる。

「何の話をしてる。頼まれたって、お前らの娘みたいなのに手ェ出すか。それとも何か、あいつはオイラに岡惚れして、それでおっ死のうとしたとでも云うのか?」

 弥介がそう言い返すと、作兵衛も顔を真っ赤にして怒鳴り返してくる。

「馬鹿にするな。知らない振りは止めろ。あの女もあの女だ。恨むなら私らを恨め。娘は生まれてもいなかったんだぞ」

 弥介は、うるせぇ、訳の分からないことばかり抜かすんじゃねぇと言い返そうとする前に、フッと正気に戻った。

 怒鳴られた為に反射的に怒鳴り返してしまったが、元々作兵衛とは諍う道理がない。弥介は慌てて、

「ちょっと待て。お前んとこの馬鹿な娘が海に飛び降りたのを、オイラの女房が救ったんだろう」と、言ってやった。

 作兵衛は、苦痛と絶望に顔を歪めて、

「誰かから、あの話を聞いたんだろう。だから、こんな呪いの掛かった物を寄越したんだろう」

 と、云って、手に握り締めていた物を、土間に叩き付けた。

 それは、壊れて汚れた髪飾りだった。お清の作った物に、間違いはない。

 弥介は、ようやく事の絡繰りが分かり、憤然と鼻を鳴らした。

 お良が、崖から落ちたか飛び降りたかしたのは、お清の作った髪飾りの所為だと云うのか。屁理屈を捏ねて、言い掛かりを付けているだけではないか。

 弥介は、たっぷりの侮蔑を込めて、

「何が呪いだ。お清は母親と関係ない。おっかぁだってお清だって、この村に恨みなんて持っちゃいねぇ」

 作兵衛は、最初の激しさもどこへやら、今にも泣き出しそうな顔をして、

「金なら出す。だから娘には、手を出さないでくれ」

 懇願した。

 弥介にはまだ良く分からないことだが、自分の子と云うのは、やはり可愛いものらしい。あんな娘でも、作兵衛にとったら可愛くて仕方がないのだろう。

 作兵衛の姿は、ひたすら娘のことを心配する父親の姿でしかない。弥介は、一度の怒りは収まったものの、理不尽さは消せずに、

「何でそんなことを云われるのか、分かんねぇ。そもそも呪った相手を、わざわざ助けたりするんだよ」

 と、文句を云う。作兵衛はボソッと、

「人に見られたからだろう」

 作兵衛は、怒りとともに激しい恐怖も感じているようだ。弥介は、哀れむような目で作兵衛を見ながら、静かに口を開いた。

「なぁ、オイラの母親はおキヨだ。それとも娘の前でお前が口滑らせたように、違ったってのか?」

 弥介は、ジッと作兵衛の顔を見つめる。

 作兵衛も弥介の顔をマジマジと見ていたが、やがてきびすを返すと、黙って走り去った。弥介が制止の声を掛けたが、作兵衛は立ち止まらなかった。

 訳の分からないものと、弥介は一緒にとり残されてしまう。

 一体、自分の生まれる前に、何があったのだろう。

 このまま何も知らずに済ませる訳には、もういかなかった。

 弥介は、身に覚えのない糾弾を受ける気はない。

 事実を正しく知らなければ、誰が間違っているのかも分からない。

 

 弥介は、二十年前に既に大人だった物話を聞く為に、作業もそのまま家を飛び出した。但し、壮年の男や女を掴まえて問い質しても、知らないと云う答えしか返ってこなかった。

 本当に知らないのではなく、何か隠しているのは分かる。

 しかし一人の男が、死に損いの爺さんなら知っているかも知れないと、云ってくれた。

 誰も、自分の口からは話したくないようだ。

 弥介も最初から、そんな爺さんに話を聞きに行けば良かったに違いない。役に立たない年寄りなら、手土産一つで昔のことも話してくれるだろう。

 年寄り達は村に生かしては貰っているものの、村への忠義心など持っていない。

 感謝していない訳ではないが、ダラダラと生きずに死ぬ機会すら奪われていると思っている筈だ。

 弥介は、病気持ちや不具、身寄りのない年寄り達の小屋が立つ村の端には、あまり行かないようにしていた。

 子供の頃は、そんな連中に届けるその日の食料を、良く持って行かされていた。

 親のない弥介は、村全体の子供であると同時に、村全体の使い走りだったからだ。

 

 弥介は一旦家に戻って、出したままになっていた筵を小屋に仕舞い、残りの作業も片付けた。

 弥介は、竿魚かんぎょ一つと雑穀を少量袋に入れて手土産として、家を出た。

 そだ集めの仕事がまだあったが、帰りに十分出来る時間はあるだろうと思う。弥介は小袋一つ持って、墓の近くにある一人の老人の家を訪ねた。

 老人は、海での事故で足を潰した所為で、墓のきわに追いやられた。

 弥介は爺さんとだけ呼んできたが、人は吉爺きちじいなどとも呼んでいた。

 働けない者は、暫くすると、墓の際に移って貰えないかと云う声が掛かる。

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