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女の思惑

「明日も雨風は、収まらないかも知れないじゃねぇか?」

 弥介が言い返すと、女は、静かだがきっぱりとした様子で、

「いいえ。明ける前には、静まります」と、云った。

 年寄りの中には、空模様や海の目を良く読む者もいる。弥介は、

「古傷持ちの爺様が、嵐が来る前には傷が痛むって騒ぐが、それと同じであんたは嵐がいつ止むのかも分かるのか?」

 と、聞く。女は、気弱な様子に戻ると、

「大体は」と、答えた。

 やめばやんだで、やまなければやまなければで、どうとでもなる。

 とにかく今夜一晩は、満ちた腹を抱えて眠りに着くことが出来るだろう。

 弥介は鍋を持って、囲炉裏の側に寄ると、鉤に鍋を吊した。弥介はそれから、差し出すのも恥ずかしくなるような古着物の布団を、女の方に押しやった。

「濡れた着物は脱いで代わりにこれを巻いて、上に上がるといい。泥は出来るだけ落としてくれ」

 女は動こうとしない。弥介は、

「どうした。恥ずかしいのか」

 と、からかう。女は小さく頭を振るが、弥介は、

「村の女なんて胸乳むなぢも露わに、浜で働いたり、海に潜ってるが、そんなものこっちは見慣れてる」

 そう云った後で、弥介はとっくりと女の姿を眺めた。

 長い髪は束ねるでもなく滝のように流れ、俯いた顔に陰を作っている。

 女の着ている着物は、渋で染めたような色だが、柄物だった。

 村の女のように何枚かの着物を縫い合わすことで出来た柄と云うのではない。花だの翼を広げた鳥だのが、渋茶色よりも濃い色で浮かんでいる。

 弥介はふと思い付いて、聞く。

「その着物は古いが、いい物だろう。あんたは昔は、どこかのお大名の隠し子で、いい暮らしでもさせて貰ってたって云うのか?」

 大名のお胤ではないかと云われていたのは、弥介である。

 弥介の母親は奥女中で、大名の御手付きになり、正室に追い出されてこの村で弥介を生んだと云うのである。

 母親は別に、父親が誰かも云わなかったし、大名の側仕えであったとは一言も云っていない。

 それだけでなく、何処そこ村の誰の娘だとすら云わなかったようだ。

 村人達は、子だけ残して死んだ哀れな名も知れぬ女に同情して、憶測の中だけでも華やかな身の上を作ってやったのかも知れない。

 女は首を振りながら、

「いい物だったのかも知れませんが、妾は単なる賎しい女に過ぎません。ただ、妾がこれを着たら、貴方様の着る物がなくなってしまいませんか?」

「一晩中火があるなら、オイラはこのままで平気だ」

 弥介は木杓子を持って、女に背を向けて囲炉裏の鍋に屈み込んだ。

 杓子で鍋の中を掻き混ぜながら、背後の女に話し掛ける。

「これは何て食べ物だ?」

 女が、服を脱いでいるらしい気配がある。

竿かんと云う保存食で、魚の肉を毟った物に小海老や海草、時には貝や蛸やイカを混ぜて干して固めてます。水に戻して煮るので、あつものの魚で羹魚とも云います」

 長四角の塊は、水を吸って解れて、鍋一杯に広がっている。

 白いモロモロの中に若芽や海老が、たっぷり見え隠れしている。

「ふぅん。なかなか良く考えてあるな。味噌か米があれば、一緒に炊けてさぞかし旨いだろうにな。勿論、腹一杯にさえなれば、今は何でも有り難い。米どころか、麦すら暫く食ってねぇんだ」

 弥介の言葉に、女が驚いた様子で、

小浜こはまは、豊かなのではないのですか?」

 と、聞いてくる。

 弥介の様子を一目見れば、分かるだろうに。

 豊かだ豊かだと云うが、その豊かさと云うのは何だろう。

 他村の者なら、飢えることなく毎日腹を満たせることが、豊かさだと云うだろう。そう云う豊かさは、弥介は知らない。

 弥介が知っている豊かさは。

「毎日米の飯を食い、鯛の塩焼きを食べ、本物の砂糖で作った菓子だの、酒だのあって、奇麗な着物をとっかえひっかえしたり、舶来物の器を飾る為だけに手に入れたり。そんなことが、たかだか船元で出来る村は他にはないだろうさ。普通豊かな網元ったって、大きな屋敷を作らせるぐらいが関の山で、毎日米の飯は食えないもんだ。殿様だの大名だの米問屋などの商売人みたいな暮らしが、船を持ってさえいれば出来るんだから、ここは豊かな村だよ」

 弥介は、そう云って空しい笑い声を上げる。

 知っているだけで、弥介には一生縁のない暮らしだ。腹一杯食べられることが豊かさだと思っていられる方が、幸せだろう。

「船を持っていない者にとったら、どうなんです?」

 聞いて極楽見て地獄。

 小浜こはまは、貧しい者にとっての救済地ではない。貧しい者は、いつまで経っても貧しいままだ。金のある者だけが、小浜で成功出来る。

 弥介は、必死にこの村に縋ろうとやって来た女を哀れみながら、

「生き地獄かな。飢えて死ぬことは許されず、働ける内は働かされて、その褒美に働けなくなったら、死なない程度に生かして貰える。誰も飢え死にしないってことが、この村全体の豊かさだ」

「船を持っている者だって、働けなくなる時は来るでしょう? そうなったら、別の人が船を買い取るんですか?」

 おかしなことを云う女だ。

 弥介は、毒々しい口調でせせら笑う。

「船元は働かない。船を持ってても、走らせ方一つ知らねぇ。そもそも、海に出たことのある奴もいないんじゃないか」

「じゃあどうやって、贅沢な暮らしが出来るんです?」

 女は更に、重ねてくる。弥介は、浮かせていた尻を床に付け、胡坐を組んだ。

「船を買えない代わりに、船に乗るオイラ達がいるからさ。船に乗せて貰う代わりに、オイラ達は、一日に自分達が食べる雑魚以外は、船主に渡す。船主はそれを売って税金を除けて儲けた金から、オイラ達に日々の賃金を払う。船主が上がりの殆どをとっちまうが、それに文句は言えねぇ。云ったら仕事を干されて、こっちはおまんまの食い上げさ」

 鍋の中身からは、今までに嗅いだことのないような匂いがする。

 女が最後に入れた粒の所為だろうか、鼻腔を刺激するような匂いだが、不快ではない。

「沖に出なくても、小さな小舟があれば、船などなくても、磯釣りで一日の食べ物は得られるでしょう? 誰も船に乗らなければ、船主だって困るんだから、行いを改めるんじゃありませんか」

 所詮、浅知恵だ。この村のことを良く知らないから、云えることだろう。

「魚介類だけ食べてたら、身体が保たねぇよ。麦や米や野菜を買うには金がいる。着物だって十年も二十年も着られやしない。汗水垂らして海で働いてりゃ、布なんてすぐに駄目になる。最低でも一年に一枚は着物がいるし。病気になったら、医者にかかるのにも薬を買うのにも金がいる。女や子供に、奇麗なもん旨いもんをやりてぇと思ったら金がいるし、たまに酒を飲みたいと思っても金が掛かるんだ」

 しかも村で売っている物は、他よりも相場が高い。

 いい物を安く売っていると云うが、そんな良心的な商売はあるまい。高くたって買うしかないのが分かっているので、足元を見られているのだろう。

 女は震える声で、云った。

「船主が、毎日米を食べる代わりに麦にすれば、浮いたお金で村の人みんなが麦飯を毎日食べられる。奇麗な着物を毎日着替える代わりに、村人全員の一年分の着物が買えるでしょうし、飾る為の舶来の器の代わりに、村の全ての女が、髪を梳く為の櫛が買えるでしょう。船は村全体の物。漁で得た物もそう。そうしておけば、貴方様が云うような慎ましい暮らしは、全ての人に行き渡るのではないですか?」

 弥介は、向けようのない怒りを覚えて、突樫貪に言い返す。

「一度米の飯の味を覚えた者が、麦飯で我慢すると思うか。絹の着物の代わりに、麻の着物が着られるか。今更汗と血を流して船に乗り込んで、いつ死ぬか分からない危険な辛い仕事なんて誰がしたいと思う。オイラ達だって、船主は狡いと思うさ。米が余ってる時に買い叩いて、貯め込んで飢饉の時に、値を吊り上げる米問屋みたいに悪どいもんだ。でも船主達は、金に物を云わせて武士連中にとり入って、オイラ達が一揆なんて出来ないように、守らせてるんだよ。オイラ達漁民が蜂起したって、皆殺しにされるだけさ。船に乗る者がいなくなるのは、少しの間だけだ。他の村から、藁にも縋りたい貧乏人達を集めて来て、新たな村人にすればいいだけなんだからな」

 弥介はそこまで云って、背後を振り返った。

 振り返った弥介は、思わずギョッとしてしまう。蹲るばかりだった女が、すっくと土間に立っていたことにも驚いたが、女は着物を脱ぎ捨て一糸まとわぬ姿でいたのだ。

 海草が作る青白い光に照らされた女の裸身は、この世の物とも思えない。弥介は、

「馬鹿、早く上に羽織れ」

 と、文句を云って前に視線を戻す。

 女は、その気なのだろうか。

 人の気持ちを計ることが苦手な弥介には、男女の心の機微も分からない。

 知らなくとも、自然に男と女の仲にはなるが、大抵女には気が利かないと笑われる。

 それが物珍しくも映るのか、平民の血には見えないと評される顔形の所為か、弥介は女には不自由したことがなかった。

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