プロローグ
思い出せないほどの昔から僕は、波の音だけを聞いていた気がする。
僕の暮らす別荘は、海辺にポツンと建っている。歩いて十分以内の距離に、他に人の住む家もなく、二十分も歩いてようやく寂れた町に出るらしい。
ただし僕は、町に出たことは一度もない。外に出ることも滅多になく、あっても家の周囲を散策する程度だった。
僕を訪ねて来る近所の人もいないし、散歩中に町の人とばったり出喰わしたと言う経験もない。観光地でも景勝地でもないらしい為、誤ってフラリと迷い込んで来る者もない。
時間からも人からも、忘れられた場所と言うのはある。僕の暮らしているのは、まさにそんな場所だった。
場所が場所なら、僕の方は人に忘れられた存在だ。僕に関わる人々は、僕のことを早く奇麗さっぱりと忘れたがっていることだろう。
それでも僕がしぶとく生き続ける限りは、彼らも僕を完全に忘れることは出来ないのだ。
数ケ月に一度は人を寄越すし、食料品や必要な物も届けてくれる。僕の誕生日には、儀式のように〈お父さん〉から電話が掛かってくる。それが、もう何年も続いていた。
僕の覚えている限り僕は、この別荘以外の場所は、病院の個室しか知らない。そしてこの別荘に僕以外の人間が住んでいたことは、一度としてなかった。
僕は気が狂っている。だから僕は、もう思い出せないほど小さい頃から、ここに閉じ込められているのだ。
別荘は、海に突き出した崖の上に建っていた。昼夜問わず、ドォンドォンと波が叩く音がする。
冬の荒れた日本海は、壮観だ。僕は波の響きだけで、海が荒れているかどうかが分かるほど、波の音ばかり聞いていた。
僕を閉じ込めた人達は、自分達の手を汚すことなく、僕が勝手に荒れた海に飛び込んでくれないかと思っているのだろう。彼らは、僕の死体も上がらないことを期待しているのではないか。
完全に僕が抹消され、彼らの記憶からも消えることを……。
しかし今のところ僕は、海に身投げする気にはならなかった。
それほど生に執着している訳ではなく、生に無関心だからこそ、死にも興味が湧かないだけだった。
死んでいるような生きているような、濁った水槽の中を泳ぐ魚のように、僕はこの世界の片隅に存在している。
世界は僕にとってはこの別荘――いや、僕の頭の中にだけあるようなものだ。
その夜、別荘の外は嵐だった。
夕方前から吹き出した風と雨で、大荒れに荒れていた。
僕は早くに食事を済ませて、電気も点けず真っ暗な中安楽椅子に座っていた。
僕は大抵の時間、窓辺に向けた安楽椅子に座って時を過ごす。そこが僕のお気に入りの場所だ。眠る時以外は、二階の寝室には上がらないが、時には安楽椅子に腰掛けたまま眠ることもある。
晴れた日にはポーチに椅子を出して海を眺めることもあるが、だいたい僕は波の音を聞きながら、空を眺めているだけだ。
風が建物を揺さぶる時に、家が上げる悲鳴を聞きながら僕は、僕を包み込んでくれる椅子に、すっぽりと埋もれていた。
時間の経過は分からないものの、僕は嵐の立てる音とは別に、表の部屋の中でガタンと音がするのを聞いた。
玄関を入るとダイニングキッチンとリビングがあり、その奥が僕が普段使っているこの小部屋になる。小部屋にはポーチに出る為のドアと、リビングから入るドアの二つがあった。
僕は、風の立てる音に混ざる、もう一つの部屋の中の音に耳を澄ませた。人が醸す気配と僅かな物音に、僕は不謹慎にも胸がワクワクする。
僕を忘れたがっている人達が、僕を消し去ることにしたのだろうか。
誰かが僕を、嵐に乗じて殺しに来たのだろうか。
それとも、何も知らない泥棒か。
僕は殺されるのを大人しく待つ代わりに、椅子からソッと立ち上がった。