疑惑
「オイラのおっ母ぁは、おセイじゃなくおキヨだ」
お良は、勿体を付けた調子で、
「おセイって聞いたけど、違ったのかしら」
弥介は、聞き間違ったんだろうと、冷たく答える。
弥介は、汁の溜った器をとって、じょうごの縁で傾ける。竿から出た汁は貯めて、野菜を炊く出汁にするのだ。
お良は、鬼の首でもとったような居丈高な口調で、云い切った。
「聞き間違えようがないわ。だって父様は、髪飾りを買ったりしたら、死んだおセイに呪われるって云ったんだもの」
弥介は驚いて、汁をじょうごから溢れさせてしまう。弥介は、今はまじまじとお良の顔を見上げていた。
お良は、弥介の注意を引けて満足そうに笑いながら、
「おセイって誰って聞いたら、あんたの母親だって云われたわ」
弥介は、何だって?と云うが、その声は奇妙に凉れていた。
例え弥介が何も云わなくても、お良は次の言葉を云った筈だ。
お良は弥介を嬲るように、
「多分、父様達は、おセイさんの生まれ変わりだと思ってるんだわ。長生き出来なかったのを恨んで、女達に呪いを掛けて回ってるんだと信じてるんじゃないかしら。呪いなんて信じるのは、愚か者だけよ。呪いなんて有り得ない。それに生まれ変わりだと云うのも変だわ。あなたのおかみさんがお母様の生まれ変わりなら、母親と一緒になることになるじゃない。そんなの不謹慎だもの。単に名前が同じだけなのよね」
弥介は、最後まで顔を上げていることが出来なかった。
頭の巡りの良くない弥介には、お良の話を、その場で理解することは出来なかった。
考えようとはするのだが、麻痺したように頭が働かない。
それでも弥介は、必死でこれだけ云った。
「オイラのおっ母ぁは、お産で死んで、恨みを残すような人じゃねぇ。と思う。死んだんじゃなく、殺されたとでも云うんなら話は別だろうが」
弥介は、自分で云った言葉に、自分で仰天した。
何か大事なことが分かったような、気だけがした。
お良は微かに目を細めて、軽蔑的に、
「あなた。そう云えば、不義の子なのよね。刺客が来て、お手打ちされたのかも」
弥介は、おセイと紹介した時に、妙な態度をとった村の連中の態度が、ようやく分かってきた。
弥介の母の名が、本当はおセイだったと云うなら、当時を知っている者が驚くのも無理はない。しかし、弥介は母の名はおキヨだと教えられてきた。
村ぐるみで、何かを隠そうとしてきたのかも知れない。
弥介は、嫌な笑いを洩らしながら、思い付いたことを云ってみる。
「それとも金に目が眩んで、村の奴がおっ母を売ったか、だ」
弥介の心の奥の暗い炎に、僅かに風が吹き込んだかのようだった。
お良は、その火を目にしたかのように、一歩後退さった。お良は、娘らしい潔癖さで顔をしかめる。
「呪いよりあなたの言葉の方が、よっぽど気持ち悪いわ」
お良は、髪飾りの件をおセイに頼むよう繰り返し、くれぐれも内密にしてくれるよう念を押してから、そそくさと弥介の前から離れて行った。
弥介は、母親の名前のことを、誰かに問い詰めようかどうか考えた。何かが実際にあって、村全員の不利益となることなら、誰も口を開かないだろう。
母親の名がおセイと云ったかも知れないと云うことは、お清には云わずにおこうと決めた。因縁めいたものを思わせ、お清が気を悪くするかも知れない。
そう思った弥介は、朝に辰吉に云われたことも、お清には云わないことにした。
荒い海をなぜ泳げるのかと問い詰めて、人ではないなどと云う答えが返ってくるのが怖いからだ。
弥介が聞かなければ、本当のことも知らずに済む。
弥介は、溢れさせた時に指に付いた汁を舐めて、器を元の場所に仕舞い、とっくりは日陰に寄せた。
草むらでは先ほどの猫が、隣の家から失敬したらしい干し魚を大事そうにしゃぶっていた。
辺りには、日が燦々と差していて、普段と何一つ変わらない村の午後の光景が広がっていたが、最前聞いた話の所為で、弥介の目には何もかもが陰欝に見えて仕方なかった。
*
辰吉が来てから十日ほどは、何事もなく過ぎていった。
お清への目が厳しくなるかと思っていたが、心配したほどではなかった。
人には泳げぬ荒い海を泳いだことより、弥介が女を侮辱されて、辰吉を張り飛ばしたことの方が、女には重要なことらしい。
髪飾りを頼んできたお良には、九日の日に品物を、金と引き換えに渡してあった。
その日も、お清は朝早くから海産物を集めに出掛け、弥介は留守番をしていた。
日が高くなる前に、何やら浜の方で騒ぎがあった。土左衛門でも打ち上げられたかと、弥介は気にも留めていなかった。
男達が漁に出ている時ならともかく、男手は足りているので、弥介が出て行くこともない。必要ならば呼びに来るだろうと、覗きにも行かなかった。
干物の番をしていた者がいなくなると、こことばかりに猫が、隣近所の家の干物を掠めとっていくのを、弥介は面白がって眺めていた。
暫くすると、覗きに行っていた者達も戻って来て、聞いてもいないのに何があったか弥介にも聞かせてくれた。
屏風岩から誰か落ちたか飛び込んだかしたが、舟に救われて助かったと云うものらしい。
時折、屏風岩から、身投げする者は出る。
この村では、生かして貰えるとは云っても、生ける屍のようなものだ。ただ生きるだけの生に空しくなって、死を選ぶ者もいる。
他の村からすれば贅沢と思われるかも知れないが、最低限の生活が保証されていても、それだけでは人は生きているとは云えないのだと、この村に生まれた弥介なんぞは思う。
屏風岩から飛び降りたら最後、着物の切れ端ぐらいしか、戻ってこない。
たまたま人目があり人を呼べて、しかも舟が近くにいて、運良く引き上げることが出来たのかも知れない。
もしかすると飛び降りる場を見たのは、お清かも知れないなと、弥介は思っていた。一日中ではないが、とにかく朝の内は、お清は磯の方にいるらしい。
女どもは姦く、集まって噂話に興じていた。
猫は一応なりとも腹に入れる物は腹に入れて、日向ぼっこをしていたし、女達の喧しいお喋りの声に驚いて、海鳥達は目が離れている隙を突いて、干物を狙って降りて来ることもない。
情報収集にも達者な女達のお喋りのお陰で、弥介にも大体のところは分かった。
女が一人加わるごとに、情報は新しく更新され、細部も詳らかになっていく。
但し女達の興味は、専ら自分好みの推測を、披瀝し合うことにあるようだ。
飛び降りたのは、病人でも老人でもなく、船元の娘だったらしい。
しかも、弥介にとってはまだ耳新しい、お良の名が飛び込んできたものだから少しは驚いた。
村の女達は、事故か、意に染まぬ縁談でも勧められた上の身投げかと、好き勝手な憶測を立てている。
船元の家中の事情は分からないが、村の人間のことなら、誰と誰が懇ろかまで筒抜けだ。
お良に関して云えば、若いのが懸想していると云うことも、なかったようだ。
娘と云っても小娘、花でも手折ろうとして落ちたのだろうと云う意見が優勢のようだった。
船元の娘が、恋煩い以外に、命を絶とうとすることなど有り得ないので、弥介もそんなところなのだろうと思う。
勿論、お良に云われた呪いと云う言葉は、頭に残っていた。
芝田の娘と言うことに、チラリと思うことも無くは無かったが、自分とは関係のないことだと弥介は思っていた。
ちょっとした騒ぎはあっても、弥介の身の上に降り掛かったことではないので、平穏無事な一日に変わりはない。
昼になり、弥介は、お清に持たせた昼飯の残りの麦飯で作った塩結びと、干し魚を出して来て、小屋の外で小腹に入れた。
握り飯は二口で消えて、干し魚だけをしゃぶっていると、男が集まって、弥介の方にゾロゾロとやって来た。
若い男なら、すわ喧嘩かとも思うが、最近は弥介を避けていた様子の壮年の男達も混じっているので、村の寄り合い関連だろうかと、弥介は一応神妙にしていた。
弥介は別にまだ、村八分にされていた訳ではない。
「おかみさんは、もう戻ってるか?」
そんなふうに声を掛けられ、あまり滅多なことは云わない方がいいと思った弥介は、短く、
「いや」とだけ、答える。
何処にいるか分かるかと重ねて聞かれたが、弥介が答える前に仲間内で、混ぜ返す声が上がった。
お前は、嬶が何処で何してるか分かるか、分からねぇだから聞いても無駄だと、言い合っている。
声が大きいので、怒鳴り合いと変わらないが、別に怒っている訳ではない。
何が何だか分からない弥介は、顔をしかめながら、
「何なんだ一体?」と、聞く。
弥介はともすると忘れられていたようで、思い出したように、最初に質問してきた親父が口を開いた。
「屏風岩から娘っこが落ちたのは、知らねぇ訳じゃねぇだろう。娘っこを助けたのは、お前の女房だ。磯から離して、舟を回すまで、支えてくれたんだ。お前の女房は、娘だけ寄越して、着物が磯にあるからと行っちまった。娘を浜に運んだり手筈整えて、お前の女房さ探しに行ったんだが、見つからないんだ。ここに戻って来てるかと思ったんだが」
男達は、悪意のない様子で、キョロキョロと弥介の小屋の方を窺った。