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聖女の力は安眠のために。〜ブラック企業帰りの私は、現代知識で冷徹公爵を寝かしつけます〜  作者: サバ味噌饅頭
第1章:聖女、有給消化の代わりに追放される

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第五話 温冷療法と風池(ふうち)

「……何をするつもりだ……? 私は、ただの庭師だ。構わないでくれ……」


警戒心を剥き出しにするカイル。しかし、その声には力強さはなく、風に吹かれる枯れ葉のように震えている。 紬はそんな彼を意に介さず、テキパキと準備を進めた。広告業界という名の戦場で、締切直前にパニックを起こしたディレクターや、無理難題を押し付けるクライアントを何度も黙らせてきた彼女にとって、この程度の拒絶は日常茶筆だ。


「いいから大人しくして。あんたの脳は今、壊れた換気扇みたいに熱を持ってるの。そのまま放置してたら、明日には本当に廃人よ? 恋愛どころか、日常会話も怪しくなるわよ」


「……れん、あい……? 何を……」


紬は手際よく水筒からお湯を注ぎ、清潔な布を浸して絞った。立ち上る湯気と共に、道中で摘んだミントに似た清涼ハーブの香りがふわりと広がる。


「はい、失礼。まずこれを目元に置くわよ。眼輪筋がんりんきんを物理的に温めて緩める……これが快眠への最短ルートなんだから。暗闇と熱、これが脳への『休息信号』になるの」


「っ、熱……いや、温かい……。何だ、この感覚は……?」


カイルは、視界を覆った蒸しタオルの心地よさに、思わず深い吐息を漏らした。 網膜の裏側をジンジンと突き刺していた鋭い痛みが、湿った熱によって解きほぐされていく。さらにハーブのメントール成分が、熱を持った眼球を優しく撫でるように冷やし、混濁していた意識に一筋の清涼感を与えた。


「温めながら、ハーブの気化熱で冷やす。これこそが現代……じゃなくて、私の故郷に伝わる『温冷療法』の極意よ。……さあ、次は仕上げ。一番大事なところ、触るわよ」


紬の指が、カイルのうなじへと滑り込んだ。 カイルは反射的に体を強張らせたが、紬の指先は迷いなく、彼の髪の生え際にある「安眠の関所」を捉えた。


「ここ、心臓の鼓動がダイレクトに響くくらい痛いでしょ? 名前を『風池ふうち』っていうの。脳への血流を司る、自律神経のバイパスよ」


「ぐっ……!? ――あ、あぁっ……」


紬が親指に体重を乗せ、適切な角度で垂直に圧を加えた瞬間、カイルの喉から短い悲鳴、そして耐えきれないといったような甘い呻きが漏れた。 脳の芯を直接指先で掻き回されるような激痛。しかしそれは、数年間彼を苛んできた「呪いの重み」が、指先一つで押し流されるような、破壊的なまでの快感でもあった。


「……信じられない。血が……巡る……。頭の中を覆っていた……どす黒い霧が、物理的に……晴れていく……」


カイルの声は、もはや刺客のそれではなく、極限状態から救い出された迷子の子供のようだった。


「それは、あんたの体が『もう休ませてくれ』って絶叫してた証拠。魔法で無理やり精神を固定して蓋をするから、反動で呪いが暴走するのよ。体は正直なんだから、魔法オカルトの前に物理(指圧)で対話するのが一番なの」


紬はそのまま、親指の腹を使って側頭筋を円を描くようにほぐしていった。 現代で、深夜のオフィスで一人、こめかみを指で押さえながら「死ぬ、これ死ぬ……」と呟いていたあの時の絶望を、彼女はカイルに投影していた。


(……救ってあげなきゃ。目の前のこの男を。そして、かつての救われなかった私を)

指先から伝わるカイルの拍動が、次第に荒々しい不整脈から、穏やかな凪のようなリズムへと変わっていく。 紬は聖女としての魔力を、無意識に「指先の温度」と「圧力の精度」に変換していた。それは鑑定水晶には「リラックス・オーラ」としか表示されなかったが、限界まで張り詰めた人間にとっては、王国のどんな上位魔法よりも破壊的な癒やしだった。


「……君……名前、は……。なぜ、これほどの……」


「紬。……安眠を愛し、不毛な残業と恋愛を憎む、ただの無職。……おやすみなさい、隈男くん。明日の会議も、王子の小言も、全部忘れていいわよ。……今はただの『生き物』として、泥のように沈みなさい」


紬の最後の一押しが、カイルの意識を繋ぎ止めていた細い糸を、優しく断ち切った。

カイルの頭がガクリと、紬の肩に無防備に預けられる。 その拍子に、彼のマントの下から一振りの、禍々しいまでの黒い短剣が滑り落ちた。それは彼が「庭師」ではなく、誰かの命を狩るための「道具」であったことを示していたが、今の紬にはどうでもよかった。


(……よし、一丁上がり。さて、私もこの辺で限界……)


紬もまた、カイルの頭を支えたまま、心地よい疲労感に包まれていた。小一時間ほどだろうか。夕闇が迫る中、規則正しい彼の寝息を子守唄代わりに、紬もまた微睡みの縁にいた。カイルの重みが肩に心地よく、その深い眠りを守るように彼女の時も止まっていた。

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