10 病院
「おお、いたいた。親父さんが待っているから早く来るんだよ。なんだか急いでいる様子なんだよ。」
図書室へ来たのは僕をむかえに来てくれた先ほどの用務員のおじさんだった。僕はこの本に未練を感じたけど図書室ならいつでも来ることができるし、今でなくともいいと思いパパの待っている受付へと急いだ。そもそもパパは自分が人を待たせるのは何とも思わないくせに人に待たされるのが大嫌いだ。受付へつくと僕が思った通りパパがイライラとしながら僕のことを待っていた
。
「クリス、ママが急に倒れたらしい。救急車で病院へ運ばれたそうだ。まだ目を覚まさないらしいんだがとにかく病院へ行ってみよう。」
そう言うとパパは車の方へと歩き出した。僕は言葉も無くパパに続いた。ショックで体中が固まってしまったかのようで、僕は歩くのがやっとだった。ようやく車へとたどり着いた僕は車の中に鞄を放り投げてから乗り込み震える手でシートベルトを絞めた。車の中でパパは一言も話さなかった。僕もだ。ママが倒れるなんて……。僕は今朝のママの様子を思い出していた。考えてみると、あんなに辛そうなママを見たのは久しぶりだった。ママは僕のことが心配で家にいてほしいのだとばかり思っていたけど、本当はママは具合が悪かったんだ。だから僕に家にいてもらいたかったんだ。きっとそうだ。ママは大丈夫だろうか? ここへ引越してきてからママはずっと疲れているように見えた。考えてみると最近ママの笑顔を見ていなかった。もしママが目を覚まさなかったらどうしよう。僕はママのことが心配で心配で今日マックスとイージーと3人で話たことなどきれいに忘れてしまっていた。まさか、今までに起こった事とこれから起こる事のすべてが繋がっていたなんて、この時の僕には想像もつかなかったのだから。そう、この時にママが倒れたことですら偶然なんかではなかったのだから……。
「さあ着いたぞ、大きな病院だな。受付を探すだけでも時間がかかりそうだ。」
パパはうんざりしたようにため息をついた。パパは田舎生まれの田舎育ちなので、少しでも都会に来るとつかさず文句を言う。都会生まれの都会育ちのママと話が合わないわけだ。この町には有名な大学があり、さほど大きくもないけれど何時も世界中からの観光客で溢れていた。そしてこの大学病院にはまわりの町や村からの救急患者が運ばれてくるそうだ。僕やママにとってはたんなるちょっと大きな町なんだけど、パパにとってはウザい都会の街なんだろうな。僕は駐車場にある大きな地図の看板を見つけた。
「パパ。病院の地図がここにあるよ。どうやって見るのかわかる?」
僕よりずいぶん前を歩いていたパパは振り向いてため息をつきながら僕が立っている看板の所まで戻ってきた。
「こんなにわかりにくいところに看板をたてるなんて病院の奴らおかしいんじゃないのか?」
またパパお得意の文句がでた。全然わかりにくい場所じゃないじゃないか、こんなに大きな看板を見逃すなんてパパのほうがおかしいんじゃないか……、僕はそう思ったけど黙っていた。
「受付はここから3つ目の建物だな。行ってみよう。」
そう言うとパパはまた急ぎ足で歩き始めた。僕は大きなため息を1つしてパパを追いかけた。目当ての建物の中に入るとものすごい人で溢れかえっていて当然受付も大込みだった。あまりの人の多さに僕がびっくりしていると、パパは近くにいた看護師さんらしき人に話しかけた。運の良い事にこの看護師さんはママをお世話してくれた人だったらしく、パパの話を聞くと僕達をママのいる病室へ案内してくれると言ってくれた。ママの病室は5階にあった。病室へ着くと、看護師さんが部屋のドアをそっと開けてくれた。
「お母さんね、先生が検査してくれたのだけど悪い所はどこもないみたいなの。なんだかよく寝ているって感じでね。すぐに目が覚めるといいわね。」
そういって通された部屋にママは1人で静かに横たわっていた。
「ママ?」
僕はママを覗き込んだ。ほんとうにまるでただ眠っているだけみたいだ。
「落ち着いて眠っているみたいね。念のためにお母さんの脈を計ってみるわね。」
そう言うと看護師さんはママの腕をそっと持ち上げて脈を計り始めた。
「ママはどうしたの? お家で倒れたの? それとも外? どうやって病院に来たの?」
僕は看護師さんがママの脈を計り終えてママの腕を布団の下へそっと入れてくれるのを見届けると聞いてみたかったことを聞いた。
「それがね、人通りの少ない所で倒れていたそうよ。だからちょっと発見が送れたみたい。偶然通りかかった人が救急車に連絡してくれてね、それでここまで運ばれたってわけ。家にいたら誰にも発見されなかった確率が高いから、外出中だったのは不幸中の幸いね。」
不幸中の幸いか。本当にそうだ。もしママが家で倒れていたら……。まだ9歳の僕は1人で家に帰ることなんて出来ないのだから、発見はものすごく遅れていただろう。よかった。ママが外にいてくれて、本当によかった。
「電話をしてくれた方は?」
パパがぽつりと言った。そういえばどんな人がママを助けてくれたのだろう? 僕は看護師さんの方を見た。看護師さんは僕とパパの方を見ながらちょっと首をかしげて答えてくれた。
「それがね、救急車が到着したときには誰もいなかったらしいのよ。お母さんが倒れていた時の状況とかくわしい話を聞きたかったのだけどね。」
「どうして消えちゃったんだろうね、目立つことが嫌いな人だったのかな?」
僕が不思議そうに聞くと、看護師さんは首を振ってこう答えた。
「いいえ、普通は救急車が到着するまで付き添っているものなのよ。本能的にね。だって心配じゃない。おかしいわよね。」
こんどはパパが看護師さんに尋ねた。
「どういうことなんでしょうか?」
そう言うパパの質問に看護師さんは独り言のように呟いた。
「さあ、よほど急いでいたとか、でもね、人の命がかかっているものね、急ぎっていったってねえ。」
看護師さんにもよくわからないようだ。しばらくすると医者らしい人が入って来てパパに話しかけてきた。
「ご主人ですか? すこしお話したいので私と一緒に来ていただけますか? 息子さんは看護師といっしょにお母さんについていてあげてください。」
そう言うと医者らしき人はパパと一緒に部屋を出て行ってしまった。ママの病室で2人きりになると看護師さんは僕のほうを向いて優しく言った。
「お母さん、とても顔色がいいからきっと大丈夫よ。疲れがたまっているとね、起きられないことがあるの。夜になっても起きなかったら点滴をうつから、お母さんの体にきちんと栄養もいくわ。心配しなくても大丈夫、すぐに目を覚ますわ。それまであなたのお母さんのことは私達がきちんと責任をもってお世話するからね。」
僕は泣きそうになるのを一生懸命にをこらえて1番大切なことを看護師さんに頼んだ。
「うん、ママが起きたら、僕がママのこと大好きだって言っていたって伝えてね。」
帰りの車の中でパパが医者と話したことをいろいろと教えてくれた。医者の話と看護師さんが僕に言ったことはほとんど同じだった。一つだけ違ったのは医者はママがいつ目を覚ますのかわからないと言っていたということだ。看護師さんはすぐに目を覚ますって言っていたのに。
「パパ。僕毎日ママのところへお見舞いに行きたいんだ。連れて行ってくれる?」
僕が寂しそうに呟いた。僕がしゅんとして気分を曇らせているのはよくあることではないのでパパは珍しく優しく答えてくれた。
「もちろんだよ。どうせ明日からママが帰ってくるまでパパがクリスを学校へ送り向かいしなくてはいけないからね。放課後にママの所へ一緒に行こう。」
学校! そうだ、いったい今日はなんだったのだろう。マックスとイージーのおかしな話、あの息の詰まりそうな図書室、そしてあの本。あの本だけが人の手に触れたようだった。そうまるで何かの目印のように……、まるで誰かに読んでほしいかのように。僕はあの本がとても気になった。明日また図書室へ行ってみよう。しかし、翌日から僕がその本の存在を忘れてしまうほどの辛く酷い日々が始まることになるのだった。




