昔話は終わらない
「だが人間である男には、海での暮らしは耐えられなかった。陸が女が酒が、贅沢が恋しくなって、男は時々海から戻ってくる。嵐に乗じて。だからこの辺りでは、嵐の晩に現れた見知らぬ男女には、気を付けろと言われている。争いと揉め事の火種だからな。富と不老不死を求めて、いまだに人魚と男の二人連れを探している連中もいるんだ」
僕は、ベッドの上で身体を起こした。
「富だの不老不死だの、欲しがる人の気持ちが僕には分からないよ」
それが話を聞いて、最初の僕の感想だ。男は、お前みたいなイカレじゃなと、すげなく言う。
僕は、でもと思う。
「僕がそんな昔話を知っていて、しかも信じていたら、あんた達を追い出すか、人を呼んだかも知れないんだよ。時には僕みたいな人間も、役に立つんだね」
僕はそう言ってクスクスと笑う。
男は僕ににじり寄ってくると、先ほどまでとは反対に、僕の喉を両手で締めた。男はためらいもなく手に力を込めながら、僕の耳に囁く。
「せいぜいお前も利用するだけ利用して、殺してやるさ」
今度は僕が男の手を叩いて、振り払う。男はあっさり手を引いて「話をしたら喉が渇いた、水をくれ」と、言った。
僕は、ベッドから出て立ち上がりながら、
「その昔話を良く知ってるってことは、あんたもこの辺りの人なんだね?」
「実際に住んでいたのは、二百年は前だが、自分のことだ、忘れっこない」
僕は、キッチンに向かい掛けていた足を止めて、男を振り返る。男は、自慢とも屈辱ともつかぬ顔付きで、僕の視線を真っ直に見返してきた。
「話に出てきた男ってのは、俺のことだ」
僕は釣られて、じゃあ人魚ってのは?と聞き返す。
男の目が黙って、キッチンの横の扉に向けられる。その奥には、バスルームもある。
バスルームからは、まだ水音がしていた。
その中に、魚が尾ビレで水面を叩くような音を聞いたと思ったのは、それこそ僕の幻聴に違いない。
*
小浜一帯には古くから、人魚の話が伝わっている。
ずっと昔には、人魚と言えば、海産系の化け物全体の総称だった。海坊主や海女、海赤子などと、それぞれ個別の呼び名が付き、最終的には、半人半魚の化け物だけを人魚と呼ぶようになる。
ここで言う人魚は、後者の方だ。
人魚伝説は、日本各地どころか、世界中に見られるが、小浜の人魚は、富の象徴として人に認識されていた。
人魚の涙は真珠となり、粉にして服用を続ければ、寿命を伸ばす霊薬ともなる。人魚の血を飲めば不治の病も難病も治り、肉を食せば不老不死となると言う。
それともう一つ、人魚は豊漁を齎すとも考えられていた。
人魚は普段、深い海の底で暮らしていて、嵐がきて海が荒れた時だけ、海面近くにまで上がってくると言う。
小浜の人魚は、美女でも異形でもなく、凡庸な女の顔をしているそうだ。
今では小浜は、海沿いの辺鄙な田舎町でしかないが、ある時期までは、随分栄えていたようだ。近隣の村々は貧しかったにも関わらず、小浜村だけは漁業によって富み栄えていた。
小浜に移り住んだ人達は、最初は他と変わらず貧しかったが、他の村が不漁に苦しんでいる時でも、小浜だけは安定した漁獲量が得られた。
小浜は豊かになり、それと同時に、小浜の海には人魚が棲むと言う噂が立つようになった。
今から二百年前の小浜は、富裕な漁民達の暮らす、大きな村だった。その頃、弥兵または弥介とか言う若い男が、人魚を手に入れたと言われている。
弥兵または弥介は、人魚の血と涙を売って村一の大金持ちになる。
利用され腹を立てた人魚が、小浜の海から魚を遠ざけた為に、漁によってのみ生計を立てていた小浜は、結局衰退すると言うのが、話の一つの筋だ。
人魚伝説を下敷きにした村の説話で、小浜の盛衰を良く物語っていた。しかしその話は、小浜の隆盛を知る貴重な資料でも、ましてや欲の深いある男の成功と挫折を描いた説話譚でもない。
それは、種を越えた男女の愛の物語なのだ。