星空と湯気に彼を想う
私がここに来たのは、本当に久しぶりのことだった。多分、一番最近でも高校三年の頃だったと思うから……三年は前のことだったはず。
年季の感じる外観は周囲の建物にはない独特な雰囲気を醸し出し、天に伸びる煙突から昇る煙は悪戯するように夜空に煌めく星々を隠している。
――家の近所にある、古くから続く銭湯。
突然家のお風呂の給湯器が壊れて、銭湯通いを余儀なくされてしまったんだ。
今どきの若者が銭湯通いだなんて、いったいどこの貧乏人だなんて思われてしまうかもしれない。
そう思うと何だかあまり良い気分はしないけど、それでも私は銭湯のことが嫌いなわけではない。むしろ広いお風呂に入れて、私は好きだ。
年季の見てとれる外観も、お客さんが年配の方ばかりという様子も、湯上りに飲むフルーツ牛乳の味も、どれも私の中で良いイメージを与えてくれている。
私は四年制大学に通う二十一歳。でも一人暮らしをしているわけではなく、生まれてからずっと両親と二つ下の弟と共に同じ実家で過ごしてきた。
だけど今、私の周りに家族の姿は無い。――両親は二人でどこぞに旅行に行ってしまい、弟は両親が旅行に行ってしまったのを良いことに『友達の家に泊まる』って言って朝早くから出て行ってしまったんだ。
全く、よりによってこんな時に給湯器が壊れるだなんて、弟が何か仕掛けたんじゃないかと思わず勘繰ってしまう。
「って、そんなこと考えたって仕方ないよね」
呟きながら、銭湯の暖簾をくぐる。途端、懐かしい匂いが――身体が覚えていた匂いが、全身を包み込む。
どう表現したら良いんだろう。……その匂いによって、過去にここを訪れたときの記憶を封じ込めた宝箱が開かれたような、そんな感覚が全身に広がっていく。
でも、その宝箱から飛び出してきた記憶は、きっと私が自らの意思で封印したもの。……当然そんな記憶が私に与えるものは、けして良いものではない。
次第に蘇ってきた記憶が、脱衣所に辿り着いた私の意識をタイムスリップさせていく。
より強く感じる匂い。急速に広がっていく記憶に、躊躇いと焦りを覚える。
銭湯に対して感じていたイメージは、全てこの記憶を掻き消すために作り上げられた嘘だったのだろうか。――そう思ってしまうくらいに、私の気持ちは一気に沈んでいく。
そして何とか洗い場まで到達して浴槽に浸かることに成功した私の思考は、完全に過去の世界――三年前の世界にタイムスリップしていた。
* * * * *
高校三年の冬の頃、早々に大学への合格切符を得ていた私は毎日のようにこの銭湯に通っていた。別に家の給湯器が壊れたというわけではない。そうではなくて、自ら望んで銭湯に通っていたんだ。
私が銭湯に通っていた理由――それは、同じ高校に通っていた同級生のアキラが銭湯好きだったから。……当時、私はアキラのことが好きだった。
そもそも、私がこの銭湯に初めて来たのは、アキラが『銭湯デートしようよ』って誘ってきたから。それまでは、こんなに近所にあるにも関わらず一度も足を運んだことがなかった。
アキラが物の例えとしてその言葉を使ったということを、もちろん私は認識していた。アキラと付き合っていたわけでもないし、アキラは女の子に対してよくそういう言葉を放っていたから。
それでも……そうだとわかっていても、アキラがその『銭湯デート』に私を誘ってくれたことが嬉しくて仕方なかった。他のどのクラスメイトでもなく、私を選んでくれた。そのことに、私は舞い上がるような気分だった。
初めての『銭湯デート』のとき、アキラは銭湯の外で私のことを待っていてくれて、私の姿を確認すると、『おっ、やっと来た! ユイが来てくれるかどうか、もうヒヤヒヤしながら待ってたよ』なんてことをおどけて言ってたっけ。
待ち合わせの時間より十分も早く着いたというのにそんな言葉を掛けてくるアキラにちょっとムッとしたけど、そんなアキラのおどけた笑みを見ちゃうと、もうそんなことどうでも良くなっちゃていた。
――必然的に生まれてくるドキドキが、まだ入ってもいないのに身体中を風呂上がりのように暑くさせる。
銭湯の中でアキラと別れても、そのドキドキが治まることなんてなくて。偶然にも他のお客さんがいない中、湯船で一人大きな壁を眺めていた。
女湯と男湯を遮る大きな壁。……この壁の向こうにアキラがいる。
思わず湯船に浸かっているアキラを想像してしまい、込み上げてくる恥ずかしさを隠すようにお湯に顔を沈める。
「ユイ~、こっちは他の客いないんだけど、そっちにお客さんいる~?」
そんな私の状態なんて知る由もないだろうアキラは、追い打ちをかけるようにそんな言葉を大きな声で掛けてくる。他のお客さんがいないから良かったけど、もし他のお客さんがいたりしたら、もう恥ずかしすぎて茹で上がっちゃいそう。
「こ、こっちもいないよ~!」
「おっ、そうかぁ。……どうだ銭湯は。良いもんだろ~!」
「うん、そうだね。結構良いかも」
大きな壁に挟まれて、アキラの姿を窺うことは出来ない。でも、アキラと二人だけで会話をしている。――今に限ってここは、私とアキラの二人だけの空間なんだ。
そう感じると、この銭湯が特別な場所に思えてくる。クラスメイトたちが沢山いる学校ではけしてすることの出来ないことが出来る場所。
きっと、誰かが今の私の顔を見たら、のぼせてどこかおかしくなっちゃったんじゃないかって思うかもしれない。
――それくらい、私は自然と生まれてくる笑みを抑えることが出来なかった。
初めての『銭湯デート』を終えた後も、私はちょくちょくアキラと銭湯に行くことになった。私が銭湯のことを気にいったことに気を良くしたアキラが、『なんならこれからもちょくちょく行こうか』って言ってくれたんだ。そんなアキラの提案を断るわけなんてない。
こうして、この銭湯がアキラとの交流の場になった。クラスメイトたちのいない、私だけがアキラを独占出来る場になった。
私が銭湯から外に出ると、アキラはいつも先に出て私のことを待ってくれていた。テレビでたまにやってる『昭和の名曲特集』みたいなので度々登場する歌の歌詞に出てくるような、『いつも私が待たされて洗い髪がしんまで冷える』なんていうことは一度もない。むしろ、そういう意味ではアキラの方が湯ざめしちゃってるんじゃないかと心配してしまう。
でも、私がそのことを口にしてもアキラは少しも気にならない様子で、
「あぁ、別に大して待ってないし。それに、こうして待ってるのもデートのうちでしょ」
なんて言って私を安心させてくれていた。
それと、アキラは銭湯の外で私と合流すると、いつもちょっと屈んで私越しに広がる夜空を見上げる。……何でも、立ち上る湯気越しに見る少し霞んだ星空が好きなんだそう。
私も自分の手から微かに出る湯気越しに星空を眺めてみるけど……私には、アキラの気持ちが良くわからない。折角綺麗な星空なんだから、わざわざ霞んだものを見ることないと思うんだけど。
そう思い尋ねてみると、アキラは屈んだ体勢を保ったままいつものおどけた笑みを見せながらこう答えてくれる。
「湯気越しって言っても、どんな湯気でも良いってわけじゃないのさ。あぁ絶景かな絶景かな」
……本当に、意味がわからなかった。
そんなアキラとの『銭湯デート』。……でも、それがいつまでも続くことはなかった。
ある日突然、放課後の誰もいなくなった教室でアキラから宣告されたんだ。
「――もう、ユイとの銭湯デートは終わりだ」
別に直前の『銭湯デート』でいつもと違うことがあったわけでもない。学校で、アキラに嫌われるようなことをしたつもりもない。それなのに……。
あまりに唐突すぎて、何を言われたのか一瞬わからなくなってしまうくらいに、私は動揺していた。
「何で!? どうしてそんな……いきなりそんなこと言われたって、わけわかんないよ!!」
別にアキラと付き合っていたわけではない。だから、アキラが私と『銭湯デート』をしなければならない理由なんてどこにもない。
それはわかっていた。……わかっているつもりだったけど、それでもどうしても納得出来なかった。
私は、本当に毎回アキラとの『銭湯デート』を楽しみにしていたんだ。アキラにとっては好きな銭湯に入ることが一番の目的だったんだろう。……でも、私にとっては銭湯なんかよりアキラとの時間を作ることの方がよっぽど大事な目的だったんだ。それなのに、どうして……。
もうわけがわからなくて、アキラの両肩を掴みながら、感情の赴くままに叫んでいた。その叫びが嗚咽であることに、私は少しも気がつかなかった。
「……ゴメン」
でも、そんなアキラには少しも似合わない言葉に、私は止めどなく大粒の涙が流れていくのを自覚した。
やっぱり私は、こんなにもアキラのことが好きなんだということを、改めて自覚した。
――そしてそれから数日後、アキラは私に何の言葉も残すことなく海外へと引っ越していった。
* * * * *
改めて思い出してみると、私はあんなに好きだったアキラに結局告白もせずに終わってしまったんだ。あの頃の私にもう少し積極性があれば、結果はどうであれアキラが引っ越していってしまう前にせめて告白くらいは出来たかもしれない。
……でも、今更そんなことを思ったって何の意味もない。アキラはもう、私の手の届かない海外の地に行ってしまっているんだから。
あの頃と変わらない、女湯と男湯とを遮る大きな壁を見やる。
「ねぇアキラ……聞こえる?」
そんな聞く相手もいない言葉を、そもそも壁の向こうまでけして届くことのない小さな声で呟いてみる。
……結局私は、いくら宝箱に記憶を封印しようとも、その宝箱をまだ心の中で開ける状態にして置いていたんだ。
急激に押し寄せてきた切なさに、私はこの場に居続けることが出来なくなって慌てて湯船から出る。そして、どうしようもない鼓動の高まりを感じながら着替えを済ませて脱衣所の外へ。
理解はしたものの、やっぱりこの事実は私にとって衝撃的なものだった。――今でもまだ、私の中でアキラという存在がこれほどまでに大きな存在なんだということが。
ホント、私はいったいどれだけ純情乙女なんだろうか。勝手に私を『銭湯デート』に誘っておいて、ある日突然その『銭湯デート』を勝手に終わらせて海外へ逃亡した男のことを、未だにこんなに思ってしまうだなんて。
鼓動の高まりは未だに治まらない。……でも、切なさは徐々に自嘲へと変化していく。
もう、ここに来るのはこれで最後にしよう……。
そう思いながら、ゆっくりと銭湯をあとにしようと歩いていたとき、横から私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あの、違ったらごめんなさいね。もしかして……ユイちゃん?」
その声の主は、番台のおばさんだった。ちょっと白髪が目立つようになった感はあるけど、私の知るあの頃からいるこの銭湯の番台さんだ。
「はい、そうです。……ご無沙汰してます」
「やっぱりそうだったんだ。入ってきたときはちょっと不安で声掛けられなかったわ。本当、久しぶりねぇ」
番台のおばさんは、そう言いながらそっと微笑みかけてくれる。その微笑みは、あの頃とまったく変わらない。
……アキラと一緒に来ていたときも、番台のおばさんはいつもその微笑みで迎えてくれていたっけ。
「もうずっと来てくれてなかったから、おばさん寂しかったわよ~」
「あの、ちょっと色々ありまして……」
そんな、世間話が延々と続くパターンに移行しそうな話の流れ。でも、次に番台のおばさんが口にした言葉に、私は言葉を失う。
「そうよね。……アキラくんのこと、本当に残念だったわね。――向こうで良いお医者様と出会えたみたいなのにね。……また元気な姿が見たかったわ」
何のことだか良くわからなかった。番台のおばさんの口から出た『アキラ』という名前と、それに続く『残念』という言葉。
そして、『お医者様』に『元気な姿が見たかった』……。
「でも、長くても半年って言われてたみたいだから……頑張ったのよね、アキラくん」
……何? いったいおばさんは何を言ってるの?
「ユイちゃんと一緒に来てたときのこと、おばさん今でもハッキリ覚えてるわ。ユイちゃんは知らなかったかもしれないけど……ふふ、アキラくん、ユイちゃんのこと本当に大好きだったのよ?」
「……えっ?」
「初めてユイちゃんを連れてきたとき、本当に嬉しそうだったもの、アキラくん。何回目のときかは忘れちゃったけど、おばさんが『湯上りの好きな子越しに星空を見たら、その子から出る湯気が星に願いを届けてくれるのよ』って言ったら、あの子『ホントに! よし、早速今日試すぞ!!』ってはしゃいじゃって。……ふふ、咄嗟に思い付いたことを言っちゃったんだけど、アキラくんに悪いことしちゃったかしらね」
「……………」
「アキラくん、きっと天国でもユイちゃんのこと見てるわよ。あんなにユイちゃんのこと好きだったんだもの――ユ、ユイちゃん!?」
居ても立ってもいられなくて、私は外へと駆け出していた。
アキラが、私のことを好きだった? 屈んで私越しに星空を見てたのは、あのおばさんの言葉があったから? 海外に引っ越したのは、何か酷い病気持ちだったからなの?
――アキラはもう……天国に行っちゃったの?
そんなの、全然知らなかった。アキラは私にそんなこと一つも教えてくれなかった。
何よ……あんなにおどけてばっかいたくせに。病気だったなんて、そんなの少しも感じさせなかったくせに。
好きなら『好き』って何で言ってくれなかったの? 病気ならそのことを何で教えてくれなかったの?
どうして!? ……どうしてよっ!!
「アキラ……。アキラぁ……。アキラのバカっ! 大好きなんだから、戻ってきてよ~っ!!」
銭湯を出てすぐ横にある電信柱に頭を預けながら、天国にまで届くんじゃないかってくらい大きな声で叫ぶ。アキラの耳に届くわけないってことくらい……わかってるはずなのに。
アキラの姿を探すように、視線を天に向ける。……でも、そこにあるのは涙で滲んだ星空だけで。
涙を拭ってそっと手をかざし、湯気越しの星空を眺めてみる。
――星空を霞ませる湯気は、まるでそれが幻であったかのように瞬時に霧散した。
この作品は『書き込み寺』という書くことと読むことが好きなオンライン作家の集まるサイトでの企画作品として書いたものです。
以前にこの『書き込み寺』のオフ会に参加したときに、『恋愛もの書いて!』と指定されてしまったので、こんな感じになりました。
……どうでもいいが、そういえば銭湯って行ったことないなw