第六話 眠りの残り香
一時間後。 静まり返った街道に、乗合馬車の出発を知らせる鐘の音が、夕暮れの空気を震わせて響き渡った。
紬は、自分の肩に預けられたカイルの頭を、傷つけないよう慎重に樫の木の根元へと移した。
「……よし。患者、完全沈没。……やっぱり、物理攻撃(指圧)こそが最大の癒やしね。あー、私も早く宿を見つけて、誰の気兼ねもなく12時間は寝倒したい……」
彼女は満足げに腕を回して筋肉をほぐすと、足元でスヤスヤと、まるで幼子のような無防備な寝顔を晒している「元・隈男」を見下ろした。 紬はふと思い出したように、麻袋から予備の布を取り出すと、カイルの胸元にそっと置いた。その上には、使い道のなくなったハーブの束と、走り書きのメモを添えて。
『起きたら、まず水を1リットル飲みなさい。脳が干からびてるわよ。あと、そのハサミで自分の指切らないようにね。お大事に、国宝級の隈男くん。――紬より』
紬が馬車に乗り込み、車輪が再びガタゴトと乾いた音を立てて北へと去っていった数分後。 樫の木の根元で、一組の瞳がパチリと開いた。
その瞳には、先ほどまでの濁りや絶望は微塵もなかった。 代わりに宿っていたのは、深海のように静かで、それでいて鋭利な刃物のような光だ。
「……呪いが、消えた……? いや、眠りによって、荒れ狂っていた魔力の奔流が完全に抑え込まれたのか……?」
カイルは、自分の首筋――まだ紬の温かな指の感触が、微かな痺れを伴って残っている場所を、聖遺物に触れるようにそっとなぞる。
彼は、第一王子エドワードが隠密騎士団に強いた**『不眠の制約』の犠牲者だった。「眠る暇があるなら働け」という王子の歪んだ思想が込められたその魔術は、対象者の脳を強制的に活性化させ続け、数日間眠りを奪うという呪い同然のもの。三日三晩、その強制的な「覚醒」という名の拷問を彷徨い、脳が焼け付くような疲労で精神が崩壊する一歩手前だった自分を救ったのは、王宮の高位魔導師ですら解除できなかった「脳と神経の根源的な鎮静」**だった。
「……紬、と言ったか。……あり得ない。あのような『理』に基づいた癒やし、この大陸のどの魔導体系にも存在しないはずだ。……それに、カイギ……オウジ……?」
カイルの脳裏に、紬が去り際に呟いた言葉がリフレインする。
『明日の会議も、王子の小言も、全部忘れていいわよ』
(……カイギ。聞いたこともない言葉だ。おそらくは、我ら隠密すら関知し得ぬ**『未知の特殊任務』**の隠語か。……王子。……第一王子エドワード様から賜った「不眠の強制」という名の過酷な勅令を、あの女は『小言』だと……? 国の絶対的な意志を、ただの雑音のように口に放り出すとは。あの女、一体どれほどの地獄を渡り歩いてきた存在なんだ……)
カイルは、胸元に置かれたメモを手に取った。 そこには『脳が干からびてるわよ』という、彼には理解不能な「人体の構造に関する高度な警告」が含まれていた。
「……脳が、干からびる……。物理的に精神を乾燥させる未知の呪いまで熟知しているのか。……お大事に、国宝級の隈男くん……? ――ふっ、皮肉な女だ。私の正体を知っていて、あえて道化として扱ったか」
カイルは、偽装用の剪定バサミを握り締めると、一瞬で「しがない庭師」の皮を脱ぎ捨てた。 立ち上がったその気配は、王国の闇を支配し、影から国を支える隠密騎士団の精鋭――そのものへと変貌していた。前世で紬が戦っていた「無茶な仕様変更」や「深夜の緊急招集」という名のストレスを、カイルは想像を絶する**「高度な情報戦」**として誤読し、彼女への畏怖を深めていた。
「……見つけた。アルベルト閣下の、あの方の荒れ狂う魔力を鎮められるのは……世界中で、あの女だけだ」
カイルは、紬が去った北の空を見据えた。 その瞳には、主君への忠誠心。そして、自分の魂を「指先一つで掌握した」女への、抗いようのない執着が渦巻いている。
(……二度と、逃がさない。僕にこれほど深い『暗眠』を教えた責任、きっちりと取ってもらわなくては。……それに、あの『修正依頼』という凄まじい響きの呪文の正体も、必ず暴いてみせる……!)
カイルはメモを肌身離さず懐に仕舞い込むと、自嘲気味に笑った。 これほどまでに五感が研ぎ澄まされ、殺意が澄み渡っているのは数年ぶりのことだ。 彼は音もなく影に溶け込むと、紬の乗った馬車の轍を追って、北へと疾走を始めた。




