番外編 番外編:その頃、王都では――(聖女のいない24時間)
安藤紬という「役立たず」を城外へ放逐してから、わずか数日が経過した王都ルミナリス。
第一王子エドワードの執務室では、深夜にもかかわらず、苛立ちを含んだ怒鳴り声が響き渡っていた。
「……何だと? まだ浄化が終わっていないだと!? 予言の通り、新しい聖女を召喚したはずだろう!」
「は、はい……。しかし、新しき聖女様は『光の聖剣』の適性は凄まじいのですが、この……城内全体の『空気の淀み』を払うような繊細な魔法は、あまり得意ではないようで……」
報告する侍従の顔は土気色で、目の下には深い隈が刻まれている。 実は、紬がいた頃の王宮は、彼女の無自覚なスキル《リラックス・オーラ》によって、常に微弱な「精神安定の波動」に包まれていた。彼女が廊下を歩くだけで、イライラした官僚の血圧は下がり、殺気立った騎士の肩の力が抜けていたのだ。
だが、その「天然の空気清浄機」がいなくなった途端、王宮には数十年分の激務によるストレスと怨念が、一気に噴出した。
「役立たずめ! 私が眠れないのは、この淀んだ空気のせいだと言っているんだ! ああ、苛つく……。なぜこんなに耳元で羽虫が飛んでいるような不快な音がするんだ!」
エドワードは自身の肌荒れと、止まらない貧乏ゆすりに苛立っていた。
一方、王都の地下――影の騎士団の拠点。
「……信じられん。カイル、お前の呪紋がここまで沈静化しているとは」
アルベルト・フェルゼン公爵の傍らで、宮廷魔導師の一人が目を見開いていた。 そこには、任務から帰還したカイルが、かつてないほど清々しい顔(当社比)で立っていた。
「はい。街道で遭遇した『例の女』に、指先一つで制圧されました。……彼女は私の脳の構造を見抜き、物理的な干渉によって魔力の暴走を止めました」
カイルは、紬からもらったあのメモを神聖な書物のように扱いながら、大真面目な顔で続けた。
「閣下。あの女、紬は……恐るべき背景を持っています。彼女は『カイギ』という名の謎の組織に属し、常に『ショウセイ』という名の高度な暗殺術を使いこなしています。さらに、エドワード殿下のことを『ビタミン不足で性格が悪い』と一瞬で見抜くほどの観察眼……。あれは、どこかの国が送り込んだ、特級の調略員に間違いありません」
アルベルトは、自身の深い隈を指先でなぞりながら、低い声で呟いた。
「……指先一つで、お前の呪いを、か。……カイル、その女は今、どこへ向かった」
「北です。……おそらく、フェルゼン領へ」
「……ふん。面白い。我が領地を安息の地に選んだというのか」
アルベルトの瞳に、不気味な光が宿った。 それは、数年ぶりの興味と、それ以上に「自分の不眠を救える唯一の鍵かもしれない」という切実な飢餓感だった。
王宮の隅で、残業に追われる事務官たちが、紬のいなくなった空のデスクを見て涙をこぼしていた。
「……紬さんがいた頃は、あそこの席からいい香りがして、不思議と徹夜も乗り切れたのに……」 「今じゃ、王子の怒鳴り声と、新しい聖女様の『聖剣の試し斬りの音』しか聞こえない……。死ぬ。これ、本当に死ぬわ……」
王都から「癒やしの源」が消えたことに、まだ誰も(エドワードすらも)本当の意味で気づいていない。 ただ一つ確かなのは、紬を捨てたことで、この国は**「世界一寝不足な地獄」**への坂道を転げ落ち始めたということだった。




