十年の後
大阪府豊中市に蛍池という場所がある。
その辺り一帯の地名になっているが、実際にはこの名の小さな池が存在する。
沿線の阪急電鉄宝塚線蛍池駅は、憐憫を誘うような小さな街の小さな駅だが、閑静な住宅街に接するように、その両端に線路を延ばしている。
村崎雅昭が、藤原京子の家を訪ねるのは、10年ぶりのことである。今ではもう中年といってもおかしくない年頃だ。電車を降りて、駅から申し訳程度の繁華街を過ぎると、蛍池があった。
昔、普段は静かで美しいその池が、毎年蛍の飛び交う季節になると、蛍狩りの家族連れなどで、小宴さながらの賑わいを見せたことから、蛍池と呼ばれたことは容易に想像はつくが、定かではない。
(昔とちっとも変わってない……)
と、彼は思った。
夏の盛りへと向かう昼下がりは、雅昭にとって、汗が滲み出るほど暑く、歩く足下のアスファルトは、まるで融けかけているようだった。そしてまた、心苦しくもあった。その苦しさの中に、期待感のようなものがあることは否定できないけれど、それとは別に京子を訪ねなければならない理由もあったのだ。
雅昭は京子の家に近づくにしたがって、しだいに足早になっていた。
この10年間、雅昭は京子のことを忘れなかった。いや、忘れられなかった。京子に対して申し訳ないと思っていたせいもあったのかもしれない。そういった、慙愧に堪えない気持ちが、彼をしてそうさせたようだ。
雅昭は、ちょうど10年前、京子とある約束をした。その約束をどうしても守りたかった。10年ひと昔というが、雅昭にとって、長いようで短い10年であった。
「10年経ったら、私を訪ねて来て」
「ああ、必ず行くよ。その時は君はもう結婚して、幸せな家庭を築いているかもしれない。」
「そうね、でもそれはあなたも同じよ」
「それでも会いに行くよ。約束だ」
「素敵ね、そんな約束」
「そうかなあ」
「そうよ、だって、お互い別の人と結婚するってわかっているのに、10年経って、昔の恋人と逢うなんて」
「それって不倫じゃないのか? 倫理に反することが素敵なのか?」
雅昭は自分にも問いかけたつもりだった。
その質問を京子は聞かないふりをしていたようだが、
「不倫じゃないわ、逢うだけで…」と、呟くように言った。
それは雅昭にもわかっていた。
「お願い、絶対来て。私、もし結婚していたとしても、実家に帰ってるから」
「君の実家に行けっていうのか?」
「その時は、お父さんも許してくれると思うの」
「許す? 何を許すって言うんだ。俺は誰の許しも請わないよ」
「雅昭さん…」
物憂げな雰囲気が二人を包んだ。大阪梅田駅前にある、丸ビルのホテルの一室で、最後の別れを惜しもうとしていた二人。誰もがそんな状況だったら、些細なことで喧嘩などしないだろう。しかし、雅昭にとって、京子の言ったことは、そんな些細なことではなかった。
京子は、悲しそうな目をしたが、すぐに自分の言ったことを悔やんだに違いない。
そして、絞り出すように、
「さようなら、雅昭さん」と、言った。
二人の抱擁は長く続いた。若く、熱い恋だった。
雅昭はそれが優しさだと思っていた。互いを許し合える寛容さこそが優しさの真髄ではないか。そう信じて疑わなかった。
一ヶ月経ち、二ヶ月経って、雅昭は仕事の忙しさに思い出を紛らわした。
三ヶ月経つと、京子の面影が消えたように思えた。自分と別れることで、京子は幸せになれるんじゃないのか? しかもそれは京子の為だけじゃない。お互いの為に別れたんじゃないのか? 京子を忘れることで、京子が幸せになれるとさえ、自分自身に思い込ませ、そう信じ込む努力をした。そう言い聞かせることが、雅昭の唯一の心のよりどころでさえあった。
雅昭は藤原の家が見えはじめると、益々鼓動の激しさを増した。10年前は京子との密やかなデートの帰りに、よく家の前まで送って行ったものだった。そんな思い出が、否応なしに雅昭の心の中を過った。
京子はもう忘れているかもしれない。今どき10年前二人で交わした、ただ会うという約束を覚えていて、実行する者がいるだろうか。いや、それでもいい。京子から素っ気ない顔をされて、「ああ、そうだったかしら」と言われるかもしれない。それでも、約束を守りたい。そしてそのときはこのまま九州に帰ろう。
それほど雅昭の決意は固かった。決意というよりも、もしかしたら、意地がそうさせたのかもしれない。
家の前まで着くと、藤原茂郎が玄関に立っていた。雅昭にとってはじめて見る、京子の父親の姿だ。彼は穏和な表情だった。
「君が村崎君か…、待ってたんや」
「え?」
雅昭は聞き返した。
待っていただなんて、二人だけの約束を京子は父親に話しているのだろうか…。
「君が来るのを待っていたんや」
茂郎は復唱するように言い、その言葉遣いは優しかった。
雅昭は、茂郎が娘の以前付き合っていた男が訪ねて来たことに、多少なりとも驚愕を示し、京子らを会わせまいとして、何らかの妨害はないにしても、快く思わないであろうとを、ある程度覚悟をしていた。その予想に反して、彼は稀有の出来事――見知らぬ訪問者に対して、歓迎さえしている。そのことは雅昭とって、戸惑いを示さないではいられない。
「あの、京子さんは…、いらっしゃいますか?」
恐る恐るお伺いを立てるように訊いた。
「京子は……、京子は死んだよ」
「し、死んだ?」
「ああ、ちょうど9年前の今頃やった。君と別れて1年して、自殺した」
「え? 自殺…した…」
雅昭は、体が震えて茂郎の言葉を繰り返すことしかできない。茂郎は、玄関であることを構わず話し始めた。一刻も早く伝えたかったように雅昭には見えた。
「君の事は京子から聞いていたよ。京子は君と離れて、半年経っても忘れられんようじゃった。一日中空を見ていたかと思うと、ふいと夜にいなくなって、まったく気の抜けたソーダ水のようになって戻ってきた。ある日夜遅くなって帰らぬ日があった。こんなに遅くまで何をしていたのかと問い詰めると、蛍池まで行って、蛍と話しとったと言う」
「蛍と話した?」
「ああ、小さい頃に母を亡くしてわしと二人で暮らすようになってはじめてじゃった、娘のあんな姿を見たのは」
茂郎は続ける。
「君のことを京子から聞かされたとき、わしは浮かない顔をしたと思う。わしはどこの馬の骨ともわからん奴に嫁にはやれないと言った。自分の目に叶う男やないと、結婚なんかさせられへんと言うのが口癖やったからな…」
「そのことは京子さんから聞いて知っています」
村崎は凛として言った。
「わしは人を使い、君のことを調べさせた。君は九州に帰ると聞かされとったから、そんな根性なしに娘を嫁がせるためにこの男手一つで育ててきたんと違う。そうわしが言ったとき、京子は落胆して……」
茂郎は、涙ぐんでいるのか、声質が変わってきた。村崎は黙って聞いていた。
「あの子は――京子は、後になって思うと…、取り付く島もない、もう結論は出ているんだと、自身に言い聞かせたのだろう」
一気に話す茂郎を、村崎は哀れに思った。
「一時は君のことを怨んだ。でも、今は怨んじゃいない。このわしのせいやからな。悪いが、京子が君宛に残した手紙を読ましてもろうた。今日これを君に渡す為にとっといたんや」
そう言って、茂郎は雅昭に古い封筒を渡した。
「僕にですか?」
雅昭は封筒の中の色あせた白い便箋を取り出した。一目で京子が書いたとわかる、懐かしい特徴のある細い文字が目に映る。
雅昭は茂郎に、『今ここで読んでいいですか?』と、目で訊くと、茂郎は頷いた。
『雅昭さん、元気ですか? あなたはあまり身体の強い人ではないから心配です。
でもこうして、私の手紙を読んでくれている時のあなたは、ちゃんとあの時の約束を守って、来てくれたんですね。ありがとう。
あなたと別れて一年になります。考えてみれば、いろんなことがありました。あなたとの出会い、父との確執、そしてあなたとの別れ。あれから一年、私にとって、例えようもなく長い時間でした。
私、何度もあなたに会いに行こうとした。雅昭さんの居所なんて調べること、造作もないことだから。でも、それはしなかった。あなたは必死で私を忘れようとしているんだと思っていたから。私と別れることの方が、あなたは幸せになれる。そう思っていたから。
私、これでもあなたを諦めようとしたんですよ。でも、それはできる筈はなかったのです。何年経っても私、きっと今のまま、あなたを愛し続けています。こんな気持ちであなたとの約束をどう果たせばいいのでしょう。一度はさよならを言った私たち。いまさらこんなこと言っても、あなたは笑うでしょう。
しかし、私はもうこの世にいません。この弱い私自身は、これ以上耐えることができなかったのです。結局、死を選んでしまった私を、九年後のあなたは許してくれるでしょうか。
どうか、一人よがりで、わがままな私の死など、気になさいませぬよう、あなただけは幸せでありますように……。
九年後の雅昭様 京子』
雅昭は読み終えると、藤原氏に短く一礼し、駆け出していた。便箋を持ったまま全力疾走した。息が切れ、倒れそうになって、どこへということもない、ただあてもなく歩き続けた。そして気付くと、いつのまにか蛍池の辺りに来ていた。日も暮れている。
その時、何匹もの蛍が光を放ち、飛び交いはじめた。以前は蛍池でそんな光景を見たことはないほど多くの蛍だ。その中の一匹が雅昭の耳元に止まった。
「雅昭さん…」
と、かすかに囁いた。というより、そう聞こえて欲しかった。
「京子?」
蛍は依然止まっている。
「京子、俺は君を愛していたのか?」
声に出して言ったが、何も応えない。
「あの日、京子はここに来ていたんだな」
蛍は、「私のことより、幸せになってください…。――伝えたよ」と、囁いたように雅昭には聞こえた。すると、羽を広げ始めた。まるでそれだけ言うために、待っていた仕草…。京子らしい仕方だと、雅昭は思った。
それから蛍はどこかに飛んでいってしまった。
雅昭は草むらに跪き、人目など気にせず、大人になって、はじめて子供のように大声で、いつまでも長く泣いた。 (終)