或る男、命を拾う事
空が暗いのは曇っている所為か、夜になろうとしているのか、それとも明け方なのかも分からない。
夜の海に、板切れに乗って浮いていることを考えると、ジワジワと恐怖が湧いてくる。
一番怖ろしいのは自然の力だが、この世界には自然とはまた違う、強大な力を持った物もいると言う。
弥介は、身体を動かしたい気持ちを押さえて、出来るだけ落ち着こうとする。焦って動いては、命を縮めるだけだ。
不意に、板切れの底を、何かが凉ったような感触がした。弥介の指を突ついていた魚か、それとも鰐だろうか。
そこまで考えて、それ以外の化け物だと言う可能性もあると思い、弥介は歯を食い縛った。そうしていないと、叫び出しそうだった。
陸に上がれば無法な漁師も、海にいる時は、赤子のように大人しく信心深くなる。
弥介も普段は、怖い物知らずの狼藉者として鳴らしていたが、自然の力を前にすれば、なす術もなく、ひたすら縮こまっているしかない。
弥介は目を閉じて、助けを齎してくれるものに祈った。
神でも仏でも、耶蘇教とやらの神でも何でも良かった。ただ、弥介も漁師なので、海に助けを乞うことだけはしなかった。
海は、人間の思惑など知らずに、ただ強大な力の塊として、この世に存在しているものだ。
人に出来るのは、せいぜい恵みに感謝して、祭りを行うぐらいだった。
海に祈っても、海を呪っても仕方がない。
「陸に帰りてぇよぉ」
弥介は、食い縛った歯の間から言葉を押し出す。
海に放り出された時に海水を飲んだ所為か、喉がいがらっぽかった。
今の弥介はちっぽけで、孤独だった。
そんな弥介への、恵みとも追い打ちとも分からぬ雨が降り始める。
雨は冷たく、霧のように海上を煙らせる。
乾いた唇を同じく乾いた舌でなぞると、湿りと同時に、塩気とも血ともつかない味がする。水を飲むと言うほどではないが、雨は弥介の口を湿らせてはくれた。
一度は目覚められたものの、寒さの所為で、弥介の意識は再び朦朧としてくる。もう瞼を上げようにも、重くて開けることが出来ない。
意識が薄れる中、弥介は、乗っている板が波に弄ばれるのではなく、滑らかに進んでいく幻覚のようなもの覚えた。
そのまま弥介は、何も分からなくなる。
*
弥介は、小屋の壁に凭れ掛かりながら、見るともなく澳の赤い光を眺めていた。
小屋の外では、風が猛り狂い雨が降り注いでいる。小屋の空気も冷えていたが、囲炉裏までいざって火を掻き立てる気にはなれなかった。
弥介は、布団代わりの古い着物を身体に巻き付け直すだけにする。
弥介が、嵐の海から生還してから、月が二度一巡りした。
二月前、弥介の乗っていた船が嵐に遭って沈んだ。
弥介は海に放り出されたが、船の板材にしがみついて溺れずに済んだ。
弥介は知らなかったが、嵐は三日三晩も続いたのだそうだ。
その時のことは、意識が朦朧としていて殆ど覚えていないが、弥介は船板に乗ったまま、嵐の去った日の夜に村の浜に打ち上げられていたと言う。
その夜の夜半に、嵐に降り込められて海上に釘付けにされていた船が戻って来た為、浜にいた弥介も、朝になる前に小屋に担ぎ込まれ、手当を受けることが出来たのだった。
その嵐の所為で、弥介の乗っていた船以外にももう一艘が沈み、六人全員行方が分からなくなっていた。何処かに流れ付いて生きていると言うより、水死したと考えるべきなのだろう。
海に投げ出されて村に帰ったのは、何がどうしたものか、弥介一人だった。
三日三晩の嵐を、板切れ一枚で乗り切っただけでなく、船が戻るより先に戻って来た弥介を、村の者達は熱狂的に祭り上げた。
神の御加護だ。やれ奇跡だ。
弥介自体が神掛かったものとして、尊ばれ大事にされた。
殆ど飲まず食わずで弱っていた弥介を手厚く看護し、弥介の強運にあやかりたいと、船主達も酒だの何だのと見舞いの品を持ってきた。
その酒があれば、今の冷えた弥介の身体も温めてくれただろうが、酒も疾うに尽きてなかった。
それどころか、ここ数日はまともに食事も出来ていない。働けない年寄りや、疫病みの者と同じで、飢え死にしないだけの食べ物が、弥介には与えられるだけだった。
生死を彷徨った所為で、働けない身体になった訳ではない。人並みの食事さえとれれば今だって、海に出られるだけの力はあった。
しかし弥介は、もう二月も海には出ていない。弥介は、海に出ようとすると、途端に身体が利かなくなる。