名も無き女
弥介には、女の気持ちがどうにも掴めない。本当に弥介が好きなのか、村の者と通じておく方が何かと便利がいいと思っているからか。
足萎えの女にとったら、海に出られない稼ぎのない男でも、有り難いのか。
弥介は顔をしかめて、女に釘を刺す。
「貴方様はよしてくれ――と云っても、オイラの口からは名乗っていないか。名前は知ってるのかも知れないが、オイラは弥介だ」
弥介は空になった椀と、木杓子を女に差し出す。女はそれを受けとりながら、
「弥介様」と、繰り返した。
椀を手渡す時に女の指に、弥介の指が微かに触れた。
ひんやりとした靭かで滑らかな指だったが、弥介はそんな指を以前から知っていたようなおかしな気分になる。
女の指は、働いている平民の女の固い指でも、芸事で荒れた遊女の指とも違う。
女のような指を持つ者は、想像も付かないし、そんな指の女と触れ合ったことだってない筈だった。
大名屋敷の奥女中なら、そんな指をしているかも知れないが、弥介の母親は弥介に触れることも適わなかった筈だ。
母の指を、弥介が覚えている筈もない。
弥介は眉を顰めて、様は余計だと言い返してから、
「あんたの名は?」と、聞く。
途端に不自然な沈黙が生まれ、女は俯いて肩をすぼめた。弥介が怪訝に思っていると女は、途切れ途切れの声で、
「名前はありません」
と、云った。弥介は思わず、裏返った声を上げる。
「名前がない?」
女は責められたかのように、身体を小さく縮めた。
弥介は、本当にどこかで聞いたことのあるような話だと思いながら、
「名前を捨てて、一からやり直すってのか?」と、聞いた。
女は、我が意を得たりと云うように、コクコクと小さく首を振って頷く。弥介は、言葉を失った。
「良かったら、貴方が妾の名を付けて下さいませんか?」
弥介は、眉間の皴を深くする。
「そんな難しいこと、オイラみたいな学のない男に云われてもな」
「貴方の呼び易い名前で、宜いですから」
女は慎ましい様子で、云う。
弥介は、今までに出会った女の名前の中から、良さそうな物がないか、とりあえず考えてみる。
美しいと思った名前も幾つかあるが、以降その名で呼ぶとなると、簡単には決められない。女は黙って、弥介の言葉を待っている。
弥介は考えた末に、ポツリと云った。
「お清」
女は、確かめるようにその名前を繰り返す。
「おセイ」
弥介は、名前の由来を聞かれる前に、自分から話した。
惚れた女や、憧れた女の名前ではない。
「オイラのおっ母ぁと云う人も、他所者でこの村に流れ付いたんだが、名前は名乗らなかったそうだ。村の奴は、おキヨって呼んでたそうだが、キヨじゃおっ母ぁの名前になるから、おセイ」
自分の母親の名前から付けると云うのもおかしいかも知れないが、この女の来し方を思えば、その名が一番しっくりくる。
女の指から、母の指を想像してしまった所為もあるかも知れない。
弥介は、気に入らなければ別にいいと云おうとするが、その前に女は、
「良い名を付けて戴けて、嬉しゅうございます。一生大事に致します」
と、云った。女が本当に嬉しそうだったので、弥介も何だか嬉しかった。
「ほら、食えよ。あんたの持って来た飯だ」
弥介は、ゴロリと横になる。
新たにお清と名付けた女は頷いて、木杓子で鍋の中身を椀に掬った。
小屋の中が温まり、腹も一杯になったお陰か、弥介の心を蝕んでいた憎悪も、勢いを失くしたように見えた。
外で吹き荒れている嵐も、今の弥介には気にならない。
弥介は襲ってくる睡魔の中で、自分は以前から、お清を知っていたような奇妙な感覚を覚えた。
お清は見かけただけだと云うが、弥介は弥介でお清を見かけていたのかも知れない。
勿論それは、弥介の思い込みに過ぎないのかも知れないが、満ち足りた今はどちらでもいいことだった。
*
お清は、出て行けと云われるまでは何処にも行かないと云った通り、弥介の家に居を定めた。
お清の言葉には、全て偽りがなかった。二人分の食材を調達出来ると云うのも本当だったし、普通の嫁のように働けないと云うのも本当だった。
お清は、一日の大半を家を出て過ごす。
帰って来た時には、その日の夜から次の日の夜まで食い繋げるだけの食料だけでなく、保存してとっておけるほどの海の幸を携えている。
お陰で、食べ物には困らなくなった。
施しを与えてくれる相手が、村の者からお清になっただけと云う気はする。
弥介は、お清が来て十日経った今も、海に出ることが出来ない。
お清がいない昼間、弥介は干物の番をしたり、お清から作り方を教わった竿や練り物を作ったりして過ごしている。
その為に村人からは、足の弱い嫁を働かせて、弥介は何もしていないと馬鹿にされる。
お清とは夫婦になったつもりはないが、村の者達はどうせ嫁の来手はないのだからと、勝手にお清を嫁扱いしている。
村の者達は、弥介を馬鹿にするだけでなく、お清に対しても、嘲るような態度をとっている。
足が弱く疲れ易いことも、弥介のような男を伴侶に選んだことも、そもそもその辺りの女には見られない膚の白さや、潮焼けとは無縁の艶やかな黒髪、ほっそりとした身体付きに始まって、立ち居振る舞いや物の言い方まで論いの対象とされている。
嫉妬と同時に、自分達とは異なる者を受け入れない、閉塞的な村の精神風土も影響していた。
お清はお清で、村の者とは出来るだけ関わらないようにしているようだ。その為に、いつまで経っても互いの溝が狭まらない。
それ以前に、村の一部の者は、お清を気味悪がっているようだった。
その理由は分からないが、おかしな反応をされたのは、弥介がお清が来て最初の頃、人に聞かれる度に、遠くからこの村を目指して来たお清だと紹介した時点からだった。
最近では弥介まで、それらの人には避けられているような気がする。
お清や弥介のことを、妙な目で見る者は、四十前後以上の年齢の者と決まっていた。それ以下の者は、囃し立てたりからかったりと、変わった他所者に対する反応しか見せていない。
四十前後と云えば、弥介の母親がこの村を訪れた頃はもう大人で、弥介の母のことも知っている者達と云うことになる。
名前が似ていることや(母親の名前を文字ったのだから、当たり前だが)境遇が似ているのを、因果に絡めて思ったのかも知れない。
そもそも、年をとると迷信深くなるものだ。
弥介ですらも、何とはなしに、お清に母を重ねてしまったのだ。
但しお清は、身重ではない。それどころか多分、まだ生娘だ。
一緒に暮らす内に、夫婦になるのもこれが定めだったかと、お清と契ろうとしたが、お清があまりに怖がった為に、結局腕に抱くだけに留めた。
もしまた、あんなふうに怯えられたらと思うと、弥介の方も怖くて、もう一度試そうと云う気にはなれなかった。
弥介とお清は、夫婦どころか男と女の関係にすらなっていない。そんなことを知られれば、口さがない連中にまた何と云われるか分かったものではない。
夫婦でも恋仲でもないが、弥介とお清は二人だけの時は、平穏に暮らせていた。
海の幸には事欠かないが、相変わらず米や麦とは縁のない生活が続いている。
荷運びの役があればいいのだが、船主は船主で、出来る限り賃金の必要のない子飼いの連中だけに荷を運ばせようとするので、手に余る時にしか弥介には回って来ない。
回される時は、若くて力がある者が選ばれるので、早くに弥介にお呼びが掛かるのも、あと数年のことになるだろう。
この十日の間には、弥介に出来る仕事はなかった。珍しい食べ物なのでと竿を作って売ろうとしたが、珍しいだけでは殆ど誰も買ってくれなかった。
琉球国の黒糖だ、外国の食べ物だとなると、旨いのか何なのか分からなくても金を惜しまず払う船主達にも、お清の郷里の料理だと云っただけでは見向きもされなかった。
お清は、自分のことを全く話さない。
もしかしたら、山の奥にあると云う落人の里や、蝦夷の人々の村から来たとも考えられる。
そうならば、魚を使った長持ちのする様々な保存食が考え出されたのも頷けた。
小浜のように、いつでも海産物に恵まれた土地でなくても、塩浸けや干し物にするぐらいの知恵しかないものだ。
だが、そんな所から来たのなら、軽々しくは打ち明けられないだろう。
そして弥介は、話さないことに自分の母を重ねてしまう。
その為、詳しく問い詰めようと云う気にはなれないのだった。もし聞き出して、自分が碌でなしや凶状持ちの子供だと分かったら、嫌だからだ。
勿論お清は弥介の母親などではなく、そんなことを云われる訳がないのだが、敢えて聞くことはしてこなかった。