嵐の夜に、見知らぬ女の来たる事
最初にそれに気付いたのは、帰って来て十日ほどして、ようよう身体が調子をとり戻し始めた頃だった。
弥介は、暇潰し程度に釣り糸でも垂れようと小舟を海に出そうとして、それに気が付いた。
舟を海に入れようとすると、足が萎え、腰に力が入らなくなり腕が震えるのだ。
その時は、まだ本調子に戻っていないのに動く奴がいるかと、他の者達に小屋に連れ戻され、自分でも体調が優れない所為だとしか思わなかった。
けれど二十日も経って、すっかり身体が癒えても、弥介は海に出ることが出来なかった。
村人達は、弥介が海で怖ろしい目に遭った所為だと同情して、無理に海に出ろとは言わなかった。最初は誰もが弥介の災難に同情し、保護の手を差しのべてくれた。
弥介は愚かにも、それがずっと続くものだと思ってしまった。
だが、二月経った今はどうだろう。
二度と海に出られなくても、面倒は見ると言った船主も、食い扶持ぐらい稼いでやるから夫婦になろうと言った女達も、弥介の側から離れて行った。
いつまでそのままでいるつもりかと尻を叩かれ責められ、たかが数日漂流したぐらいで、腑抜けになった憶病者だと嘲られ、身体は戻って来たが、魂は海にとられたんじゃないかと云うような、奇妙な陰口を叩かれる始末だった。
初めは弥介も、何かの間違いだと思って、海に出ようとした。しかし何とか船に乗り込んでも、海に出た途端油汗が吹き出し、震えが止まらなくなるのだった。
弥介の漁師としての人生は、確かに終わってしまったのかも知れない。
弥介は、小屋の中に閉じこもるようになった。
村の性質上、働かない者にも最低限の食料は供給される。
同時に、侮蔑や悪意も注がれる。肉体的には、少しも問題のない弥介に対する風当りが強いのも、尤もだった。
弥介は、すっかり諦めきっていた。村人達の態度に憤る気力もない。がしかし、あらゆるものに対する憎悪は、確実に弥介の中に育っていた。
自分の人生を変えた嵐にも、生き長らえてしまったことにも、持て囃すだけ持て囃し、手の平返した態度に出た村人達にも、海に出られなくなった自分にも、弥介の憎悪は全てに向けられた。
但し、怒りを表すことなど出来る筈もなかった。
弥介は、漁だけで生計を立てているこの辺りの村では、生きていく術がない。
小浜村から放り出されては、弥介は死ぬしかなかった。
弥介の憎悪は、言うなれば、囲炉裏の中で赤く光っている澳と同じだ。燃やす物があれば、風が吹き込まれれば、一気に燃え上がるに違いない。
それとも、くすぶる気持ちを胸に秘めたまま、ただ老いて、死んでいくだけだろうか。
弥介がとりとめのない物思いに耽っていると、小屋の戸を揺する音がした。風の悪戯に違いない。
こんな嵐の夜に、弥介を訪ねて来る者などいない。これが一月も前なら、弥介を心配して、見に来る物好きだっていただろう。 だが、今となっては……。
そう思っていると、再び戸を揺する音がした。
弥介は、大して考えもなく、凉れた声を張り上げた。
「誰かいるのか? 何か知らないが、用があるなら勝手に入って来い」
実際に戸が開き始めるのを見た時は、自分で言った弥介が一番驚いた。
風は家の横に当たっているが、戸が開いた途端冷たい空気が流れ込んでくる。小屋の中も殆ど闇も同然だが、外の闇の方が当然濃かった。
その中に、もっと濃い影が、戸の外に蹲るようにしている。ただ、戸に添えられた指だけは、夜目にも白く光って見えた。
ほっそりした、美しい女の指だ。
聞こえてきた声も、女の物だった。
「こんな夜分に、申し訳ありません。どうかこちらに、泊めて戴けないでしょうか?」
切れ切れの細い声で言われ、弥介は訝りながら、
「旅の者か?」 と、聞く。
女はか細い声で、
「この村のことを人伝に聞いて、遠くからやって来たのです。どうか妾を、ここに置いて戴けないでしょうか」と、云った。
弥介は、二十年は前の嵐の夜の出来事が、いま目の前で再現されているような錯覚を覚えた。
もちろん二十年も前には、弥介はまだ生まれていない。
因果は巡るとはこのことか。
二十年以上前のこと。
身重の女が嵐の晩にこの村を訪れ、村に置いてくれと云った。女はこの村で出産するが、お産の所為で命を落としてしまう。
そのとき生まれたのが、弥介だった。