不審
辰吉は、途端に勢いを失って、そう言う訳じゃねぇけどと、ブツブツ言った。
その後で辰吉は機嫌を損ねて、弥介を睨んだ。
「お前の女房は、ぜってぇ変だ。オイラは、お前のことを心配して言ったんだからな。後でどうなっても、オイラが忠告したことだけは忘れるなよ」
辰吉は、そう捨て台詞を残して、弥介の前から去って行った。
弥介の口には、苦い物が残った。
お清と静かに暮らすことだけが、今の弥介の夢だった。
お清の作った簪が売れたことで、やっかまれるのは仕方がないと諦めていたが、辰吉の言葉は別の心配があることを思わせた。
お清はその内、村人達に寄ってたかって、化け物にされてしまうかも知れない。
弥介は、そんなことはないと自分に言い聞かせるが、嫌な想像は頭から離れそうになかった。
*
午後になっても弥介の頭からは、辰吉に言われたことが、頭から離れなかった。
辰吉と弥介の一件は、お喋りな女達によって、村中に伝えられるだろう。あること無いこと、尾鰭を付けて。
これからは、余計に人の目が気になりそうだ。
誰もが、弥介とお清を、陥れようとしているように思えてくる。実際妙な噂が立てば、村八分にされることは想像に難くない。
村と言うのは、そう言うものだ。共同体であるからこそ、そこに波風の立ちそうなものは、排除される傾向にある。
排除しなければ、共倒れになるからだ。
神経がささくれ立っていた弥介は、小屋の周囲で何かの気配がするのに気付いた。早速気の早い誰かが、弥介達を偵察に来たのかと、腹立たしく思う。
「誰だ。人ん家に何の用だ」
弥介は厳しい声を、張り上げた。声に驚いたのか、小屋の横からダッと猫が走り出してくる。
肥えたブチ猫は、弥介を恨みがましい目で振り返ってから、ノソノソと離れて行った。弥介は思わず、笑いそうになる。
神経質になり過ぎて、猫の気配にまで反応してしまうなんて、我ながら自分がおかしい。
その時、草履の擦れる音がして、猫が出てきたのと同じ方から、一人の小娘が現れた。小娘は、先程の猫のような恨みがましい目で弥介を見ながら、不貞腐れた。
「そんなに、乱暴に云うことはないでしょう」
漁師の娘なら、色気付いてきて、若い男に興味を持って、寄って来ることもあるが、役に立たなくなった弥介の所に、わざわざやって来る娘もいない。
弥介は目を眇めて、それが何処の娘か思い出そうとする。
漁師の子なら、名前も年も良く知っている。
船元の血縁者のことは、弥介は良く知らなかった。他の若者達のように、わざわざ知ろうとも思わない。
町に行けば、幾らでも美しい娘や女がいる。
幾ら美しくても、自分達をいいように使っている船元の娘に、弥介が興味を覚えることはなかった。家からあまり出歩かない、妻子や妾の顔は、すぐに誰とも分からない。
弥介は訝り疑ぐりながら、念を押すように、
「芝田の娘か?」
船元は、娘を金の力で良家に娘を嫁がせたりしているので、名字を持っている。
小娘は物怯じしない様子で、
「お良よ」
自分の名を知らないなんて、心外だと言わんばかりだ。
漁師の若い男は、船元の娘といい仲になって、婿にとり立てて貰い、残りの人生を楽に暮らしたいと必死になり、年頃の娘を持つ親達は、村の男に手を付けられないよう、娘を遠ざけ、出来る限り格式の高い家に嫁がせよう、または婿取りしようと必死になっている。
実を言えば、船元の娘に言い寄られたこともある弥介だ。
何処の誰か分からない父親の血の所為か、弥介の顔は、村の男達にはない端麗さがある。
弥介は、美しく着飾ってはいるが凡庸なお良の顔から目を逸らし、水抜きをしている竿の型の下に入れた器を覗き、愛想なく、
「こんな所で何をしている。隠れん坊する年でもなかろう」
鉢の中には、半分ほど汁が溜っている。弥介は、近くに置いてあったひさごのとっくりを手元に寄せる。
お良は、弥介の前まで回って来ると、仁王立ちになって、高飛車に、
「髪飾りを作って欲しいと、おかみさんに頼みに来たのよ。昼間は家にいないって聞いたけど、日が暮れてからじゃ、家から出して貰えないし。本人に会って、私に合う物を作ってくれるよう言いたいけど、次にいつ家を抜け出せるか分からないし、仕方ないけど、あなたに言っておくわ。おかみさんに良く言っておいて頂戴」
船元の娘達にとっても、大抵の漁師の若い男など、興味の対象ではない。
親達が、興味を持たないようにさせているのだ。
汗臭く無骨で、品がないと言って見下している。
金に飽かせて、蝶よ花よと育てられているのだ。漁師など、同じ人間としても見られていない。
贅沢なその暮らしを支えているのが、漁師であると言うのに。
弥介は皮肉たっぷりに、
「わざわざ自分で来るとは、御苦労なことだ。夜にでもオイラ達を、呼び出せばいいじゃないか」
お良は、何を言っているのかと言わんばかりに、
「髪飾りは、父様と母様には内緒なんだもの。それ以外で、あなた達を家に呼ぶ理由がないじゃない」
お良は、見下しすらしていない。
子供の頃から、それが当り前だと教えられて育ってきているのだ。
船元の家と漁師は、違うのだ。お武家さんと、村の者が違うように。
弥介は、妙にサバサバした気分で、そりゃそうだと言って笑う。お良は、弥介がツンケンしていたから、自分もそう言う態度になっていたのだろう。
普段は気立てのいい、と言って誉め過ぎならば、愚かな小娘に過ぎないようだ。
弥介が笑うと、気分が解れた様子で、喋り出した。
「それにしても、父様達ったらひどいのよ。あなたのおかみさんの髪飾りは、絶対に買ってくれないと云うの。お美代ですら持ってるのに。町でもっと高い物を作らせるって父様達は云うけど、私はあなたのおかみさんの作ったのが欲しいのよ。私だけ持ってないなんて、絶対我慢出来ない」
お良は、癇性の強い声で言って、足を踏み鳴らした。
楽な暮らしの為に、お良でも嫁にしたいと思う男もいるだろうが、弥介にはその気持ちは分からない。弥介は、お良と夫婦になる男に同情した。
お良は弥介の頭の中など知らないので、命じ慣れた様子で、
「だから、父様達には、内緒で作って頂戴。お金はあるの。髪飾りを買ってくれない代わりに、好きなだけ装身具を買っていいって、お金を貰ったから」
弥介達にとっては、僅かとは云っても何物にも代え難い金は、お良の両親にすれば、小遣いとして娘にくれてやれるほどの金なのだ。
漁師の子など、小遣いに銭など貰えず、甘く煮た芋や干し魚が小遣い代わりだった。
真珠それだけの値段に比べれば、遥かにいい値が付くと云っても、所詮足元を見られていることに代わりはない。
勿論お清の髪飾りが売れた代金は、弥介達にようやく人並みに暮らせる余裕を与えてくれた貴重な金だ。
元がすっからかんだったものなので、小屋や鍋釜の修理代など、暮らしを立て直すところから始めなければならず、とんとんではあったが、もう少しすれば貯蓄に回す余裕も出てくるだろう。
弥介は、勿論世の中が甘くないことを知っていたので、いつまでも髪飾りの収入があるとは思っていなかった。
流行り物は廃り物。
始まった時と同じように、不意に止んでしまう。
その為に、今金があるからと云って、余裕のある暮らしはせず、最低限の生活を続けていた。
弥介は、もうお良を見ずに、型の下の汁受けの椀をとり出しに掛かる。
「金を貰えるなら文句はない。順番待ちだから、十日ほど掛かる」
弥介は、目を落として素っ気無く云う。お良は、
「十日と云わずに早くして、出来次第連絡して頂戴。勿論、父様達には知られないようにね」
と、生意気な口を利く。
弥介は、おざなりな返事だけして、心の中では毒突いた。その為に、お清の寝る時間が削られるのだ。
弥介の内には、稼げる内に稼いでおきたいと云う気持ちと、お清を心配する気持ちで揺れていた。
両親の許しを貰っていないお良の頼みを断るぐらいはた易いが、船元直々の依頼は断れない。断れば、後々まで恨まれることになる。
船元達にとっては、妻子や妾の機嫌を損ねることが、何よりも怖いことのようだ。
弥介は、これでお良の話は終わったものと思っていたが、お良は立ち去る気配がなかった。
弥介は、お良を無視して、とっくりにじょうごを差し掛ける。
お良は好奇心に満ちた様子で、
「すごく気になってるんだけど、おかみさんは、お母様と同じ名前なのね」と、云ってきた。